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茶人解剖図鑑03綺麗きれいさび
綺麗きれいさびタイプ
この人は、こんな人

小堀遠州こぼりえんしゅう

1579 ── 1647 享年69
美を、世の中に置いた人

茶室の中だけの話にしなかった。明るくて広い茶をつくり、城と庭を建て、道具の格の決め方まで変えた人。

小堀遠州
人の手と、自然と。
どちらも要る。
誰と誰を、
同じ席に?

小堀遠州こぼりえんしゅうは、10歳のときに利休りきゅうを見ている大和郡山やまとこおりやま豊臣秀長とよとみひでなが茶会ちゃかいで、小姓として秀吉ひでよしに茶を運んだ。「利休りきゅうは木綿の頭巾で茶を点てた」と、のちに語っている。18歳で古田織部ふるたおりべの弟子になった。

戦が終わった。遠州えんしゅうがつくったのは、明るくて広い、平らかな時代の茶である。人の手で整えた美と、自然のままの美を織り交ぜた。会席かいせき南蛮なんばんのワインを出し、庭には西洋ふうの刈りこみを用いた。茶を世の中に開いた人だった。

小堀遠州と かんけいのあることば
綺麗さびきれいさび
中興名物ちゅうこうめいぶつ
作事奉行さくじぶぎょう
大刈込おおかりこみ
珍陀酒ちんたしゅ
孤篷庵こほうあん
この人の、いちばん強いところ

人の手でつくった美と、自然のままの美を、どちらも捨てずに織り交ぜた枯山水かれさんすいは石と砂で山水を作る。大刈込おおかりこみは生きた木を形に刈る。どちらも人の手だが、見えるのは自然である。そして部屋は明るくて広い。戦の終わった世の茶である。

外のものを入れることも恐れなかった。南蛮なんばんのワイン、朝鮮の風習、西洋の庭のやり方。その力は、そのまま幕府の仕事になった。作事奉行さくじぶぎょう伏見奉行ふしみぶぎょう・将軍の指南役しなんやくを兼ね、美を仕事にするとは、美が政治と離れなくなることでもあった。晩年には公金一万両を疑われている。

この人を あらわすもの
飛鳥川あすかがわ瀬戸せと茶入ちゃいれ

「きのふといひけふとくらして飛鳥川あすかがわ 流れて早き月日なりけり」という古歌こかから銘をとった茶入ちゃいれ。最晩年の茶会ちゃかいでよく使っている。辞世じせいも、この歌を下じきにしている

生涯茶を、仕事の中へ
小堀遠州の生涯
利休りきゅうは70歳で切腹せっぷく織部おりべは73歳で切腹せっぷく遠州えんしゅうは69歳で、病で世を去った。3人のうち、畳の上で死んだのはこの人だけである。
10歳、茶を運ぶ
茶を運ぶ少年と、奥の座敷で茶を点てる利休いまの手つき、覚えた。
大和郡山やまとこおりやま。運んだ先で、利休の点前てまえを見た。綺麗きれいさびの出どころは、ここまで遡る。
小堀遠州が つくったもの人の手と、自然と

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

綺麗きれいさび

人が整えた「綺麗きれい」と、時と自然が与える「さび」。語そのものが、二つの合わせである。

中興名物ちゅうこうめいぶつ

名のなかった日本の茶入ちゃいれに銘をつけ、蓋と袋を添えて名物めいぶつの格を与えた。※この呼び名は後世のもの。

金地院こんちいんの庭

南禅寺なんぜんじ金地院こんちいん「鶴亀の庭」。遠州えんしゅうの作と史料で確かめられる庭

孤篷庵こほうあん

大徳寺だいとくじ塔頭たっちゅう春屋宗園しゅんおくそうえんから授かった号を寺の名にした。小堀家こぼりけの菩提寺。

伏見ふしみ奉行屋敷ぶぎょうやしき

役所であり住まいでもある建物に、数寄屋すきや・鎖の間・小座敷こざしきを組みこんだ

大刈込おおかりこみ

生きた木を刈りこんで形にする。西洋の庭に通じるやり方で、自然の材を人の手で整える。

茶室の外も、茶である
書院の縁から庭を見て指図する遠州ここは、もそっと低く。
大刈込おおかりこみ、白砂、敷石。城も庭も同じ目で作った。茶室の中だけの話にしなかった
綺麗さび ── 人のつくったものと、自然のもの
綺麗さびの図解。人がつくった美と自然の美を織り交ぜること、枯山水と大刈込、そして利休の茶室との明るさ広さの違いを示した図
どちらかを選ぶのではなく、織り交ぜる。そして部屋は明るくて広い。戦の終わった世のかたちである。
なぜ、明るくて広いのか

