人間の形をしていて、人間の寸法をしていないものが、目の前に横たわっている。それなのに奇妙に見えないのはなぜか。ロン・ミュエク展の会場で考えたことから、茶の湯の「見立て」と、一休の骨の話へ。
先日、森美術館の「ロン・ミュエク」展へ行ってきました。
オーストラリア出身の彫刻家で、人間をきわめて写実的に造形することで知られる作家です。毛穴も、血管の浮きも、皮膚のたるみも、そこにあります。ただし、実物大ではありません。天井に届きそうなほど巨大だったり、手のひらに乗りそうなほど小さかったり、あるいは奇妙に引き伸ばされていたりする。
冷静に考えれば、変です。人間の形をしていて、人間のサイズをしていないものが、目の前に横たわっている。
にもかかわらず、会場を歩いていて「奇妙だ」という感覚は、ほとんど湧いてきませんでした。
代わりに立ち上がってきたのは、もっと近しい感情でした。この皺を知っている。この表情を見たことがある。この手の置き方を、誰かがしていた。
なぜそう感じるのか。
最初は、リアルさを追いかけた結果として寸法が歪んだのだろう、と考えていました。正確さを突き詰めていったら、副産物として拡大や縮小が生まれた——という筋道です。
けれども、それは逆でした。
歪みこそが、リアルなのです。
考えてみれば、私たちは誰ひとり、他人を実物大では見ていません。幼い頃に見上げた大人は、天井のように巨大でした。病床の人を看取ったとき、記憶に残っているのは顔だけが異様に大きい像です。すれ違っただけの人は、小さく、遠い。
人がそこにいたという経験に、正しい寸法などありません。近ければ大きく、心に食い込めば大きく、通り過ぎれば小さい。それが、私たちが実際に受け取っている世界の姿です。
だとすれば、実物大の方こそ抽象です。メジャーで測れば正しい。けれども平均であり、規約であって、誰の体験でもない寸法です。誰ひとりそんなふうには見ていないのに、それを「本当の大きさ」と呼んでいる。
ミュエクは、正確さを犠牲にして歪めたのではありません。歪みを採ることで、正確になっている。私たちが本当はそう見ているものを、そのまま出しているから、奇妙に見えないのだと思います。
そしてもうひとつ、会場で思ったことがあります。ミュエク自身には、そもそも「人間を作っている」という感覚がないのではないか。
自分の内側から出てくる抽象的なものを、そのまま形にしている。それがたまたま、私たちの目には具体的な人間に見えているだけで、彼にとってはあくまで抽象表現なのではないか。——これは作品を見ながら私が感じたことで、作家がそう語っているという話ではありません。ただ、そう考えるといろいろな辻褄が合う気がしたのです。