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茶人解剖図鑑07名物めいぶつ
名物めいぶつタイプ
この人は、こんな人

織田信長おだのぶなが

1534 ── 1582 享年49
茶の湯を、最高の誉にした人

茶入ちゃいれひとつが、領地一国より重くなった。茶会ちゃかいを開けることが、生涯の誇りになった。新しい美ではなく、重さのほうを変えた人である。

織田信長
名物めいぶつを、
見たい。
茶を点てる事、
許す。

茶人ちゃじんではない。点前てまえを究めた人でもない。それでも茶の湯の歴史で、この人を飛ばすことはできない。茶の湯が「どれだけ重いものか」を決めたのが、この人だからである。

武田たけだを討ったあと、滝川一益たきがわかずますは上野一国を与えられた。これ以上ない出世である。それでも京の茶人ちゃじんへ、こう書き送っている ──「茶の湯の冥加はつき候」。欲しかったのは、珠光小茄子じゅこうこなすびという茶入ちゃいれひとつだった。

織田信長と かんけいのあることば
名物めいぶつ
九十九茄子つくもなすび
ゆるし茶湯ゆるしちゃのゆ
東山御物ひがしやまごもつ
蘭奢待らんじゃたい
茶湯者ちゃのゆしゃ
この人の、いちばん強いところ

信長のぶながが集めた名物めいぶつは、その中心がすでに評価の定まった唐物からものだった。東山御物ひがしやまごもつ珠光名物じゅこうめいぶつ。無秩序に集めたのではない。値のついた系譜を選んで、一点に集めた。自分で価値を言うのではなく、価値のほうを自分のところへ寄せている。

そして、寄せたものを配り直した。茶会ちゃかいを開く権利を許し、茶器ちゃきを恩賞にした。土地には限りがあるが、誉には限りがない。やっていることは茶の湯だけではない。朝廷に献金して内裏を直し、絶えていた儀式を行えるようにした。正倉院しょうそういん蘭奢待らんじゃたいを切り、散っていた東山御物ひがしやまごもつを集め直した。あらゆるものの価値を決め直し、天下のものにしている

この人を あらわすもの
九十九茄子つくもなすび1000貫の、小さな茶入ちゃいれ

もとは中国で薬や油を入れていた、ありふれた器である。足利義満あしかがよしみつの手に入り、東山御物ひがしやまごもつとなり、永禄えいろく11年に松永久秀まつながひさひで降伏の証として差し出した。値は1000貫。本能寺ほんのうじの焼け跡から見つかり、修復されて、いまも在る。

生涯尾張から、茶の湯の地面まで
織田信長の生涯
本能寺ほんのうじの前日、安土から唐物からもの三十八種が運びこまれていた。翌朝、そのほとんどが焼けた。頂点と終わりが、1日しか離れていない
名物を、召し上げる
平伏して茶入を差し出す商人と、手を伸ばして受け取る信長その茶入ちゃいれ、召し上げる。
名物めいぶつ狩。堺の商人から唐物からものを集めた。道具を持つことが、そのまま格になった
織田信長が 集めたもの集めて、重くした

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

九十九茄子つくもなすび

松永久秀まつながひさひでが降伏の証に差し出した。1000貫。本能寺ほんのうじの焼け跡から出てきた静嘉堂文庫美術館せいかどうぶんこびじゅつかん蔵。

珠光小茄子じゅこうこなすび

2000貫。信長のぶなが名物めいぶつでいちばん高い。本能寺ほんのうじで焼けた。

紹鴎茄子じょうおうなすび

今井宗久いまいそうきゅうが差し出した。もとは武野紹鴎たけのじょうおうの物。湯木美術館ゆきびじゅつかん蔵。

初花肩衝はつはなかたつき

足利義政あしかがよしまさから大文字屋だいもんじやへ。信長のぶながは買い上げている徳川記念財団とくがわきねんざいだん蔵。

三日月壺みかづきつぼ

三好康長みよしやすなが和睦わぼくの証に進上した。本能寺ほんのうじで焼けた。

ゆるし茶湯ちゃのゆ

茶会ちゃかいを開く権利。信長のぶながの世に許されたのは、六名ほど

ゆるし茶湯
信長から書付を両手で受ける家臣と、それを見つめる家臣たち茶会を開くこと、許す。
茶会を開いてよい、という許し。領地一国より重いと言われた。茶が、恩賞になった。
価値の、引き上げ
信長が起こした価値の引き上げの図解。茶器・蒐集・茶会の三つが、それぞれ何から何へ変わったかを示した図
三つとも、中身は前からあったものである。変わったのは、置かれた高さだけ。それだけで、茶の湯は別のものになった。
なぜ、茶器が一国より重くなったのか