利休りきゅうの茶室は2畳、窓は少なく、暗い。刀を置き、頭を下げて入る。身分を消すための、閉じた部屋だった。

遠州えんしゅうの部屋は反対である。窓が多く、広く、外の庭が入ってくる。

1

戦が終わった

暗く狭い部屋は、戦国の茶である。いつ死ぬか分からない世で、一期一会が切実だった。世が平らかになれば、その形の意味も変わる読み

2

客が、変わった

将軍が来る。公家が来る。高僧こうそうが来る。立場のちがう人を同じ席に着かせるには、暗くて狭い部屋では足りない。読み

3

庭を、中に入れたかった

遠州えんしゅう作事奉行さくじぶぎょうである。建物と庭を一つのものとして設計できた。窓と広さは、外を中に入れるための仕掛けである。読み

なぜ、日本の道具に名をつけたのか

遠州えんしゅうの前まで、茶の道具は唐物からものが上と決まっていた。日本のものは、どんなに良くても格下である。

遠州えんしゅうは、名のなかった瀬戸せと茶入ちゃいれなどに自分で銘をつけ、蓋と袋をあつらえた。格は、あとから付けられるという立場である。

1

持ち主が変わっても、格が残る

銘と蓋と袋がつけば、その道具は誰の手に渡っても同じ格で扱われる。目利めききの判断を、物に移した読み

2

渡ってこないものが、増えていた

唐物からものは数に限りがある。大名が増え、茶をする人が増えれば、足りなくなる。国の中で格を作れるようにした読み

3

遠州蔵帳えんしゅうくらちょうに、並べて書いてある

遠州えんしゅうが持っていた道具の控えには、利休りきゅうが愛した唐物からものの「初花はつはな」「茄子なす」と、自分が見つけた日本の「初瀬はつせ」が同じ並びで記されている

残っている話

道具と庭のほかに、遠州えんしゅうという人についての話が四つある。

10歳で、利休りきゅうを見た

大和郡山やまとこおりやま豊臣秀長とよとみひでなが茶会ちゃかいで、小姓として秀吉ひでよしに茶を運んだ。のちに遠州えんしゅう利休りきゅうは木綿の頭巾の姿で茶を点てた。利休りきゅうは70歳ほどであった」と語っている(『茶道四祖伝書さどうしそでんしょ甫公伝書ほこうでんしょ)。

18歳で、織部おりべを驚かせた

父が織部おりべを自邸に招いたとき、遠州えんしゅう手水鉢ちょうずばちの水の落ちるところを改良して見せた。織部おりべは「この年までこのような水門を見たことがない」と感心し、「名人に成るべき人なり」と言ったと伝わる。

席に、外の世界を入れた

遠州えんしゅう会席かいせき珍陀酒ちんたしゅを出したと伝わる。南蛮なんばんのことばで赤ワインをいう。
また、塩水にさらした生栗を最後に出す水栗みずぐりは、朝鮮の風習から学んだものだという。
西からも東からも取り入れている。茶を日本の中だけの話にしていない。
遠州流えんしゅうりゅうでは「懐石かいせき」ではなく「会席かいせき」と書く。

一万両を疑われて、助けられた

晩年、将軍の公金一万両を流用したと疑われた。酒井忠勝さかいただかつ井伊直孝いいなおたか、そして茶の考え方が合わなかったはずの細川三斎ほそかわさんさいの3人が力を貸し、事なきを得たと伝わる。

歴史の わかれ道茶が、世の中に出る
部屋
暗く、狭い
明るくて、広い
美のもと
自然のまま
人の手と、自然を織り交ぜる
道具の格
唐物からものが上
日本のものを、同じ棚に
席に呼ぶ人
数寄者すきしゃどうし
幕府と朝廷を、同じ席に
外のもの
唐物からものを崇める
南蛮なんばんも朝鮮も、席に入れる
茶と仕事
茶は茶
役所の中に茶室がある

利休りきゅうは茶を個人の奥へ沈め、織部おりべは武家の型として立て、遠州えんしゅうはそれを世の中の仕組みの中に置いた。3代で、茶の居場所が変わっている。

まわりの 人びと人物相関図
小堀遠州の人物相関図
利休りきゅう織部おりべとちがい、遠州えんしゅうのまわりには禅僧ぜんそうと公家が多い。茶を通して、立場のちがう人を同じ席に着かせた人だった。
いちばん大きな なぞなぜ、この人は畳の上で死ねたのか

師の織部おりべ切腹せっぷく、その師の利休りきゅう切腹せっぷく。茶の第1人者は、2代つづけて権力に消されている。遠州えんしゅうだけが、69歳まで生きて病で世を去った

