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茶人解剖図鑑10養生ようじょう
養生ようじょうタイプ
この人は、こんな人

栄西えいさい

1141 ── 1215 享年75
末の世を、茶で救おうとした人

茶の湯を伝えたのではない。末法まっぽう── 世はもう終わりだと誰もが言っていた時代に、生きるほうの薬を差し出した

栄西
茶は養生ようじょう
仙薬せんやくなり。
世は末でも、
生は養える。

栄西えいさいは「ようさい」とも読む。備中びっちゅう(いまの岡山)の吉備津宮きびつぐうの神官の子で、14で比叡山ひえいざんに登った。生まれたのは末法まっぽうに入って90年めである。保元ほうげん平治へいじの乱、源平の争い、養和ようわの飢饉、元暦げんりゃくの大地震。この人の75年は、世が崩れつづけた75年である。

二度目の渡海とかいの前に、こう書いている ──「濁世じょくせ末法まっぽうを証さん」。濁った世を救う真理を求めたい、と。茶を取りに行ったのではない。救いを探しに行って、荷の中に茶があった。

栄西と かんけいのあることば
喫茶養生記きっさようじょうき
末法まっぽう
鬼魅きみ
五味五臓ごみごぞう
茶の種ちゃのたね
臨済宗りんざいしゅう
この人の、いちばん強いところ

世を諦めなかった末法まっぽうの教えは、この世に望みをかけるなと説く。穢れた土を厭い、浄土じょうどを願え、と。栄西えいさいはそれを否とは言わない。だが序にはこう書いた ──人は一命を全うすることを大事にしなくてはならない、と。今、この体を建て直せ、と言っている

そして、名のつかない病に名をつけた。下の巻で挙げる病は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。今の言葉なら心のほうが病んでいる。栄西えいさいはそれを気のせいにせず、鬼魅きみと名づけ、桑をあて、真言しんごんまで添えた。治せる、と言い切っている

この人を あらわすもの
喫茶養生記きっさようじょうき日本で最初の、茶の書

上下2巻。上の巻は体の病に茶を、下の巻は目に見えない病に桑をあてる。茶の本である前に、末世まっせの処方箋である。

生涯濁った世の救いを探しに行き、茶を持って帰った
栄西の生涯
一度目は天台てんだいの書を取りに、二度目は濁った世の救いを探しに渡った。天竺てんじくまで行くつもりだったが、道が北の勢力に塞がれていた。行けなかったからぜんに会い、ぜんに会ったから茶を知った。茶は、目的ではなく道の途中で拾ったものである。
鎌倉、将軍への一服
二日酔いの実朝に、栄西が茶を差し出しているこれは、効きまする。
建保けんぽう2年。二日酔いの実朝さねともへ、茶一服と書1巻。茶が「効くもの」として世に出た日である。
栄西が つくったもの末世まっせの病に、茶と桑をあてた

