← 本棚へもどる目録茶人解剖図鑑
茶人解剖図鑑02へうげ
へうげタイプ
この人は、こんな人

古田織部ふるたおりべ

1543ごろ ── 1615 享年73
自由な型を、持っていた人

型をこわした人だと思われている。じつは逆で、型を徹底して守った人。その型が、師と同じことをしない、という型だった。

古田織部
型がなければ、
破れない。
どこを守り、
どこを変える?

古田織部ふるたおりべは、型をこわした人だと思われている。ゆがんだ茶碗ちゃわん、大胆な模様。当時の人が「へうげもの」と書いたのも本当だ。だが茶事ちゃじのやり方を見ると、まるでちがう。師の利休りきゅう一汁二菜いちじゅうにさいがよいと言えばそのとおりにし、夏の口切くちきりに招かれたときは、暑くても袷の紋付で現れた。守るところは、きっちり守っている

型破りという言葉があるが、型がなければ破れない。型を持たずに崩すのは型なしという。織部おりべが変えたのは一点だけ ── 師と同じことをしない、というところである。利休りきゅうのわびは町人の茶だった。織部おりべが生きたのは大名が並ぶ時代。そこで武家の茶の型を立てた

古田織部と かんけいのあることば
へうげひょうげ/おどけ
一汁二菜いちじゅうにさい
守破離しゅはり
武家茶道ぶけさどう
織部焼おりべやき
相伴席しょうばんせき
この人の、いちばん強いところ

型を守るから、変えるところが決まる。一汁二菜いちじゅうにさいも、あらたまった席の装いも、そのまま受けついだ。そのうえで、師と同じことだけはしなかった。何を守り、何を変えるかを、自分で決められる人だった。自由に見えるが、じつはとんでもなく真面目な人である。

徳川とくがわからも豊臣とよとみからも求められ、秀吉ひでよしからは「町人の茶を武家のものに改めよ」と命じられた。そのすべての向きを、いちど離れたところから見て調整していた。合わせきったところで、時代のほうが変わった。危うさは別のところから来たのではなく、同じ力の行き先だった。

この人を あらわすもの
十文字じゅうもんじ茶碗ぢゃわん切って、継いだ茶碗ちゃわん

大きすぎる大井戸茶碗おおいどぢゃわんを、十文字じゅうもんじに切って小さくし、漆で継ぎ直したと伝わる。こわしたのではなく、茶に合う寸法に直した
元禄期げんろくきの江戸の本に出てくる話。

生涯美濃の武将から、天下一てんかいち茶匠ちゃしょう
古田織部の生涯
生年は天文てんぶん12年(1543)と13年の2説ある。『龍宝山大徳寺誌りゅうほうざんだいとくじし』は七十二卒、松屋久重まつやひさしげ古織公伝書こしょくこうでんしょ』は73歳と記す。ここでは12年説(享年73)をとる
へうげもの
歪んだ沓形の茶碗を差し出す織部と、目を丸くする客これが、面白い。
わざと歪ませる。ふざけているのではない。師と同じことをしない、という型である。
古田織部が つくったものゆがませ、足したもの

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

織部焼おりべやき

美濃で焼かせた器。みどりの釉と、大胆な模様。それまでの茶の器に無かった色。

沓茶碗くつぢゃわん

わざとぐにゃりとゆがませた茶碗くつのような形から名がついた。整えないことを、はじめて美にした。

織部燈籠おりべどうろう

露地ろじに置く石の燈籠とうろう。足を土に埋める形。織部の好みと伝わる。

燕庵えんなん

3畳台目さんじょうだいめに、1畳の相伴席しょうばんせきをつけた茶室。襖の開け閉めで、部屋の広さが変わる

継ぎ

割れた器を漆で継ぎ、その線ごと見せる。こわれたことを隠さない

武家の茶の作法

将軍家の茶。道具を畳に直に置かず、盆の上であつかう。いまも織部流おりべりゅうに残る。

継いで、見せる
継いだ茶碗を持ち上げ、継ぎ目を指さす織部割れたところが、景色。
割れたところを継ぎ、その継ぎ目ごと見せた十文字じゅうもんじに切った器も残っている。
沓茶碗 ── どこをゆがませたのか
沓茶碗の図解。整った茶碗と並べ、口・ヘラ目・高台・真上から見た形を示した図
整った茶碗ちゃわんと並べると、どこを変えたのかが見える。手が滑ったのではなく、一つずつ狙っている。
なぜ、わざとゆがませたのか

