稽古場にいる人の9割近くが女性です。けれど徳川の世まで、正式な茶会で女性が亭主を務めた記録は1つもありません。いつ、何が起きたのか。国の報告書にあった1行から、たどってみました。
文化庁が、2021年に1冊の報告書を出しています。
『令和2年度 生活文化調査研究事業(茶道)報告書』という、そっけない名前のものです。国が茶道だけを対象にして行った全国調査は、いまのところこれ1つだと思います。全国の茶道団体と茶道教室にアンケートを送り、あわせて1500人に意識調査をかけた、ずいぶん手のかかった仕事です。
その中に、団体の自由回答を集めた箇所があります。「課題はあるけれど、その課題に取り組むことが難しい状況にある」と答えた団体が、何に困っているかを書いたところです。
炭が手に入りにくくなった。炭を使える稽古場が消えつつある。着物の高級感、正座、作法の厳しさという、敷居の高いイメージが定着してしまった。それを払拭したいのに、内部が保守的でなかなか進まない。教室の人が減って、団体の財政が立ち行かない。
どれも、どこかで聞いたことのある話だと思います。
その並びの中に、1行だけ、私が読み返した文がありました。
働き方の多様化の中で、集会して習い事をするために時間を合わせること自体が難しくなっているほか、女性の社会進出でますます茶道人口が減っている
女性の社会進出で、茶道人口が減っている。
読んで、責める気にはなりませんでした。書いた人は、たぶん自分の教室のことを思い浮かべながら、正直に書いたのだと思います。困っていることを聞かれて、困っていることを書いた。それだけのことです。
私が引っかかったのは、別のところでした。
この1行は、裏返すと、こう言っています。──これまで茶道を支えてきたのは、働きに出ていない女性だった。
茶道の側が、自分の口で、それを言っている。国に出す報告書の中で。
同じ報告書には、数字も載っています。全国の茶道教室に聞いた、生徒の男女比です。
女性が86.4%、男性が13.6%。
年齢のほうは、60代が22.1%、70代以上が19.8%。ふたつ合わせて、生徒の4割を超えます。いちばん少ないのは20代で、6.3%でした。
そして、稽古場の外にも数字があります。全国の1500人に聞いた意識調査です。
茶道を経験したことがない人が、66.3%。
3人に2人です。そして経験したことのある人のうち、いま活動している人は1割程度しかいません。残りの88.5%は、どこかで離れています。
離れた理由も聞いています。興味関心が無くなったから、が26.2%。環境が変わって続けられなくなったから、が19.9%。学校を卒業して機会が無くなったから、が19.9%。
つまり、こういう景色です。3人に2人は入口に立ったこともなく、入った人の9割は途中で出ていき、いま残っているのは、ほとんどが60歳を超えた女性である。
数字を並べてからもう一度あの1行を読むと、たしかにそう読めます。稽古場にいるのはほとんどが女性で、その多くが60歳を超えている。その人たちが働きに出るようになれば、稽古場は空く。
ただ、ここで1つ、確かめておきたいことがありました。
それは、いつからなのか。
茶の湯には400年を超える歴史があります。その400年、ずっと女性のものだったのでしょうか。
そうではありませんでした。
ロンドン大学のクリステン・スーラックという研究者が、日本の茶道を調べた本を書いています。その中に、こう書かれています。徳川の時代まで、茶道は男性のものだった。女性が学ぶことはあったけれど、基本的な点前のごく浅い知識を与えられただけで、正式な茶会で女性が亭主を務めた記録は、1つも無い。──そういう趣旨のことです。
1つも、です。
いま稽古場にいる人の9割近くが女性で、そのはるか手前には、女性が亭主を務めた記録が1つも無い時代がある。
その間に、何かが起きています。
前の回で、明治5年、1872年の話を書きました。
この年、京都府が茶の湯の家元たちに「遊芸稼人」の鑑札を出しています。遊芸で稼ぐ人、という区分です。芸者や講釈師と同じ枠に入れられ、鑑札料を納める立場になりました。徳川の世に武家の教養だったものが、明治になって、届け出のいる商売として扱われた。
茶の湯にとっては、落ちた年です。
ところが調べていくと、同じ1872年に、同じ京都府が、まったく別のことをしています。
女紅場を開いているのです。
女紅場というのは、明治の初めに作られた女子のための学校です。京都のそれは、いまの京都府立鴨沂高等学校になっています。裁縫や読み書きを教える場として始まりました。
そこに、茶が入ります。
文化庁の報告書に、こう書かれていました。何年からかは分からないけれど、裏千家の家元夫人である千猶鹿子──真精院──が、女紅場で点茶の指導をしていた。
同じ年に、同じ府が、家元を遊芸稼人の枠に入れ、そして家元の家の人を女学校に迎えている。
落とされた側が、新しい入口を見つけている。私にはそう読めました。
