茶碗の箱書きには「茶盌」とあり、本には「茶碗」とある。同じものなのに字が違う。そこから、天目・高麗・楽の三つが「もともと何だったのか」を追いました。用途も、分類も、名前も、こちら側が決めていた ── そして最後には、注文して作らせていた。
茶碗の箱書きを見ていて、気づいたことがあります。
「茶盌」と書いてあるのです。
手元の本を開くと「茶碗」とあります。道具屋の値札も「茶碗」です。同じものを指しているはずなのに、字が違う。
調べてみると、茶の世界にはこういう説明が流布していました。
「わん」の字には四つある。盌は夗に皿で、蓋の無い器を指す。抹茶の碗には蓋が無いから「茶盌」と書くのが正式である。碗は石偏だから磁器、とくに青磁。埦は土偏だから素焼き、主に天目。椀は木偏だから漆器。だから「楽」などの国焼は「茶盌」、唐物は「茶碗」か「茶埦」と書き分けられていた ──。
きれいに揃っています。私も最初、これで納得しました。
偏が素材を表し、旁が形を表す。漢字というのはよくできているものだ、と思いました。
ところが、字書を引いて手が止まりました。
『集韻』という宋代の韻書は、盌の項に「或作㼝埦」と書いています。㼝とも埦とも書く、という意味です。『正譌』は「俗作椀」──俗に椀と書く、と。
そして碗の項にはこうあります。「與盌㼝椀同」。盌・㼝・椀と同じ、と。
埦の項も同じです。「與盌㼝椀同」。
椀の項には、『廣韻』『集韻』『正韻』が揃って「與盌同」と書いています。
つまり四つは、同じ字の書き分けとして扱われている。素材ごとに使い分ける体系ではありません。
止めが一つありました。同じ椀の項に、こういう用例が引かれています。
『世説新語』に、東晋の王導が琉璃椀を挙げて言った、という話。
琉璃はガラスです。木偏の椀で、ガラスの器を指している。
念のため付け加えると、同じ項には『北史』から「木椀」の用例も引かれています。木のものも、ガラスのものも、同じ椀で書く。素材を限定していないのです。
さらに『説文解字注』を見ると、碗の項にこうありました。
「于夗皆坳曲意」
宛も夗も、くぼんで曲がるという意である、と。
つまり意味を担っているのは旁のほうで、器の形を指している。蓋の話ではありません。そもそも「盌」の上にあるのは夗であって、宀ではないのです。宀は屋根の形で、蓋に見立てられる部品ですが、盌にはそれが無い。
では日本ではどうか。
『改訂新版 世界大百科事典』の「椀」の項に、こうありました。「わん」が器物の名称として文献に明記されるようになるのは奈良時代からで、埦・鋺・椀のほか垸などとも記された。そして「土偏は土・焼物製、金偏は金属製、木偏は木製の意を表したのであろう」。
のであろう。事典自身が、推量で書いています。
白川静の『字通』も素材との対応を述べていますが、よく読むと茶の世界の説明とは合いません。碗は「陶器」であって磁器ではない。埦は素材の枠に入っていない。そして盌は「皿形の形状」から来た字だとしています。蓋の話は出てきません。
念のため、茶の側の辞典も当たりました。『原色茶道大辞典』にも『新版 茶道大辞典』にも、あの説明は見つかりませんでした。
とはいえ、字の決めごとが無いのかというと、そうではありません。
たとえば「盞」です。天目茶碗を指すときに使う字ですが、これには決めごとがあって、天目にしか使わないと心得るべきだとされます。建盞、青白盞、というふうに。
在るのです。ただし、流布している「四つの字の体系」とは、別のものが。
私が確かめられたのはここまでです。あのきれいな説明が、どこから来たのかは分かりませんでした。
ただ、一つ分かったことがあります。
字が一つになる前、そこには三つの出どころがあった、ということです。中国から来たもの。朝鮮半島から来たもの。そして日本で焼いたもの。
では、その三つは、もともと何だったのでしょうか。
まず、天目から。
