茶湯徒然帖 / これまでの問い
CHANOYU TSUREDURE

利休は「茶道」と言わなかった

これまでの問い

「茶道」と「茶の湯」。同じものを指す二つの言葉だと思っていました。けれど利休は、そのうちの一方を使っていません。いつ、その言葉は生まれたのか。そして、置き換えられた「茶の湯」のほうは、何を指していたのか。

四つの章を、順にたどります
  1. 外から来た人が、四百年前に分けていたポルトガル人の宣教師が見た、二つの茶
  2. 利休は「茶道」と言わなかった——その言葉が現れたのは、利休の死から百年後
  3. 「習う」が「点前を習う」になった日——茶の湯が茶道になるとき、何が足されたのか
  4. 名前は、湯を指しているでは、もとの名前は何を向いていたのか

第一章 外から来た人が、四百年前に分けていた

ジョアン・ロドリゲスという人がいます。

ポルトガルに生まれ、天正五年、一五七七年に日本へ渡りました。まだ十五、六の少年です。そのままこの国で育ち、イエズス会の司祭になりました。

彼の渾名は「ツウズ」といいます。通事——通訳のことです。日本語をあまりに巧みに操ったので、名前より先に肩書きのほうで呼ばれるようになった。豊臣秀吉とも、徳川家康とも、直に言葉を交わしています。

そして彼は、『日本大文典』を書きました。慶長九年から十三年にかけて、長崎で三巻に分けて刊行されたものです。日本語という言語の文法を、初めて体系的に書き記した書物でした。

つまりロドリゲスは、言葉の違いに気づくことを職業にしていた人です。日本人が意識もせずに使い分けているものを、外国語として観察し、分類し、書き留める。それが仕事でした。

慶長十五年、彼は陰謀に巻き込まれてマカオへ追放されます。日本へは、二度と戻れませんでした。その地で書いたのが『日本教会史』です。三十年余りを過ごした国のことを、遠く離れてから書いた記録ということになります。

その『日本教会史』に、茶の湯の記述があります。

そこでロドリゲスは、日本人の茶を二つに分けています。

一つは、社交と遊興のための茶。彼はこれを東山殿の茶と呼びます。足利義政の時代から続く、唐物を飾り、人を招き、もてなす茶です。もう一つは、禅の思想を取り込んだ茶。数寄の茶です。

分けたのが日本人ではなく、外から来た宣教師だったということに、私はしばらく引っかかっていました。

中にいる者は、たいてい自分のしていることを分類しません。息の吸い方に種類を付けないのと同じです。分類は、外から見た人の仕事です。日本語の文法を初めて書いた人が、茶の湯の文法も見ていた——そう考えると、腑に落ちるところがあります。

同じ「茶の湯」という一語で呼ばれている行いのなかに、性質の違う二つが同居している。彼はそれに気づいた。しかも四百年前に、です。

この記述を検討した研究では、後者の数寄の茶こそが精神的な修道としての「茶道」の本義である、と論じられています。私はその読みを採りません。けれど、区別があったという事実のほうは動きません。

社交の茶と、修道の茶。二つがあった。

では、当の日本人は、それを何と呼んでいたのでしょうか。

第二章 利休は「茶道」と言わなかった

千利休の言葉として、私たちはずいぶん多くのものを覚えています。

そのかなりの部分が、『南方録』という書物から来ています。利休の高弟・南坊宗啓が師の言葉を書き留めたとされる茶書で、茶の湯の聖典のように扱われてきました。

ところが、この書には重い問題があります。

成立は元禄三年、一六九〇年。利休が死んでちょうど百年、その百回忌に当たる年です。編んだのは筑前の武士・立花実山。宗啓が自分の手で書いたという原本は、伝わっていません。今日では偽書と見るのが定説です。

そして、ここからが本題です。

『南方録』に出てくる「茶道」「露地」「懐石」といった言葉は、利休の時代には一般的ではありませんでした。

つまり私たちは、利休の言葉として、利休が使っていなかった語彙を覚えている。露地を歩き、懐石をいただき、茶道を習っていると言うとき、その三語はいずれも利休の口から出たものではない可能性が高いのです。

これは『南方録』が無価値だという話ではありません。使い方が違うだけです。

この書は「利休が実際にそう言った証拠」としては使えません。使えるのは、「江戸中期の茶人たちが、利休をそう理解し、そう語りたかった証拠」としてです。百年後の人々が、自分たちの茶をどう位置づけたかったのか——そちらの史料として読めば、これほど雄弁なものはありません。

では「茶道」という語そのものは、いつ現れたのでしょうか。

茶の湯史の研究者・神津朝夫は、書名に「茶道」を冠した早い例として、二冊を挙げています。『茶道便蒙鈔』と『茶道要録』。どちらも山田宗徧という茶人が著したものです。宗徧は、利休の孫・宗旦の弟子にあたります。