ここで、もう2つ、同じころの出来事を並べておきたいと思います。どちらも技術の話に見えて、実は「誰が茶をできるか」を根こそぎ変えたものです。
1つは、立礼です。
やはり明治5年、京都博覧会の会場で、裏千家11代の玄々斎が考え出しました。畳に正座するのではなく、卓と椅子で茶を点てる。もともとは外国人をもてなすための工夫でした。
けれど、これは同時に、茶室の外へ出る手段になりました。畳が無くてもいい。正座ができなくてもいい。いまでも屋外やデパートの茶席で使われているのは、そのためです。
もう1つは、献茶式です。
明治11年、藪内家が北野天満宮で行っています。寺社で、家元やそれに準ずる宗匠が、神仏に茶を点てて捧げる。それまでの茶会は少人数のものでしたが、献茶式は違いました。大勢の門弟が集まって、1つの点前の空間を共有できる。
報告書は、これを「流派組織の拡張の重要な足がかり」と書いています。
私は、この2つを並べたときに、腑に落ちたことがありました。
茶の湯が、大人数を一度に扱えるものになった、ということです。
四畳半で3人を招く茶では、女学校の1クラスは教えられません。畳が無い教室では、そもそも始まりません。立礼と献茶式は、茶を「教室に持ち込める形」に作り替えていた。
そのすぐあとに、女学校の話が来ます。
跡見花蹊という人が、1875年、明治8年に跡見学校を開きました。いまの跡見学園です。その最初のカリキュラムに、「点茶」が入っています。
ただ、目的は茶そのものではありませんでした。
報告書はこう書いています。お辞儀の仕方から畳の歩き方に至る礼法を、茶道を通して身につけさせようとしたことがうかがわれる。
茶を教えるために茶を入れたのではない。歩き方と、頭の下げ方を教えるために入れた。
私は、この1文を読んでしばらく考え込みました。茶の湯には、点前も、道具も、掛物も、季節の移り方もあります。そのうちのどれでもなく、畳の歩き方だけが選ばれて、女子の教育に入っている。
スーラックによれば、これが全国に広がるのは1890年代です。地方の教育者たちが、次々に女学校へ茶道の稽古を持ち込みました。
そして、家元たちの動きが速い。
家元は、女学校に茶道具を寄付し、そこで授業を持ちました。修身や家庭科の教科書が、茶道を「良妻賢母」を育てる手段として位置づけていきます。
なぜそこまで速かったのか。家元制の仕組みを知ると、理由がはっきりします。
西山松之助という歴史学者が、1959年に『家元の研究』という本を書いています。家元制を実証的に調べた、最初の仕事です。
西山によれば、江戸中期のどこかで、相伝の形が変わっています。それまでは免許皆伝まで弟子に渡していたものが、弟子には教える権利だけを認め、免状を出す権利、型を決める権利、破門する権利は家元が握る形に移りました。おおよそ18世紀の前半のことです。
つまり、家元が手放さなかったのは、点前ではありません。免状を出す権利です。
だとすれば、女学校に生徒が生まれるということは、そのまま、免状の需要が生まれるということになります。
スーラックは、その先まで書いています。若い女性は特に大きな収益をもたらす顧客となり、家元が発行する免状は、嫁入り道具の1つとして、女性の妻としての価値を公式に保証するものになった。
免状が、嫁入り道具になる。
ここまでは、上から降りてきた話です。国が良妻賢母を求め、学校が礼法を求め、家元がそれに応えた。女性は、その仕組みの中に置かれた側に見えます。
けれど、報告書にはもう一筋、書かれていました。
日清戦争と日露戦争が、数多くの戦災寡婦を生んだ、というのです。
夫を失った女性が、一人で生計を立てなければならなくなる。そのとき、茶道の師範は、主要な選択肢の1つになった。
これは、上から降りてきた話ではありません。
女性は、生徒として茶の湯に入っただけではなかった。教える側の担い手にもなっています。そして、そうなった理由の1つは、良妻賢母でも、花嫁修行でもなく、食べていくためでした。
この筋は、思ったより後まで続いています。
文化人類学者の加藤恵津子が、戦後の茶道を調べた本の中で、こんなことを書いています。1925年より前に生まれた女性たちには、茶道が生計の手段だった。戦争で夫や婚約者を失い、生涯独身のまま、一家の稼ぎ手になった人が、茶道の教授になっている。
そして加藤は、そこから1つ、鋭いことを書いています。
女性は茶道を教えて食べていけない──その感じ方は、昔からあったものではない。「女は主婦」というのと同じように、戦後になって生まれた状況である。
そういう趣旨のことです。
私はここで、少し姿勢を正しました。
茶の湯が女性のものになった過程を、女性が受け身で組み込まれた話として読んでいたからです。そうではない部分が、たしかにあった。
20世紀に入るころ、茶の湯の男女比は逆転します。
明治のあいだに、茶の湯は「女は作法、男は芸術」に分かれていきました。女性の茶は表面的なものだと見られることが、長く続きます。
それでも、この時期、入口があり、食べる道が開いていたのは、女性の側でした。