名前の由来はよく知られています。鎌倉時代、浙江省の禅寺・天目山に学んだ僧が、帰国のときに黒い釉のかかった碗を持ち帰った。それを日本で「天目」と呼んだ ──。
ところが、実体のほうは天目山の産ではありません。
福建省建陽県の建窯で焼かれた「建盞」です。文献に現れるのは五代の末、10世紀の中ごろ。考古の発掘で確かめられるのは北宋の末、12世紀の初めごろ。
名前が産地を指していない。第1章で見た字の話と、少し似ています。
では、中国では何に使っていたのか。
北宋の蔡襄が1051年に著した『茶録』に、はっきり書かれています。
茶色白、宜黒盞
茶の色は白いので、黒い盞が適する。
続けて、建安 ── 建窯のことです ── で造るものは紺黒色で、兔の毛のような文があり、生地はやや厚いので熱すると冷めにくく、最も肝要である、と。そして最後にこうあります。
其青白盞、鬥試家自不用
青白い盞は、闘茶をする者は用いない。
徽宗の『大観茶論』にも同じ趣旨があります。盞の色は青黒を貴ぶ。「取其燠発茶采色也」──茶の色を引き立てるからである、と。同じ書の別のところでは、点てた茶の色は「純白を上真と為す」としています。
茶が白かったのです。だから、それを映す碗が黒かった。
この蔡襄の『茶録』によって天目が注目され、それまでの青磁・白磁を圧倒していったとされます。
つまり天目は、中国では茶を飲むための、実用の碗でした。供える器でも、飾る器でもありません。茶を点てて、飲むために作られている。
ここで、静かに二つだけ付け加えておきます。
一つは、天目の格付けについてです。建窯系には曜変、油滴、禾天目(兎毫盞とも呼びます)などがありますが、その中の「灰被天目」は、生産されていた当時はむしろ下手と見られていたようです。いま私たちが並べている順序は、向こうでの評価とは違っている。
もう一つは、天目台のことです。天目や青磁の碗は、台に載せて扱いました。ところが不思議なことに、現存する天目台のほとんどは明時代のものです。碗のほうがずっと古いのに、台は新しい。
そして最も「真」として用いるべきとされるのが「尼崎台」と呼ばれる唐物の真塗覆輪添の台で、これは近年、南宋時代のものと判明したそうです。
では、その碗が日本に来て、どうなったか。
日本に来た天目は、台に載せられました。
台天目です。神仏や、身分の高い方に献じるときに用いる。唐物の茶碗のなかでも最高の格に置かれ、いまも四ヶ伝の点前として残っています。
中国では茶を飲むための実用の碗でした。それが日本では、供える器になった。
同じ物が、渡った先で別の役をもらっている。
『君台観左右帳記』という室町の伝書は、曜変を建盞のうち最上に置いています。ここでは文言を引きません。というのも、この書は原本が現存せず、能阿弥と相阿弥の奥書をもつ写本の二系統が伝わるだけで、資料によって文言が違うからです。
(格付けを決めた書物のほうに、原本が無い。前の回で『南方録』について書いたのと、同じ形です。)
さて、ここからが妙なのです。
『山上宗二記』に、こういう一句があります。
「唐物廃りたり」
利休の侘び茶が流行するとともに、それまでの唐物茶碗 ── 天目も青磁も白磁も ── が、急激に使われなくなっていく。
17世紀、江戸時代に入ると、中国産の茶碗、とりわけ天目は、特殊な場合を除いてほとんど使われなくなってしまいます。その変化の節目は天正14年(1586)から翌15年にかけてだったと、茶会記の記述から読み取れるそうです。原因は「数寄」という思想が確立したことにあったと考えられています。
最高の格に置いた。その三十年ほど後には、使わなくなっている。
格付けが間違っていたわけではありません。茶のほうが変わったのです。
ただ一つ、例外がありました。「珠光青磁」です。青磁としては失敗作、下手物とも言えるような、黄色がかった緑色の碗。それが侘茶に向くとして、天目台に載せずに使われたと思われる、とされています。
最高格のものが退場して、失敗作が残った。
では、代わりに何が来たのか。