『茶道便蒙鈔』の刊行は、元禄三年

いま、指が止まった方がいるかもしれません。先ほど『南方録』が現れた年として挙げた、あの元禄三年です。

一六九〇年。利休が死んでちょうど百年目のその年に、利休の言葉を伝えると称する書物が世に出て、同じ年に、「茶道」という言葉を掲げた指南書が刊行されている。

辞書の記述も、これと揃います。『日本大百科全書』は、茶道という言葉は十七世紀初頭になって規範的な〈道〉の思想が強く意識されて登場する、それまでは茶の湯とか数寄と呼ばれていた、と書きます。『精選版 日本国語大辞典』は、この語が一般に使われるようになるのは江戸中期、十七世紀後半から十八世紀に下ってからだとしています。

利休が死んだのは天正十九年、西暦一五九一年です。利休は、この言葉を知らずに死にました。

そして、ここに面白い事情があります。

「茶道」の二字は、道の名前であると同時に、人の名前でもありました。

主君に茶をもって仕える者のことを、さどう、といいます。字は茶頭とも、茶堂とも、そして茶道とも書きました。信長や秀吉が召し抱えた者たち——今井宗久、津田宗及、そして千利休——が、まさにその職にあった人です。江戸幕府にも御茶道頭という役職が置かれています。

だから、紛らわしい。同じ二字を「さどう」と読むと、道のことなのか人のことなのか分からなくなる。

『精選版 日本国語大辞典』は、こう記しています。

茶の湯の道のことを「さどう」というのは江戸時代まではまれであり、茶頭との混同を避けるために「ちゃどう」というのが普通であった。

つまり四百年前、「さどう」といえば、それは人のことでした。道のほうは「ちゃどう」と読んで、わざわざ避けていたのです。

いま、私たちは普通「さどう」と読みます。

入れ替わりました。

利休は「茶道」と言いませんでした。けれど当時の言い方でいえば、利休こそが「茶道」だったのです。秀吉に茶をもって仕える、その人のことです。

言葉が後から整えられたのなら、その言葉が指す中身も、同じころに整えられたはずです。

「茶道を習う」とは、何を習うことなのでしょうか。

第三章 「習う」が「点前を習う」になった日

いま茶道を習うといえば、まず点前を習います。

袱紗を捌き、柄杓を扱い、茶を点てる。順序を覚え、体に入れる。稽古とはそういうものだと、誰もが思っています。私も長くそう思ってきました。

けれど、これも当たり前ではありません。

先ほどの神津朝夫は、二つの言葉をこう置き分けています。

茶の湯とは、茶会(茶事)を行い、その亭主か客になることであった。対して茶道とは、今日一般には多くの茶の点前を体系的に習得する習い事と理解されている。

そして、面白いことを指摘しています。

利休の茶の湯は、台子を使えない小間で、新しく作らせた和物の道具を使うものでした。唐物の茶入や台天目を使わないのなら、必要な点前は濃茶と薄茶の運び点前、それに炭手前だけで足ります。

だから、習得にさほど時間はかかりません。町人も武家も、すぐに茶の湯を始めることができた。

ところが、宗旦の弟子・山田宗徧が門弟に教えたものの中には、茶事では実際には要らなくなっていた点前が含まれていました。唐物、台天目、そして台子。

これは押しつけではなかったようです。門弟の側に「たとえ実用の必要がなくとも、茶の湯の点前をいろいろ学びたい」という意欲が芽ばえるのは自然なことだ、と神津は書きます。

そうして、本来それを持たない人には無用の点前までを教え、最終的には真台子の秘伝までを伝授するものとして「茶道」が成立していった。

秘伝の点前を習っていることが、長年の修業を重ねて奥義を極めた証になる。そういう仕組みが、ここで生まれます。

似たことが、同じ頃、別の場所でも起きていました。武家の武術です。戦場での実用を持っていた戦国のそれは、平和な時代に、自らの肉体と精神を鍛える修道性を強調する「武道」へと転化していきます。家元制の研究者・西山松之助は、それが江戸前期の寛永年間(一六二四〜四四)に始まったと指摘しました。千家でいえば、ちょうど宗旦の時代にあたります。

武術が武道になり、茶の湯が茶道になる。同じことが、同じ時期に起きていたのです。

そして時代が下ります。点前の良し悪しを判断する基準として「点茶七要」という考え方を整理して示したのは、大日本茶道学会を創めた田中仙樵という人でした。近代の仕事です。もとは日常の生活動作でしかなかった茶の準備が、身体運動の合理性という物差しで測られるようになり、その動きを可能にする体を作ること自体が、修行に含まれるようになっていきます。

同じころ、別のことも起きています。

「わび」「さび」が茶の中心概念として語られるようになった時期を調べた研究によれば、江戸期の茶書ではこの二語はさほど使われていません。明治に重んじられたのは、むしろ「質素」「質朴」でした。わび・さびが茶の代名詞として宣伝されるのは大正から昭和の初めにかけてで、定着したのは戦後です。

