茶の湯という方法
武井 宗道
茶の湯は、心の交わり。
けれど、心は目に見えません。
ありがとうと言いたいのに、言葉が追いつかない。
うれしいのに、どう伝えればよいか分からない。
旅先の夕暮れに、ふと胸に湧いた寂しさを、
誰にも渡せないまま持ち帰る。
感謝も、喜びも、旅愁も、
たしかにここにあるのに、目には見えません。
見えないから、渡しそびれたまま、日々は過ぎていきます。
見えないものと交わるには、見るための方法が要ります。
私にとって茶の湯とは、その方法のことです。
道ではなく、湯
「茶道」という言葉は、どこかへ向かう道を思わせます。一方の「茶の湯」は、湯を沸かし、茶を点て、飲むという、出来事そのものの名前です。
お茶を目的に置くのではなく、方法として、お茶そのものになる。私はそう考えています。
釜の湯が沸くのを待つあいだに、余分なものが、ゆっくりと落ちていきます。湯を沸かすことが、すでに茶の湯の始まりなのです。
受け取ることから、始まる
侘びは、よく「簡素の美」と言われます。けれど私は、侘びを美の様式ではなく、ものの見方の順序だと考えています。
はじめは、判断せずに、すべてを受け取る。受け取り続けるうちに、要るものと要らないものが、自然に分かれてくる。そこで初めて、削ぎ落とす。
減らすことが目的なのではありません。受け取ることが出発点です。最初から枯れているのではなく、豊かさを知りつくしたあとに、冷えていく。
ですから、知識や経験のあるなしは、茶の湯に関係ありません。けれども、心の顕れをもっと感じるためには、知識と経験が必要です。見えるものが増えるほど、「これは要らない」が、はっきりしてくるからです。
型という道具
もっとよく見たいとき、私たちは眼鏡をかけ、顕微鏡をのぞき、望遠鏡を空に向けます。
よく聞きたいときには、聴診器を胸に当て、イヤホンを耳に入れ、スピーカーで音を広げます。
目にも耳にも届かない電波さえ、スマートフォンが声や文字に変えてくれます。
見えなかったものを感じさせてくれる道具を、私たちは毎日、当たり前のように使っています。
古くから人は、型を持つことで、同じようにものごとを明らかにしてきました。先ほどの見えない想いも、一連の所作や、しつらえの型に置くことで、見えやすくなり、人に伝わるようになります。
神社やお寺にお参りするときも、同じです。手を清め、頭を下げ、手を合わせる。その型があるから、目に見えない祈りが、かたちになります。
型は、窮屈な決まりごとに見えるかもしれません。けれど本来は、人の動きの必然が、長い時間をかけて結晶したものです。
意味は時代とともに古びますが、型は空だから古びない。400年伝わってきたのは、茶の湯そのものではなく、茶の湯が起こる「位置」なのだと思います。
型を覚えると、同じ型を通ってきた400年の人たちと、同じ位置に立つことになります。
茶の湯は、教えるものでも、説明するものでもなく、伝え合う文化です。師が渡せるのは型だけで、中身は、受け取った人が自分で満たしていくものです。
亭主は、点を置くだけ
お茶会の亭主は、掛物を選び、花を入れ、道具を組みます。けれど、それらを結んで一つの物語にするのは、亭主ではなく、客です。
亭主が作り込みすぎれば、客の入る余白がなくなる。客が来る前に作り切った風情は、張りぼてにすぎません。風情は、客と同じ風、同じ味、同じ日暮れを感じ取る、その交わりのなかに生まれます。
客が何を受け取ったかは、確かめようがありません。理解は、誤解の総体でよい。だからこそ、楽しいのです。
客は、思いどおりにならない
茶の湯は、もてなしです。だから、いつも矛盾を抱えています。客は、亭主の思いどおりにはなりません。
どれほど稽古を重ねても、稽古は本番の代わりにはなりません。見る力は、客という思いどおりにならない相手と向き合う、本番にしか現れないからです。
本番でしくじると、「自分に何が見えていなかったか」が、はっきりします。稽古の失敗とは、重みが違います。学ぶことと本番とは、対立しません。覚えたことは、客と出会って初めて、見る力に変わります。
境が、まぎれる
村田珠光(むらた じゅこう)は、「和漢のさかいをまぎらかす」ことが肝要だと書き残しました。
「まぎらかす」は、境をなくすことではありません。
夕陽が落ち、部屋の影が伸び、やがて暗がりのなかで、すべてが境界線を失ってまどろむ。
亭主と客、古いものと新しいもの、立場や肩書き。そうした境が、一服をいただくあいだだけ、わからなくなる。皆が同じ一点に、それぞれ別々に入っている。私はそれを、一座建立(いちざこんりゅう)と呼びたいと思います。
何でなくても、よい
茶の湯の場では、茶碗が欠けていても、花が枯れかけていても、受け入れられます。道具は役に立たなくてもよく、花は美しく咲かなくてもよい。
考えてみれば、食べることも、息をすることも、もとは自分でないものを受け入れることです。生きることは、受け入れることでした。茶の湯は、排除しないための、身体の稽古なのかもしれません。
いま私たちは、いつも「何かでなければならない」と求められています。茶の湯は、その反対側にあります。すべてを手放したとき、一つの釜と一つの茶碗のあいだに、関係と、いまこの瞬間だけが残る。
それは「何も意味がない」ということではありません。「何でなくても、よい」という、静かな安心です。
座学で捉え方を知り、点前で型を覚え、お茶会で人と交わる。
そのうちに型さえ見えなくなり、ただ一服を介して、心が交わる。
茶の湯は、心の交わりから始まり、心の交わりに還ってきます。
そのあいだの時間を、みなさんとご一緒できればと思っています。
会員のマイページで連載しているコラムです。冒頭は、どなたでも読めます。
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