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

喫茶養生記きっさようじょうき

日本で最初の茶の書。上の巻が茶、下の巻が桑。茶の湯のことは書かれていない

茶の種

宋から持ち帰り、九州に播いたと伝わる。一度目か二度目かは分かっていない

聖福寺しょうふくじ

博多。日本で最初の禅寺ぜんでらとされる。「扶桑最初禅窟ふそうさいしょぜんくつ」の額を賜ったと伝わる。

興禅護国論こうぜんごこくろん

ぜんを興すことが国を護ることになる、と説いた書。ぜんが禁じられたことへの答えである。

寿福寺じゅふくじ

鎌倉。北条政子ほうじょうまさこが施主となって建った。叡山えいざんの手の届かない土地である。

建仁寺けんにんじ

京。ぜんだけの寺にせず、真言しんごん天台てんだいを併せ置いた。叡山えいざんの足元に建てるための構えである。

種を、持って帰る
荷を解いて茶の種を手のひらにあける栄西これは、薬でござる。
二度目の入宋にっそうから帰った荷の中に、茶の種があった。書を書いた人である前に、苗を渡した人である。
二門 ── 見える病と、見えない病
喫茶養生記の二門の図解。上の巻が体の病に茶を、下の巻が名のつかない病に桑と真言をあてていること、その二つで末法の世の人を心身の両面から救おうとしたことを示した図
栄西えいさいは序に「仍って二門にもんを立てて末世まっせの病相を示し」と書いた。茶一つでは足りないと見ていたということである。体のほうと、目に見えないほう。この二つを並べたところに、この書の狙いが出ている。
苦味だけが、足りない
五味五臓の図解。五つの味が五つの臓に配され、日々の食に無いのは苦味だけであること、その苦味の最上が茶であることを示した図
上の巻の中身である。好きか嫌いかを一言も問うていない。足りないものの話にしたから、誰にでも当てはまった。二日酔いの将軍に「良薬」として差し出せたのも、この立て方をしていたからである。
喫茶養生記きっさようじょうき』序より建保けんぽう2年(1214)正月

ちゃ養生ようじょう仙薬せんやくなり、延齢えんれい妙術みょうじゅつなり。

茶は、命を養う不思議な薬である。齢をのばす、たぐいまれな術である。

天竺てんじく唐土とうどおなじくこれを貴重きちょうす、我朝わがちょう日本にほんかつて嗜愛しあいす。古今ここん奇特きどく仙薬せんやくなり、まざるべからず。

インドでも中国でも、これを貴んで重んじている。わが国日本でも昔からこれを好んできた。古今ここんにまれな薬である。摘まないでいてよいはずがない。

劫初ごうしょひと天人てんにんひとしかりき。今時こんじひとようやくだ軟弱なんじゃくにして、ほねにくちたるごとし。

世の初めの人は、天人と同じほど強かった。今の世の人はしだいに力が落ち、弱くなり、骨も肉も朽ちた木のようになっている。

今世こんぜ医術いじゅつすなわち、くすりふくみて心地しんちそんず。やまいくすりそむくがゆえなり。

今の医術は、薬を飲んでかえって具合を悪くしている。病と薬とが合っていないからである。

って二門にもんてて末世まっせ病相びょうそうしめし、とどめて後昆こうこんおくり、とも群生ぐんじょうせんとふのみ。

そこで二つの門を立て、この末の世に起こる病のかたちを示し、書き留めて後の子孫に贈り、多くの人の役に立てたいと願うばかりである。

「末世」「末代」の語が、この1冊にくり返し出てくる。栄西は末法をまちがいだとは言っていない。世が末であることを認めたうえで、それでも生を養えと書いている。

※ 栄西自筆の本は一つも残っていません。初治本(承元5年)と再治本(建保2年)とで字句に出入りがあり、ここは再治本の系統によりました。

なぜ、茶と桑を並べたのか

喫茶養生記きっさようじょうき』は、題に茶とあるのに半分が桑の話である。
下の巻は、桑の粥、桑の湯、桑の枕の作り方で埋まっている。

1

当時の医に、名のつけられない病があった

栄西えいさいはこう書く。その症状は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。だから今の医者は多く誤診をする、と。

2

栄西えいさいはそれを、鬼魅きみと呼んだ

下の巻の題は「第二 遣除鬼魅門けんじょきみもん」。末世まっせには鬼魅きみ魍魎もうりょうが現れ、医学で治せない病を起こすと経を引く。桑の木の下に鬼は来ない、桑の枕なら悪夢を見ない、と書いた。

3

見えない病を、見えるものとして扱った

今の言葉でいえば、心のほうの病である。栄西えいさいはそれを気のせいにしなかった。名をつけ、薬をあて、真言しんごんまで添えた。治せると言い切ったことが、この書のいちばんの効き目だったのではないか。読み

そして、二門でひとそろいになる

上の巻が体、下の巻が目に見えないほう。茶と桑の二つの柱を立てることで、末法まっぽうの世に苦しむ人を、心と身の両方から救おうとした。題は茶の書だが、中身は末世まっせの処方箋である。読み

残っている話

この人の話は、書いた人によって顔が変わる。

二日酔いの将軍に、茶を献じた

吾妻鏡あづまかがみ建保けんぽう2年2月4日。3代将軍源実朝みなもとのさねともが前夜の深酒で苦しんでいたとき、栄西えいさいが「良薬」と称して茶一盞いっさんと1巻の書を差し出した。茶が歴史の記録に出てくる、最初の場面である。