茶入ちゃいれは手のひらに乗る。土で焼いた小さな器である。それが領地一国を上回った。
理由は、美しさだけではない

1

銭が、信じられなくなっていた

撰銭えりぜにが起き、銭貨の信用が落ち、米や銀へ移っていく時代である。値を支えるものが要った名物めいぶつは、そこに入った。

2

土地には、限りがある

恩賞に配れる土地は有限である。配れば減る。だが茶器ちゃき茶会ちゃかいの権利は、土地を減らさずに序列を作れる読み

3

すでに値のついたものを、集めた

東山御物ひがしやまごもつ珠光名物じゅこうめいぶつ信長のぶながが新しく値をつけたのではない。100年かけて定まった値を、一点に寄せている。

残っている話

名物めいぶつの動きが、そのまま政治の動きを写している。

差し出した相手を見ると、意味がわかる

松永久秀まつながひさひで九十九茄子つくもなすびは降伏の証。三好康長みよしやすなが三日月壺みかづきつぼ和睦わぼくの証。本願寺顕如ほんがんじけんにょの白天目は和議の証。取り上げたのではなく、差し出されている

利休りきゅう」と呼んだことは、一度もない

利休りきゅう」の号は天正てんしょう13年に正親町天皇おおぎまちてんのうから贈られたもの。信長のぶなが天正てんしょう10年に死んでいる。信長のぶながの世の文書は、みな「宗易そうえき」と書く

蘭奢待らんじゃたいを切り取った

天正てんしょう2年、勅許ちょっきょを得て正倉院しょうそういんの香木を切った。前例は義満よしみつ義教よしのり義政よしまさ将軍家の文化の権威を継ぐ、という身ぶりである

朝廷に献金し、儀式を立て直した

上洛のあと内裏を修理し、絶えていた朝廷の儀式を行えるようにした。父の信秀のぶひでも献金している。茶の湯だけの話ではない。値のついたものを選び直し、天下の基準にするやり方を、あちこちで同じようにやっている。

歴史の わかれ道茶の湯は、こう変わった
名物とは
目利めききが値をつける、すぐれた道具
一国一城に匹敵する。政治が動くときの通貨
茶会とは
大名・公家・豪商の社交
許された者だけが開ける。武家の名誉になる
唐物とは
将軍家の家宝
武家の統治者が、正しいことの証
恩賞とは
土地。配れば減る
土地のほかに、茶器ちゃき茶会ちゃかいの権利
茶湯者とは
町の数寄者すきしゃ
天下人のそばにいる。堺の商人が中央へ出る

秀吉ひでよし侘数寄わびすきも、宗易そうえきが「天下一てんかいち茶人ちゃじん」になったことも、江戸の家元いえもとも、すべてこの引き上げの上に立っている茶碗ちゃわん一つの重さを今のわたしたちが当然のように受け取れるのは、400年前にここで決まったからである。

まわりの 人びと人物相関図
織田信長の人物相関図
右の列は「仕えた人」ではない。名物めいぶつを差し出した人である。差し出す行為そのものが、降伏や和睦わぼくの意思表示になっていた。弟子の列に置いたのは、茶会ちゃかいを開く権利を許された家臣である。
いちばん大きな なぞなぜ、知っている信長のぶながは、後の世が作ったのか

信長のぶながと茶の湯といえば、この三つである。御茶湯御政道おちゃのゆごせいどうという制度を作った。名物狩めいぶつがり・茶壺狩ちゃつぼがりで強りやり集めた。堺の3人を茶頭さどうに召し抱えた。教科書も小説も、ほぼこの枠で語ってきた。

ところが2000年代以降、一次史料いちじしりょうと後の編纂物へんさんぶつを分ける作業が進み、三つとも信長のぶながの世の史料に無いことがわかってきた。

たしかなこと

・「御茶湯御政道おちゃのゆごせいどう」の出所は、本能寺ほんのうじの4か月後に秀吉ひでよしが書いた1通だけ

・その一文には「雖も」がつく。自分だけが特別に許された、という自慢の文である

・『信長公記しんちょうこうき』は「金銀・八木遣はされ召し置かれ」と書く。対価を払っている

・「茶頭さどう」の語は、信長のぶながの世の一次史料いちじしりょうに一度も出てこない

わからないこと

・安土の誕生日祝祭が、日本国王を志したものだったか

信長のぶなが宗易そうえきをどう見ていたか

名物めいぶつを何点集めたのか(二百三十五点規模という算定がある)