利休りきゅう黒樂くろらくも、轆轤ろくろを使わない手捏てづくねだった。だが利休のゆがみは、手で作れば自然にそうなるというゆがみである。

織部はちがう。わざと、意図してゆがませた。整えられるのに、整えない。ここが分かれ目になる。

1

同じものが、二つとなくなる

整った形は、いくつでも作れる。ゆがみは一つずつちがう。その一つを選んだ、という事実が器に残る。読み

2

見る側に、考えさせる

きれいなものは、きれいだと思って終わる。ゆがんだものは「なぜ?」と足を止めさせる。器が問いかけてくる読み

3

武家の茶には、華やぎが要った

利休のわびは町人の茶だった。大名が並ぶ席では、地味すぎると場がもたない。時代が変わっていた。読み

燕庵 ── 襖ひとつで、部屋の広さが変わる
燕庵の間取り図。初座は相伴席を通路に使って4畳台目、後座は2枚襖を入れて3畳台目になることを示した図
利休りきゅう待庵たいあんは2畳、一点に絞った部屋。燕庵えんなん同じ部屋が、茶事ちゃじの途中で形を変える。○=織部好おりべごのみと伝わる。
なぜ、もう一つの席を作ったのか

利休りきゅう躙口にじりぐちを作り、刀を置かせ、頭を下げさせた。茶室の中では身分が無い、という形である。2畳まで削った、一点に絞る部屋だった。

織部おりべは反対のことをした。部屋のほうを、茶事ちゃじの途中で形が変わるものにした

1

懐石かいせきのあいだは、通り道になる

初座しょざでは相伴席しょうばんせきを通路にして、亭主ていしゅ給仕口きゅうじぐちから料理を運ぶ。このとき部屋は4畳台目よじょうだいめ

2

茶のときは、襖で閉める

中立のあと、2枚の襖を入れて相伴席しょうばんせきを消す。部屋は3畳台目さんじょうだいめになり、客は1畳に1人ずつで広く座れる。

3

襖のうしろに、家来を置ける

大名が客に来る茶である。毒をはじめ、何かあったときに供の者を控えさせられる。身分を消すのではなく、部屋のほうを身分に合わせた読み

残っている話

道具や茶室のほかに、織部おりべという人そのものについて残っている話が三つある。守った話と、はみ出した話が、同じ人のものとして残っている

暑い日に、袷の紋付で来た

夏の口切くちきり茶事ちゃじに招かれたとき、織部おりべは暑い盛りにもかかわらず袷の紋付で現れたと伝わる。
季節よりも、席の改まりに合わせた。型をこわす人の振舞いではない。

「ヘウケモノ也」と書かれた日

慶長けいちょう4年(1599)2月28日、博多の豪商神屋宗湛かみやそうたん織部おりべ茶会ちゃかいで出された茶碗ちゃわんを見て、「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也」と日記に記した(『宗湛日記そうたんにっき』)。
あとの時代の評ではない。同時代の人が、その場でそう見た。土岐市ときしはこの日にちなんで、2月28日を「織部おりべの日」としている。

利休りきゅうを淀まで見送った、2人のうちの1人

利休りきゅうが追放されたとき、秀吉ひでよしを憚って誰も近づかないなか、淀まで見送りに出たのは織部おりべ細川三斎ほそかわさんさいの2人だけだった。
これは利休りきゅう自筆じひつの書状から確かめられる。天下人の怒りを買った人を見送るのは、自分も疑われるということである。

歴史の わかれ道武家の茶が、立ちあがる
かたち
整える。手のあとが自然に残る
わざとゆがませる。整えられるのに、整えない
いろ
黒。見るものがない
みどりのうわぐすりと、大胆な模様
茶室
2畳まで削る
相伴席しょうばんせきを足し、窓を増やす
だれの茶
町人の茶
大名・武家の茶
やり方
引き算
足し算
変えないところ
一汁二菜いちじゅうにさい、あらたまった席の装い
そのまま守る