明恵みょうえに、茶の種を贈った

栂尾明慧上人伝記とがのおみょうえしょうにんでんき』に「建仁寺けんにんじ長老ちょうろうより茶を進せられけるを」とある。明恵みょうえはこれを植え、衆僧に飲ませた。栂尾とがのおから宇治うじへ、という筋は、ここから語られている

仏像の銅を、飢えた親子に与えた

道元どうげんの語りを弟子が記した『正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき』にある。薬師像の光背に使う銅の延べ板を渡し、仏のものを使って悪趣に堕ちてもかまわないと言ったと伝わる。飢饉の世の話である。

歴史の わかれ道茶は、こう変わった
茶の位置
唐から来た、珍しい飲みもの
末世まっせを生きるための薬。効く理由が書かれた
だれが飲むか
宮廷と寺の、ごく一部
禅寺ぜんでらの日課。そして鎌倉の将軍
何のために
もてなし。効き目はぼんやりしていた
心の臓を養う。飲む理由が言葉になった
作り方
日本では摘み方も知られていない
宋の製法が書き留められる。蒸し、焙じ、封じる
茶の木
渡来の品を、その都度もらう
種を播いて、育てる。九州から栂尾とがのお

ここで茶は、もらうものから育てるものになった。そして飲む理由が言葉になった。その理由は「うまいから」ではなく「この世を生き抜くため」だった。茶の湯はまだ無い。無いが、茶はこのとき、人を助けるものとして日本に入っている

まわりの 人びと人物相関図
栄西の人物相関図
弟子の欄にいるのは、ぜんと寺を受けついだ人たちである。茶の弟子ではない栄西えいさいに茶の弟子はいない。道元どうげんが直に教わったかどうかは確かめられていないが、道元どうげんは生涯この人の話を弟子に語っている。右端の蘭渓道隆らんけいどうりゅうは弟子ではない。栄西えいさいの没後に宋から来朝らいちょうし、鎌倉に建長寺けんちょうじを建てて禅院ぜんいんの作法を広めた人である。
いちばん大きな なぞなぜ、茶礼されいのことを書かなかったのか

栄西えいさいは二度目の入宋にっそうで、宋の禅寺ぜんでらに5年いた。そこでは茶が儀礼として飲まれていた。僧堂そうどうに皆を招く「大坐茶湯だいざちゃとう」まであった。見ていないはずがない

禅苑清規ぜんねんしんぎ』という宋の禅寺ぜんでらの決まりの書には、茶の作法が細かく書いてある。栄西えいさいはこの書を『興禅護国論こうぜんごこくろん』に引いている。読んでいた

それなのに『喫茶養生記きっさようじょうき』2巻には、ぜんの字が一つも出てこない。茶礼されいも、坐禅ざぜんも書かれていない。書けなかったのではない。知っていて、書かなかった

たしかなこと

・二度の入宋にっそうで、あわせて5年半を宋で過ごしている

・『興禅護国論こうぜんごこくろん』に『禅苑清規ぜんねんしんぎ』を引いている

喫茶養生記きっさようじょうき』にぜんの語は一つも無い

・『吾妻鏡あづまかがみ』は、この書を「坐禅ざぜんの余暇に書き出した」と記す

わからないこと

実朝さねともに献じた1巻が、いまの2巻本と同じものか

茶の種を持ち帰ったのが一度目か二度目か

栄西えいさい自筆じひつの本は、一つも残っていない

栄西えいさいぜんは、朝廷から停止ちょうじ宣下せんげを受けている。叡山えいざんが訴え、ぜんを説くことが禁じられた。ぜんを表に立てれば、書ごと潰される

だが理由はそれだけではないと思う。ぜんの話にすれば、届く先はぜんを知る人に限られる。救おうとしたのは末法まっぽうの世に苦しんでいる人ぜんぶだった。だから医の言葉で書いた。ぜんの匂いを消したから、この書は世の中へ広まった。

