茶室の中だけの話にしなかった。明るくて広い茶をつくり、城と庭を建て、道具の格の決め方まで変えた人。
小堀遠州は、10歳のときに利休を見ている。大和郡山の豊臣秀長の茶会で、小姓として秀吉に茶を運んだ。「利休は木綿の頭巾で茶を点てた」と、のちに語っている。18歳で古田織部の弟子になった。
戦が終わった。遠州がつくったのは、明るくて広い、平らかな時代の茶である。人の手で整えた美と、自然のままの美を織り交ぜた。会席に南蛮のワインを出し、庭には西洋ふうの刈りこみを用いた。茶を世の中に開いた人だった。
人の手でつくった美と、自然のままの美を、どちらも捨てずに織り交ぜた。枯山水は石と砂で山水を作る。大刈込は生きた木を形に刈る。どちらも人の手だが、見えるのは自然である。そして部屋は明るくて広い。戦の終わった世の茶である。
外のものを入れることも恐れなかった。南蛮のワイン、朝鮮の風習、西洋の庭のやり方。その力は、そのまま幕府の仕事になった。作事奉行・伏見奉行・将軍の指南役を兼ね、美を仕事にするとは、美が政治と離れなくなることでもあった。晩年には公金一万両を疑われている。
「きのふといひけふとくらして飛鳥川 流れて早き月日なりけり」という古歌から銘をとった茶入。最晩年の茶会でよく使っている。辞世も、この歌を下じきにしている。○
◎=はっきり確かめられる ○=そう伝わっている
人が整えた「綺麗」と、時と自然が与える「さび」。語そのものが、二つの合わせである。
名のなかった日本の茶入に銘をつけ、蓋と袋を添えて名物の格を与えた。※この呼び名は後世のもの。
南禅寺金地院「鶴亀の庭」。遠州の作と史料で確かめられる庭。
大徳寺塔頭。春屋宗園から授かった号を寺の名にした。小堀家の菩提寺。
役所であり住まいでもある建物に、数寄屋・鎖の間・小座敷を組みこんだ。
生きた木を刈りこんで形にする。西洋の庭に通じるやり方で、自然の材を人の手で整える。
利休の茶室は2畳、窓は少なく、暗い。刀を置き、頭を下げて入る。身分を消すための、閉じた部屋だった。
遠州の部屋は反対である。窓が多く、広く、外の庭が入ってくる。
暗く狭い部屋は、戦国の茶である。いつ死ぬか分からない世で、一期一会が切実だった。世が平らかになれば、その形の意味も変わる。読み
将軍が来る。公家が来る。高僧が来る。立場のちがう人を同じ席に着かせるには、暗くて狭い部屋では足りない。読み
遠州は作事奉行である。建物と庭を一つのものとして設計できた。窓と広さは、外を中に入れるための仕掛けである。読み
遠州の前まで、茶の道具は唐物が上と決まっていた。日本のものは、どんなに良くても格下である。
遠州は、名のなかった瀬戸の茶入などに自分で銘をつけ、蓋と袋をあつらえた。格は、あとから付けられるという立場である。
銘と蓋と袋がつけば、その道具は誰の手に渡っても同じ格で扱われる。目利きの判断を、物に移した。読み
唐物は数に限りがある。大名が増え、茶をする人が増えれば、足りなくなる。国の中で格を作れるようにした。読み
遠州が持っていた道具の控えには、利休が愛した唐物の「初花」「茄子」と、自分が見つけた日本の「初瀬」が同じ並びで記されている。◎
道具と庭のほかに、遠州という人についての話が四つある。
大和郡山の豊臣秀長の茶会で、小姓として秀吉に茶を運んだ。のちに遠州は「利休は木綿の頭巾の姿で茶を点てた。利休は70歳ほどであった」と語っている(『茶道四祖伝書』甫公伝書)。
父が織部を自邸に招いたとき、遠州は手水鉢の水の落ちるところを改良して見せた。織部は「この年までこのような水門を見たことがない」と感心し、「名人に成るべき人なり」と言ったと伝わる。
遠州は会席に珍陀酒を出したと伝わる。南蛮のことばで赤ワインをいう。
また、塩水にさらした生栗を最後に出す水栗は、朝鮮の風習から学んだものだという。
西からも東からも取り入れている。茶を日本の中だけの話にしていない。
※ 遠州流では「懐石」ではなく「会席」と書く。
晩年、将軍の公金一万両を流用したと疑われた。酒井忠勝・井伊直孝、そして茶の考え方が合わなかったはずの細川三斎の3人が力を貸し、事なきを得たと伝わる。
