型をこわした人だと思われている。じつは逆で、型を徹底して守った人。その型が、師と同じことをしない、という型だった。
古田織部は、型をこわした人だと思われている。ゆがんだ茶碗、大胆な模様。当時の人が「へうげもの」と書いたのも本当だ。だが茶事のやり方を見ると、まるでちがう。師の利休が一汁二菜がよいと言えばそのとおりにし、夏の口切に招かれたときは、暑くても袷の紋付で現れた。守るところは、きっちり守っている。
型破りという言葉があるが、型がなければ破れない。型を持たずに崩すのは型なしという。織部が変えたのは一点だけ ── 師と同じことをしない、というところである。利休のわびは町人の茶だった。織部が生きたのは大名が並ぶ時代。そこで武家の茶の型を立てた。
型を守るから、変えるところが決まる。一汁二菜も、あらたまった席の装いも、そのまま受けついだ。そのうえで、師と同じことだけはしなかった。何を守り、何を変えるかを、自分で決められる人だった。自由に見えるが、じつはとんでもなく真面目な人である。
徳川からも豊臣からも求められ、秀吉からは「町人の茶を武家のものに改めよ」と命じられた。そのすべての向きを、いちど離れたところから見て調整していた。合わせきったところで、時代のほうが変わった。危うさは別のところから来たのではなく、同じ力の行き先だった。
大きすぎる大井戸茶碗を、十文字に切って小さくし、漆で継ぎ直したと伝わる。こわしたのではなく、茶に合う寸法に直した。
※ 元禄期の江戸の本に出てくる話。○
◎=はっきり確かめられる ○=そう伝わっている
美濃で焼かせた器。みどりの釉と、大胆な模様。それまでの茶の器に無かった色。
わざとぐにゃりとゆがませた茶碗。沓のような形から名がついた。整えないことを、はじめて美にした。
露地に置く石の燈籠。足を土に埋める形。織部の好みと伝わる。
3畳台目に、1畳の相伴席をつけた茶室。襖の開け閉めで、部屋の広さが変わる。
割れた器を漆で継ぎ、その線ごと見せる。こわれたことを隠さない。
将軍家の茶。道具を畳に直に置かず、盆の上であつかう。いまも織部流に残る。
利休の黒樂も、轆轤を使わない手捏ねだった。だが利休のゆがみは、手で作れば自然にそうなるというゆがみである。
織部はちがう。わざと、意図してゆがませた。整えられるのに、整えない。ここが分かれ目になる。
整った形は、いくつでも作れる。ゆがみは一つずつちがう。その一つを選んだ、という事実が器に残る。読み
きれいなものは、きれいだと思って終わる。ゆがんだものは「なぜ?」と足を止めさせる。器が問いかけてくる。読み
利休のわびは町人の茶だった。大名が並ぶ席では、地味すぎると場がもたない。時代が変わっていた。読み
利休は躙口を作り、刀を置かせ、頭を下げさせた。茶室の中では身分が無い、という形である。2畳まで削った、一点に絞る部屋だった。
織部は反対のことをした。部屋のほうを、茶事の途中で形が変わるものにした。
初座では相伴席を通路にして、亭主が給仕口から料理を運ぶ。このとき部屋は4畳台目。◎
中立のあと、2枚の襖を入れて相伴席を消す。部屋は3畳台目になり、客は1畳に1人ずつで広く座れる。◎
大名が客に来る茶である。毒をはじめ、何かあったときに供の者を控えさせられる。身分を消すのではなく、部屋のほうを身分に合わせた。読み
道具や茶室のほかに、織部という人そのものについて残っている話が三つある。守った話と、はみ出した話が、同じ人のものとして残っている。
夏の口切の茶事に招かれたとき、織部は暑い盛りにもかかわらず袷の紋付で現れたと伝わる。
季節よりも、席の改まりに合わせた。型をこわす人の振舞いではない。
慶長4年(1599)2月28日、博多の豪商神屋宗湛が織部の茶会で出された茶碗を見て、「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也」と日記に記した(『宗湛日記』)。
あとの時代の評ではない。同時代の人が、その場でそう見た。土岐市はこの日にちなんで、2月28日を「織部の日」としている。
利休が追放されたとき、秀吉を憚って誰も近づかないなか、淀まで見送りに出たのは織部と細川三斎の2人だけだった。
これは利休自筆の書状から確かめられる。天下人の怒りを買った人を見送るのは、自分も疑われるということである。
形は逆に見えるが、変えたのは時代に合わせるところだけである。守るところは守った。師と同じことをしない ── それが利休から受けついだ型だった。
慶長20年(1615)、大坂夏の陣のあと、織部は切腹を命じられた。73歳。子たちも連座し、古田家は断絶する。徳川方の武将で切腹を命じられたのは、織部ただ1人である。
利休のときと同じで、なぜ死ななければならなかったのかが、はっきりしない。しかも織部は、最後まで何も語らなかった。
・大坂の陣のあと、徳川から切腹を命じられた
・家臣の木村宗喜が、京への放火を企てた罪で捕えられた
・弁明した記録が、まったく残っていない
・罪状の中身がはっきりしない
・内通を示す当時の記録が一つもない
・木村宗喜が実在したのかさえ、確かめきれないという見方もある
説はいくつもある。徳川方の作戦を矢文で城へ知らせた(『続武家閑談』)、天皇を人質に取り京を焼く企てに関わった(『藩翰譜』)……。だがどれも江戸になってから書かれた本で、当時の記録ではない。
織部は豊臣と徳川のあいだを取り持とうとしていた。新しい時代に新しい価値を生む人は、時の権力から見ると怖い。師のときと、同じ形である。
一汁二菜を変えず、あらたまった席では暑くても袷の紋付で現れた。崩してよいところと、いけないところを分けていた。
利休が遺した型は、形ではなく師と同じことをせず、時代に合わせよという型だった。織部はそれを守りきった。師のまねをしないことが、師に従うことだった。
武家の茶の礎を築き、将軍の指南役になった。時代に合わせる力が、そのまま権力のそばへ運んだ。すごさと、あぶなさは同じところから出ている。古田家は断絶したが、型のほうは小堀遠州へ渡った。
利休が削り、織部が足した。正反対のことをしたように見えて、2人がしたことは同じだった。
時代に合わせて、自分で型を決めた。
織部は、型をこわした人ではない。自由な型を持っていた人である。
型を守るとは、決まった形をなぞることだと思われやすい。だが利休が遺した型は、形ではなかった。師と同じことをせず、時代に合わせよという型である。
茶には守破離という言葉がある。離とは、どこかへ行ってしまうことではない。いちど自分から離れて、自分を俯瞰することだと私は思っている。今どういう状態で、周りが何を求めていて、どう振る舞えばよいかが、そこから自然に見えてくる。
織部は徳川からも豊臣からも求められ、秀吉からは武家の茶を立てよと命じられた。その向きのちがう力を、離れたところからすべて調整していた。自由に見えたのは、調整しきっていたからである。ここまでできた大名は、当時ほかにいなかったのではないか。
織部が小堀遠州に渡したのも、道具の好みではなかったと考えられる。新しい型を作り、それを世の中に置き、人と人が行き交う場にする── そのやり方そのものである。遠州は作事奉行として城や庭や茶室を作り、綺麗さびと呼ばれる型を広げた。織部は自分の後の指南役に遠州を置いてから、果てている。
自由とは、型が無いことではない。自分で型を持てることをいう。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
◎ はっきり確かめられること
○ そう伝わっていること
読み 監修者の解釈。史実とは分けています
この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。
監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学