言葉が整えられ、稽古の中身が定まり、理念が広まる。私たちが「昔から続く茶道」と思っているものの輪郭は、その多くがこの百年ほどのあいだに引かれています。

神津は、現在についてこう書いています。

現代の茶道では、茶事では必要のなくなった点前を数多く習得する一方で、茶道を習うだけでは茶事ができなくなっているようにみえる。奥伝まで伝授された茶人でも茶事の亭主をできないことが、実際にある。ところが唐物点前どころか習い事もおぼつかない初心者でも、運び点前だけで堂々と茶事の亭主をつとめることが可能なのである。

厳しい観察です。

ただ、これは誰かの怠慢を責めた文ではないと思います。四百年かけて枝が伸びた結果、幹のほうが見えにくくなった——そういう話です。枝は美しく、伸ばした人たちには伸ばすだけの理由がありました。

古いから偉い、新しいから偽物、という話でもありません。どんな伝統も、どこかで誰かが形にしています。ただ、いつ誰が形にしたのかを知っておくと、その形を絶対だと思わずに済みます。

では、その形が引かれる前は、何と呼ばれていたのか。

もとの名前に、戻ってみます。

第四章 名前は、湯を指している

茶の湯。

改めて字を見ると、奇妙な名前です。

点前とは言っていない。茶会とも言っていない。道とも言っていない。、と言っています。茶のための、湯。

私は長いあいだ、これを不思議に思ってきました。行いの名前なら、点てることや飲むことを指しそうなものです。集まりの名前なら、会や席でよかったはずです。それなのに、この呼び名が指しているのは、茶が入る前の、ただの湯です。

いまは、こう読んでいます。

この名前は、準備の側を向いている。

湯を沸かす、と一言でいいますが、そこに含まれるものを数えていくと、驚くほど多い。

まず、水です。よい水を選び、清らかに保つ。茶の味の大半は、水で決まります。

炭がいります。ただの炭ではありません。洗って、干して、寸法を揃えたものです。爆ぜないように、香りが立つように、火が客の時間に合わせて育つように。

灰があります。これは買ってくるものではありません。何年も、ときには何代も使い込まれ、篩われ、育てられてきた灰です。それを毎回、形に整える。灰形は、湯が沸くまでの火の道筋そのものです。

そして道具。その日の客に、その日の季節に、かなうものを選び、洗い、拭き、置く。

これらは全部、客が来る前に終わっています。

客は、そのほとんどを見ません。水屋で何が起きていたか、灰にどれだけの時間がかかっていたか、炭がいつ洗われたか——席に座った人には見えません。見えないまま、湯だけが、ちょうどよく沸いている。

私は、そこが茶の湯だと思っています。

目的があるわけではないのです。人格を磨くためでもなければ、何かを究めるためでもない。ただ、来る人のために湯を用意して、待っている。その一服を分かち合う。それだけのことのために、水と炭と灰と道具の全部が整えられている。


情緒的な話に聞こえるかもしれません。けれど、これは測ることができます。

一九六八年、五つの茶室と露地の明るさを照度計で実測した研究があります。

障子を閉めた昼の茶室の中は、三十四ルクス以下に保たれていました。そして露地では、門から腰掛待合へ、大樹の下を過ぎ、植込みの蹲踞へと進むあいだに、明暗が規則正しく繰り返されていた。露地と茶室のつなぎ目には、目が暗さに慣れるための配慮が認められたと報告されています。

さらに、秋の本格的な茶事を実測した際には、障子に掛けた簾や突上げ窓の支えによって自然光が繊細に調節される様子が観察され、それが古典の茶書に書かれた規範と一致していたことが確認されています。

つまり、こういうことです。

客の目が暗さに慣れるように、露地の明るさは配分されている。その配分は、昔の茶書が指示していた通りだった。そしてそれは、六十年近く前に、照度計で測られている。

客のために整える、というのは、心がけの話ではありません。光の量にまで及んでいます。


道を整え、立派な人格になる。それが茶道の目指すところだとすれば——実際、研究の側もそう記述しています。茶道とは禅と結びついた人間形成の修行道である、精神修養と礼法を究める道である、と——それはそれで、立派なことだと思います。

ただ、茶の湯という名前は、そちらを向いていない。

湯を沸かして、人を待つ。そのために、見えないところを全部整える。名前が指しているのは、そこだと私は読んでいます。

私たちが「茶道教室」ではなく「茶の湯学」と名乗っているのは、そういう理由です。点前を教えないという意味ではありません。ただ、点前の手前にあるもの——なぜその水なのか、なぜその炭なのか、その灰はどこから来たのか——を、一緒に見ていきたいと思っています。

一服を分かち合うために、その前に何が起きているのか。

それを知ってから飲む茶は、同じ茶でも、少し違います。


典拠

※「茶道」の初出そのものは分かっていません。神津も「書名に冠した早い例」と書いており、初出とは述べていません。

はじまりの茶の湯学 武井宗道

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