遠州えんしゅうは幕府の奥に、2人より深く入っている。伏見奉行ふしみぶぎょうを23年、将軍2代の指南役しなんやく。それでも消されなかった。

たしかなこと

織部おりべ切腹せっぷくする3年前、将軍秀忠が遠州えんしゅうの屋敷を訪れている

・その御成おなりは、織部おりべ茶会ちゃかいに出た直後に実現している

織部おりべの死後、指南役しなんやく遠州えんしゅうに移った

わからないこと

織部おりべが、どこまで見通して動いていたのか

遠州えんしゅうが、師の最期をいつ知ったのか

織部おりべ慶長けいちょう17年に、遠州えんしゅうへこう書き送っている。
「いかなる因果に数寄すきをならひしゃ」── どんな因果で茶などを習ってしまったのか。各地へ呼ばれ、病も出る、江戸へも行く、みな数寄すきのせいだ、と。

将軍の御成おなりは、その年のうちに実現した。織部おりべ秀忠ひでただに、遠州えんしゅうの茶を見せたのだと考えられる。自分の次を決めるための一手である。

利休りきゅうは頭を下げなかった。織部おりべは何も語らなかった。遠州えんしゅう次を用意してもらってから、受けついだ
監修者の読み ── 織部は、自分の後を決めてから死んだのではないか

織部おりべ切腹せっぷくは、大坂夏の陣が終わってからひと月あまり経っている。早く処断されたのではない。

遠州えんしゅうの岳父藤堂高虎とうどうたかとら家康いえやすと近く、夏の陣が終われば織部おりべ切腹せっぷくになると、前もって知っていたと伝わる。それを聞いていた遠州えんしゅうは、あるときから織部おりべと会わなくなった。

織部おりべのほうも分かっていたと思う。だから3年前に将軍を弟子の屋敷へ呼び、茶を見せた。型を渡す相手を先に決めてから、果てている

遠州えんしゅうが畳の上で死ねたのは、世が平らかになったからだけではない。渡す側と受ける側の両方が、渡し方を考えていたからだと思う。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ小堀遠州という人
1

人の手と、自然を織り交ぜた

枯山水かれさんすい大刈込おおかりこみも、自然の材を人の手で形にしたものである。「綺麗きれいさび」という語そのものが、人の整えと自然の時の合わせだった。そして部屋は明るくて広い ── 戦の終わった世の茶である。

2

外の世界を、席に入れた

南蛮なんばん珍陀酒ちんたしゅ、朝鮮にならった水栗みずぐり、西洋の庭に通じる刈りこみ。茶を、日本の中だけの話にしなかった

3

茶を、役所の中に持ちこんだ

伏見ふしみ奉行屋敷ぶぎょうやしきには、数寄屋すきやも鎖の間もある。茶が趣味ではなく、仕事の道具になった織部おりべが渡したのは、このやり方だったと思う。

利休りきゅうが価値を創り、織部おりべが型を立て、遠州えんしゅうが世の中に置いた。

3人で、一つの仕事である

監修者の読み武井宗道

遠州えんしゅうは、美を社会に実装した人である。

織部おりべ遠州えんしゅうに渡したのは、道具の好みではなかったと考えられる。新しい型を作り、それを世の中に置き、人と人が行き交う場にする── そのやり方そのものである。

遠州えんしゅうはそれを、そのとおりにやった。城と庭を作り、役所に茶室を置き、幕府と朝廷の人を同じ席に着かせた。公家の近衛信尋このえのぶひろが困ったとき、駆けつけて場を収めたという手紙も残っている。

茶は、茶室の中にあるかぎり、茶室の中のものでしかない遠州えんしゅうはそれを外に出し、世の仕組みの一部にした。いまの私たちが茶を「文化」として語れるのは、この人の仕事の先にいるからである。

どれか一つを選ぶのではなくちがうまま、並べて調える
生まれた格を受けとるのではなく格を、あとから付ける
茶室の中で完結するのではなく世の中の仕組みの中に置く

美は、置かれた場所で働く。置く場所まで作ったのが、この人だった

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

辞世じせい正保4年2月6日

きのふといひけふとくらしてなすことも
なき身の夢のさむるあけぼの

きのうと言い、きょうと暮らして、なすこともない我が身の
夢が覚める、その明け方。

本歌ほんか春道列樹はるみちのつらきの「きのふといひけふとくらして飛鳥川あすかがわ 流れて早き月日なりけり」。遠州えんしゅうが最晩年によく使った茶入ちゃいれの銘も、この歌から取った「飛鳥川あすかがわ」だった。
利休りきゅうは斬り、織部おりべは黙り、遠州えんしゅう古歌こかを借りて返した。最後の一首いっしゅまで、この人は取り合わせをしている。

※ 辞世は伝わるもので、本人の筆であると確かめられているわけではありません(○)。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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