形は逆に見えるが、変えたのは時代に合わせるところだけである。守るところは守った。師と同じことをしない ── それが利休りきゅうから受けついだ型だった。

まわりの 人びと人物相関図
古田織部の人物相関図
いちばん大きな なぞなぜ、織部は死んだのか

慶長けいちょう20年(1615)、大坂夏の陣のあと、織部おりべ切腹せっぷくを命じられた。73歳。子たちも連座し、古田家ふるたけは断絶する。徳川方とくがわがたの武将で切腹せっぷくを命じられたのは、織部おりべただ1人である

利休のときと同じで、なぜ死ななければならなかったのかが、はっきりしない。しかも織部は、最後まで何も語らなかった

たしかなこと

・大坂の陣のあと、徳川とくがわから切腹せっぷくを命じられた

・家臣の木村宗喜きむらそうきが、京への放火を企てた罪で捕えられた

・弁明した記録が、まったく残っていない

わからないこと

罪状の中身がはっきりしない

・内通を示す当時の記録が一つもない

木村宗喜きむらそうきが実在したのかさえ、確かめきれないという見方もある

説はいくつもある。徳川とくがわ方の作戦を矢文で城へ知らせた(『続武家閑談ぞくぶけかんだん』)、天皇を人質に取り京を焼く企てに関わった(『藩翰譜はんかんふ』)……。だがどれも江戸になってから書かれた本で、当時の記録ではない。

織部おりべ豊臣とよとみ徳川とくがわのあいだを取り持とうとしていた。新しい時代に新しい価値を生む人は、時の権力から見ると怖い。師のときと、同じ形である

利休りきゅう辞世じせいを遺した。織部おりべ何も遺さなかった。2人とも、詫びなかったことは同じである。
ただし確かなのは「弁明の記録が残らない」ということだけで、その沈黙に美学を読みこむのは、あとの世の解釈である。
嫌疑から、断絶まで
慶長20年、大坂城落城から古田織部の切腹までを示した年表
利休りきゅうは、後ろ盾の死から37日で果てた。織部おりべも、疑いがかかってから家が絶えるまでが速い
まとめ古田織部という人
1

型を、徹底して守った

一汁二菜いちじゅうにさいを変えず、あらたまった席では暑くても袷の紋付で現れた。崩してよいところと、いけないところを分けていた

2

師と同じことだけは、しなかった

利休りきゅうが遺した型は、形ではなく師と同じことをせず、時代に合わせよという型だった。織部おりべはそれを守りきった。師のまねをしないことが、師に従うことだった。

3

新しい型を立て、次の代へ渡した

武家の茶の礎を築き、将軍の指南役しなんやくになった。時代に合わせる力が、そのまま権力のそばへ運んだ。すごさと、あぶなさは同じところから出ている。古田家ふるたけは断絶したが、型のほうは小堀遠州こぼりえんしゅうへ渡った。

利休りきゅうが削り、織部おりべが足した。正反対のことをしたように見えて、2人がしたことは同じだった。

時代に合わせて、自分で型を決めた

監修者の読み武井宗道

織部おりべは、型をこわした人ではない。自由な型を持っていた人である。

型を守るとは、決まった形をなぞることだと思われやすい。だが利休りきゅうが遺した型は、形ではなかった。師と同じことをせず、時代に合わせよという型である。

茶には守破離しゅはりという言葉がある。離とは、どこかへ行ってしまうことではない。いちど自分から離れて、自分を俯瞰することだと私は思っている。今どういう状態で、周りが何を求めていて、どう振る舞えばよいかが、そこから自然に見えてくる。

織部おりべ徳川とくがわからも豊臣とよとみからも求められ、秀吉ひでよしからは武家の茶を立てよと命じられた。その向きのちがう力を、離れたところからすべて調整していた。自由に見えたのは、調整しきっていたからである。ここまでできた大名は、当時ほかにいなかったのではないか。

織部おりべ小堀遠州こぼりえんしゅうに渡したのも、道具の好みではなかったと考えられる。新しい型を作り、それを世の中に置き、人と人が行き交う場にする── そのやり方そのものである。遠州えんしゅう作事奉行さくじぶぎょうとして城や庭や茶室を作り、綺麗きれいさびと呼ばれる型を広げた。織部おりべは自分の後の指南役しなんやく遠州えんしゅうを置いてから、果てている。

決められた形をなぞるのではなく守るところを自分で決める
型をこわすのではなく時代に合わせて、型を立てる
型を自分のものにするのではなく世の中に置き、人の集まる場にする

自由とは、型が無いことではない。自分で型を持てることをいう

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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