茶の湯を伝えたのではない。末法── 世はもう終わりだと誰もが言っていた時代に、生きるほうの薬を差し出した。
栄西は「ようさい」とも読む。備中(いまの岡山)の吉備津宮の神官の子で、14で比叡山に登った。生まれたのは末法に入って90年めである。保元・平治の乱、源平の争い、養和の飢饉、元暦の大地震。この人の75年は、世が崩れつづけた75年である。
二度目の渡海の前に、こう書いている ──「濁世に末法を証さん」。濁った世を救う真理を求めたい、と。茶を取りに行ったのではない。救いを探しに行って、荷の中に茶があった。
世を諦めなかった。末法の教えは、この世に望みをかけるなと説く。穢れた土を厭い、浄土を願え、と。栄西はそれを否とは言わない。だが序にはこう書いた ──人は一命を全うすることを大事にしなくてはならない、と。今、この体を建て直せ、と言っている。
そして、名のつかない病に名をつけた。下の巻で挙げる病は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。今の言葉なら心のほうが病んでいる。栄西はそれを気のせいにせず、鬼魅と名づけ、桑をあて、真言まで添えた。治せる、と言い切っている。
上下2巻。上の巻は体の病に茶を、下の巻は目に見えない病に桑をあてる。茶の本である前に、末世の処方箋である。◎
◎=はっきり確かめられる ○=そう伝わっている
日本で最初の茶の書。上の巻が茶、下の巻が桑。茶の湯のことは書かれていない。
宋から持ち帰り、九州に播いたと伝わる。一度目か二度目かは分かっていない。
博多。日本で最初の禅寺とされる。「扶桑最初禅窟」の額を賜ったと伝わる。
禅を興すことが国を護ることになる、と説いた書。禅が禁じられたことへの答えである。
鎌倉。北条政子が施主となって建った。叡山の手の届かない土地である。
京。禅だけの寺にせず、真言・天台を併せ置いた。叡山の足元に建てるための構えである。
茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり。
茶は、命を養う不思議な薬である。齢をのばす、たぐいまれな術である。
天竺・唐土同じくこれを貴重す、我朝日本かつて嗜愛す。古今奇特の仙薬なり、摘まざるべからず。
インドでも中国でも、これを貴んで重んじている。わが国日本でも昔からこれを好んできた。古今にまれな薬である。摘まないでいてよいはずがない。
劫初の人は天人と等しかりき。今時の人は漸く下り軟弱にして、骨肉朽ちたる木の如し。
世の初めの人は、天人と同じほど強かった。今の世の人はしだいに力が落ち、弱くなり、骨も肉も朽ちた木のようになっている。
今世の医術は則ち、薬を含みて心地を損ず。病と薬と乖くが故なり。
今の医術は、薬を飲んでかえって具合を悪くしている。病と薬とが合っていないからである。
仍って二門を立てて末世の病相を示し、留めて後昆に贈り、共に群生を利せんと云ふのみ。
そこで二つの門を立て、この末の世に起こる病のかたちを示し、書き留めて後の子孫に贈り、多くの人の役に立てたいと願うばかりである。
「末世」「末代」の語が、この1冊にくり返し出てくる。栄西は末法をまちがいだとは言っていない。世が末であることを認めたうえで、それでも生を養えと書いている。
※ 栄西自筆の本は一つも残っていません。初治本(承元5年)と再治本(建保2年)とで字句に出入りがあり、ここは再治本の系統によりました。
『喫茶養生記』は、題に茶とあるのに半分が桑の話である。
下の巻は、桑の粥、桑の湯、桑の枕の作り方で埋まっている。
栄西はこう書く。その症状は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。だから今の医者は多く誤診をする、と。◎
下の巻の題は「第二 遣除鬼魅門」。末世には鬼魅や魍魎が現れ、医学で治せない病を起こすと経を引く。桑の木の下に鬼は来ない、桑の枕なら悪夢を見ない、と書いた。◎
今の言葉でいえば、心のほうの病である。栄西はそれを気のせいにしなかった。名をつけ、薬をあて、真言まで添えた。治せると言い切ったことが、この書のいちばんの効き目だったのではないか。読み
上の巻が体、下の巻が目に見えないほう。茶と桑の二つの柱を立てることで、末法の世に苦しむ人を、心と身の両方から救おうとした。題は茶の書だが、中身は末世の処方箋である。読み
この人の話は、書いた人によって顔が変わる。
『吾妻鏡』建保2年2月4日。3代将軍源実朝が前夜の深酒で苦しんでいたとき、栄西が「良薬」と称して茶一盞と1巻の書を差し出した。茶が歴史の記録に出てくる、最初の場面である。
『栂尾明慧上人伝記』に「建仁寺の長老より茶を進せられけるを」とある。明恵はこれを植え、衆僧に飲ませた。栂尾から宇治へ、という筋は、ここから語られている。
道元の語りを弟子が記した『正法眼蔵随聞記』にある。薬師像の光背に使う銅の延べ板を渡し、仏のものを使って悪趣に堕ちてもかまわないと言ったと伝わる。飢饉の世の話である。