そして、自分で書かなかったところには、後の世が書き足す。

栄西えいさいは、宇治茶の起こりを足された。種を運んだことと、その種がどこへ広がったかは、別の話である。
監修者の読み ── 書かなかったことが、いちばん大きな仕事だった

喫茶養生記きっさようじょうき』を開くと、拍子抜けするかもしれない。茶の湯の話が一行も無い。あるのは五臓の話と、桑の粥の作り方である。だが私は、ここがこの人のいちばん深いところだと思う

宋の禅寺ぜんでら茶礼されいを5年見ている。見たうえで、書かなかった。茶礼されいを書けば、茶はぜんのものになる。ぜんのものになれば、ぜんの中にしか届かない。届かせたい相手は、寺の外で苦しんでいる人のほうだった

興禅護国論こうぜんごこくろん』の前年に記した「未来記みらいき」に、こうある。「予、世を去るの後50年、この宗最も興るべし」。自分が死んで50年後に興る、と書いた。実際、没後およそ40年で宋から蘭渓道隆らんけいどうりゅうが来て建長寺けんちょうじが建ち、禅院ぜんいんの作法が世に広まった。待った人の見立みたては、当たっている

茶の湯を作ったのは栄西えいさいではない。作れる時代ではないと見たのが、この人である。運んで、根づかせて、名前は付けずに置いていった。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ栄西という人
1

末法まっぽうの世に、生きるほうを説いた

世を厭い浄土じょうどを願え、というのが時代の声だった。栄西えいさいは序で、人は一命を全うすることを大事にせよ、と書いた。今、この体を建て直せ、と言っている

2

心と身の、両方に薬をあてた

上の巻は茶で体を、下の巻は桑で目に見えないほうを。名のつかない病を気のせいにせず、治せると言い切った

3

知っていて、書かなかった

宋の禅寺ぜんでら茶礼されいを5年見ている。それでもぜんの字を使わなかった。ぜんのものにした瞬間、届く先が狭まるからである。

茶の湯という言葉も形も、この人の書には無い。義政よしまさが飾ることに決まりを作るまで、ここから200年以上ある。

図鑑のいちばん奥に、この人がいる。茶の湯を作った人ではない。病んだ世に、一服いっぷくを差し出した人である。

監修者の読み武井宗道

茶祖と呼ぶより、病んだ世に一服いっぷくを差し出した人と呼びたい。

末法まっぽうに入ったのは永承えいしょう7年(1052)とされる。栄西えいさいの75年は、そのただ中である。保元ほうげん平治へいじの乱、源平の争い、養和ようわの飢饉、元暦げんりゃくの大地震。鴨長明かものちょうめいが『方丈記ほうじょうき』に都の惨状を書きつけたのは、栄西えいさいが『喫茶養生記きっさようじょうき』の初めの稿を記した翌年である。同じ都の、隣り合う年の話である。

末法まっぽうの教えは、この世に望みをかけるなと説く。厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうど ── 穢れたこの世を厭い、浄土じょうどを願え。世の全体がそちらへ傾いていた。栄西えいさいは、末法まっぽうをまちがいだとは言っていない。世が末であることを認めたうえで、それでも生を養えと書いた。二度目の渡海とかいの前に「濁世じょくせ末法まっぽうを証さん」と書いた人が、最後に差し出したのが一服いっぷくの茶だった。

病の話も同じである。下の巻が挙げる病は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。今の言葉なら、心のほうが病んでいる。世が崩れ、飢え、死が日常にあれば、人はそうなる。栄西えいさいはそれを気のせいにせず、鬼魅きみと名づけ、桑をあて、真言しんごんを添えた。名をつけることは、治せると言うことである

だから私は、この1冊を茶の書だとは思っていない。茶は手段で、目的は人だった。嗜好品を勧めたのではない。乱れた世にあって、心と体を整え、この時代を生き抜くための術を渡したのである。

茶の湯を作ったのではなく病んだ世に、茶を差し出した
体を治す薬ではなく生きるほうへ向かせる薬
世を捨てよと説かず今、この体を建て直せと書いた

世はもう末だと皆が言うなかで、一服いっぷくを差し出した。茶の湯は、ここから始まっている。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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