名物狩めいぶつがり」という呼び名は、戦後の研究者が付けた近代の造語である。しかも本人が晩年にこの説を撤回している。代わりに出した品評会説のほうも、典拠にした史料のほうの成立が疑われている。

三宗匠さんそうしょう茶頭さどうに」の出所は、利休りきゅうの曾孫が没後70年以上たってから紀州徳川家きしゅうとくがわけに出した家伝である。家の立場を固めるために書かれた文だった。

信長のぶながは、制度を足された。足すのは、いつも後から来る人である。
監修者の読み ── 3本の柱が崩れたあとに残るもの

通説つうせつの柱が3本とも崩れた。それでも、信長のぶながが茶の湯を大きく動かしたという事実は動かない。動かし方が、通説つうせつと違っていただけである。

成し遂げたのは三つだと思う。茶器ちゃきを一国一城に匹敵する象徴の通貨へ。集めたものを統治者の威信の証へ。茶会ちゃかいを武家の最高の名誉へ。

信長のぶながはわび茶の後ろ盾ではない。その前提となる価値の地殻変動を起こした存在である。後ろ盾と地面では、働きがまるで違う。

最後に、問いを一つ置いておきたい。わたしたちが茶碗ちゃわん一つの価値を当然のように受け取れるのはなぜか。400年前に1人の権力者が「これには一国一城の価値がある」と決めたからである。その決定の重さを、座って考えてみてほしい。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ織田信長という人
1

茶人ちゃじんではない。それでも飛ばせない

点前てまえを究めた人でも、美を見つけた人でもない。茶の湯がどれだけ重いものかを決めた人である。美の話ではなく、重さの話をした。

2

価値を決め直し、天下のものにした

東山御物ひがしやまごもつ珠光名物じゅこうめいぶつも、信長のぶながより前から値がついていた。それを一点に集め、配り直した。朝廷に献金して内裏を直し、蘭奢待らんじゃたいを切ったのも同じやり方である。すでにあるものを選び直して、天下の基準にした

3

知っている信長のぶながは、ほとんど後の世の作である

御茶湯御政道おちゃのゆごせいどうも、名物狩めいぶつがりも、三宗匠さんそうしょう茶頭さどうも、信長のぶながの世の史料に無い。それでも茶の湯が変わった事実は残る。変わり方が違っただけである。

珠光じゅこうが矛盾を楽しみ、紹鴎じょうおうが組み合わせ方を作った。そこへ信長のぶながが来て、茶の湯の地面ごと持ち上げた

利休りきゅうが価値を創れたのは、価値が重くなったあとだからである。7人めがこの人であることに、意味がある。

監修者の読み武井宗道

信長のぶながは、わび茶の後ろ盾ではない。

通説つうせつ信長のぶなが像は、3本の柱で支えられてきた。茶の湯を制度にした、名物めいぶつを強りやり集めた、利休りきゅうを見いだした。私も、調べる前はこの像で理解していた。だが3本とも、信長のぶながの世の史料ではなく、後から書かれたものに寄りかかっていた

崩れたあとに何が残るか。残るのは、重さの変化である。茶入ちゃいれひとつが領地一国を上回る世界。茶会ちゃかいを開けることが生涯の誇りになる世界。信長のぶながの手で、そういう世界が生まれた

大事なのは、信長のぶながが美の話をしていないことである。和物わものを見いだしたわけでも、草庵そうあんを作ったわけでもない。集めたのは、すでに値の定まった唐物からものばかりだった。美を変えずに、重さだけを変えた。だからこそ、あとの人が美を自由に動かせた。

同じことを、茶の湯の外でもやっている。朝廷に献金して内裏を直し、絶えていた儀式を行えるようにした。正倉院しょうそういん蘭奢待らんじゃたいを切った。散っていた東山御物ひがしやまごもつを集め直した。自分で新しく作るのではなく、すでに値のあるものを選び直して、天下のものにする。この人のやり方は、どこでも同じである。

後ろ盾なら、支えている人がいなくなれば倒れる。地面を動かした場合は、その人が死んでも高さは残る。本能寺ほんのうじ名物めいぶつはほとんど焼けたのに、茶の湯の重さだけは、焼けずに残った

新しい美を作ったのではなくすでにある美の、重さを変えた
強いて取り上げたのではなく差し出させる場を、作った
茶の湯の後ろ盾ではなく茶の湯を、最高の誉にした

後ろ盾は、いなくなれば倒れる。地面は、動かした人が死んでも残る

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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