ここで茶は、もらうものから育てるものになった。そして飲む理由が言葉になった。その理由は「うまいから」ではなく「この世を生き抜くため」だった。茶の湯はまだ無い。無いが、茶はこのとき、人を助けるものとして日本に入っている。
栄西は二度目の入宋で、宋の禅寺に5年いた。そこでは茶が儀礼として飲まれていた。僧堂に皆を招く「大坐茶湯」まであった。見ていないはずがない。
『禅苑清規』という宋の禅寺の決まりの書には、茶の作法が細かく書いてある。栄西はこの書を『興禅護国論』に引いている。読んでいた。
それなのに『喫茶養生記』2巻には、禅の字が一つも出てこない。茶礼も、坐禅も書かれていない。書けなかったのではない。知っていて、書かなかった。
・二度の入宋で、あわせて5年半を宋で過ごしている
・『興禅護国論』に『禅苑清規』を引いている
・『喫茶養生記』に禅の語は一つも無い
・『吾妻鏡』は、この書を「坐禅の余暇に書き出した」と記す
・実朝に献じた1巻が、いまの2巻本と同じものか
・茶の種を持ち帰ったのが一度目か二度目か
・栄西自筆の本は、一つも残っていない
栄西の禅は、朝廷から停止の宣下を受けている。叡山が訴え、禅を説くことが禁じられた。禅を表に立てれば、書ごと潰される。
だが理由はそれだけではないと思う。禅の話にすれば、届く先は禅を知る人に限られる。救おうとしたのは末法の世に苦しんでいる人ぜんぶだった。だから医の言葉で書いた。禅の匂いを消したから、この書は世の中へ広まった。
そして、自分で書かなかったところには、後の世が書き足す。
『喫茶養生記』を開くと、拍子抜けするかもしれない。茶の湯の話が一行も無い。あるのは五臓の話と、桑の粥の作り方である。だが私は、ここがこの人のいちばん深いところだと思う。
宋の禅寺で茶礼を5年見ている。見たうえで、書かなかった。茶礼を書けば、茶は禅のものになる。禅のものになれば、禅の中にしか届かない。届かせたい相手は、寺の外で苦しんでいる人のほうだった。
『興禅護国論』の前年に記した「未来記」に、こうある。「予、世を去るの後50年、この宗最も興るべし」。自分が死んで50年後に興る、と書いた。実際、没後およそ40年で宋から蘭渓道隆が来て建長寺が建ち、禅院の作法が世に広まった。待った人の見立ては、当たっている。
茶の湯を作ったのは栄西ではない。作れる時代ではないと見たのが、この人である。運んで、根づかせて、名前は付けずに置いていった。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
世を厭い浄土を願え、というのが時代の声だった。栄西は序で、人は一命を全うすることを大事にせよ、と書いた。今、この体を建て直せ、と言っている。
上の巻は茶で体を、下の巻は桑で目に見えないほうを。名のつかない病を気のせいにせず、治せると言い切った。
宋の禅寺の茶礼を5年見ている。それでも禅の字を使わなかった。禅のものにした瞬間、届く先が狭まるからである。
茶の湯という言葉も形も、この人の書には無い。義政が飾ることに決まりを作るまで、ここから200年以上ある。
図鑑のいちばん奥に、この人がいる。茶の湯を作った人ではない。病んだ世に、一服を差し出した人である。
茶祖と呼ぶより、病んだ世に一服を差し出した人と呼びたい。
末法に入ったのは永承7年(1052)とされる。栄西の75年は、そのただ中である。保元・平治の乱、源平の争い、養和の飢饉、元暦の大地震。鴨長明が『方丈記』に都の惨状を書きつけたのは、栄西が『喫茶養生記』の初めの稿を記した翌年である。同じ都の、隣り合う年の話である。
末法の教えは、この世に望みをかけるなと説く。厭離穢土・欣求浄土 ── 穢れたこの世を厭い、浄土を願え。世の全体がそちらへ傾いていた。栄西は、末法をまちがいだとは言っていない。世が末であることを認めたうえで、それでも生を養えと書いた。二度目の渡海の前に「濁世に末法を証さん」と書いた人が、最後に差し出したのが一服の茶だった。
病の話も同じである。下の巻が挙げる病は「寒でも熱でもなく、地・水・火・風のいずれにも当てはまらない」。今の言葉なら、心のほうが病んでいる。世が崩れ、飢え、死が日常にあれば、人はそうなる。栄西はそれを気のせいにせず、鬼魅と名づけ、桑をあて、真言を添えた。名をつけることは、治せると言うことである。
だから私は、この1冊を茶の書だとは思っていない。茶は手段で、目的は人だった。嗜好品を勧めたのではない。乱れた世にあって、心と体を整え、この時代を生き抜くための術を渡したのである。
世はもう末だと皆が言うなかで、一服を差し出した。茶の湯は、ここから始まっている。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
◎ はっきり確かめられること
○ そう伝わっていること
読み 監修者の解釈。史実とは分けています
この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。
監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学