利休は茶を個人の奥へ沈め、織部は武家の型として立て、遠州はそれを世の中の仕組みの中に置いた。3代で、茶の居場所が変わっている。
師の織部は切腹、その師の利休も切腹。茶の第1人者は、2代つづけて権力に消されている。遠州だけが、69歳まで生きて病で世を去った。
遠州は幕府の奥に、2人より深く入っている。伏見奉行を23年、将軍2代の指南役。それでも消されなかった。
・織部が切腹する3年前、将軍秀忠が遠州の屋敷を訪れている
・その御成りは、織部の茶会に出た直後に実現している
・織部の死後、指南役は遠州に移った
・織部が、どこまで見通して動いていたのか
・遠州が、師の最期をいつ知ったのか
織部は慶長17年に、遠州へこう書き送っている。
「いかなる因果に数寄をならひしゃ」── どんな因果で茶などを習ってしまったのか。各地へ呼ばれ、病も出る、江戸へも行く、みな数寄のせいだ、と。
将軍の御成りは、その年のうちに実現した。織部が秀忠に、遠州の茶を見せたのだと考えられる。自分の次を決めるための一手である。
織部の切腹は、大坂夏の陣が終わってからひと月あまり経っている。早く処断されたのではない。
遠州の岳父藤堂高虎は家康と近く、夏の陣が終われば織部は切腹になると、前もって知っていたと伝わる。それを聞いていた遠州は、あるときから織部と会わなくなった。
織部のほうも分かっていたと思う。だから3年前に将軍を弟子の屋敷へ呼び、茶を見せた。型を渡す相手を先に決めてから、果てている。
遠州が畳の上で死ねたのは、世が平らかになったからだけではない。渡す側と受ける側の両方が、渡し方を考えていたからだと思う。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
枯山水も大刈込も、自然の材を人の手で形にしたものである。「綺麗さび」という語そのものが、人の整えと自然の時の合わせだった。そして部屋は明るくて広い ── 戦の終わった世の茶である。
南蛮の珍陀酒、朝鮮にならった水栗、西洋の庭に通じる刈りこみ。茶を、日本の中だけの話にしなかった。
伏見の奉行屋敷には、数寄屋も鎖の間もある。茶が趣味ではなく、仕事の道具になった。織部が渡したのは、このやり方だったと思う。
利休が価値を創り、織部が型を立て、遠州が世の中に置いた。
3人で、一つの仕事である。
遠州は、美を社会に実装した人である。
織部が遠州に渡したのは、道具の好みではなかったと考えられる。新しい型を作り、それを世の中に置き、人と人が行き交う場にする── そのやり方そのものである。
遠州はそれを、そのとおりにやった。城と庭を作り、役所に茶室を置き、幕府と朝廷の人を同じ席に着かせた。公家の近衛信尋が困ったとき、駆けつけて場を収めたという手紙も残っている。
茶は、茶室の中にあるかぎり、茶室の中のものでしかない。遠州はそれを外に出し、世の仕組みの一部にした。いまの私たちが茶を「文化」として語れるのは、この人の仕事の先にいるからである。
美は、置かれた場所で働く。置く場所まで作ったのが、この人だった。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
きのふといひけふとくらしてなすことも
なき身の夢のさむるあけぼの
きのうと言い、きょうと暮らして、なすこともない我が身の
夢が覚める、その明け方。
本歌は春道列樹の「きのふといひけふとくらして飛鳥川 流れて早き月日なりけり」。遠州が最晩年によく使った茶入の銘も、この歌から取った「飛鳥川」だった。
利休は斬り、織部は黙り、遠州は古歌を借りて返した。最後の一首まで、この人は取り合わせをしている。
※ 辞世は伝わるもので、本人の筆であると確かめられているわけではありません(○)。
◎ はっきり確かめられること
○ そう伝わっていること
読み 監修者の解釈。史実とは分けています
この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。
監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学