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茶人解剖図鑑06分別ふんべつ
分別ふんべつタイプ
この人は、こんな人

武野紹鴎たけのじょうおう

1502 ── 1555 享年54
茶の湯を、日本の文化にした人

抹茶まっちゃも道具も、唐物からものばかりだった。そこへ和歌わかを入れた。外から来たものを飾る場が、日本の文化になった。

武野紹鴎
詞は旧きを用い、
情は新しきを。
枯れ、かじけ、
寒かれ。

堺の豪商である。皮革と武具ぶぐをあつかう家に生まれ、名物めいぶつを六十点ほど持っていた。この人の「わび」は、貧しさから出たものではない。最高の美を知り尽くした人の、引き算である。

27歳から13年、公家の3条西実隆さんじょうにしさねたか歌道かどうを学んだ。茶に向かったのは、そのあとである。

それまでの茶の湯は、唐物からものを並べて見せる場で、床に掛かるのも禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきだった。紹鴎じょうおうはそこに和歌わかを掛けている。この1枚で、茶の湯は日本の側に立った

武野紹鴎と かんけいのあることば
分別ふんべつ
正風体しょうふうたい
枯れかじけ寒かれかれかじけさむかれ
余情よじょう
小倉色紙おぐらしきし
市中の山居しちゅうのさんきょ
この人の、いちばん強いところ

師の実隆さねたかから受けたのは、藤原定家ふじわらのていか歌論かろん詠歌大概えいがたいがい』である。そこにこうある ── 「情は新しきを以て先となし、詞は旧きを以て用ゆべし」。言葉は古典から借り、感じ方は新しくせよ、ということである。紹鴎じょうおうはこれを、そのまま茶に移した。道具は伝えられた名物めいぶつを使い、取り合わせのほうを新しくする。

山上宗二やまのうえそうじは、紹鴎じょうおう分別ふんべつ」によって名人になったと書いた。真贋しんがんを見分ける目でも、値を測る目でもない。何と何を並べれば両方が立つかを読む力である。完全な唐物からもの茶入ちゃいれと、陶工の指痕ゆびあとが残る井戸茶碗いどぢゃわんと、定家ていか色紙しきしを、同じ一席に置いている。

この人を あらわすもの
定家ていか小倉色紙おぐらしきし床に掛けた、1枚の歌

それまで茶室の床に掛けるものは、禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきだけだった。紹鴎じょうおうは、そこに和歌わかを掛けた。茶がぜんだけでなく歌にもつながった瞬間である。この色紙しきしは没後に今井宗久いまいそうきゅうが継ぎ、のちに利休りきゅう秀吉ひでよしの前で飾っている。

生涯歌を学んでから、茶に向かった
武野紹鴎の生涯
茶より先に、連歌れんがと歌がある。歌に費やした13年が、この人の茶の土台である。順番を入れ替えると、この人は読めない。
公家に、13年
公家に歌を習う恰幅のよい町人もう一度、はじめから。
3条西実隆さんじょうにしさねたかに13年。『詠歌大概えいがたいがい』を受けた。茶に和歌を入れた人の、いちばん長い13年。
武野紹鴎が つくったもの組み合わせ方を、作った

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

床に和歌わかを掛けた

定家ていか小倉色紙おぐらしきし。それまで床に掛けるのは禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきだけだった(『山上宗二記やまのうえそうじき』)。

取り合わせ(分別ふんべつ

山上宗二記やまのうえそうじき』は、紹鴎じょうおうが「分別ふんべつ」によって名人になったと書く。

唐物茄子茶入からものなすちゃいれ紹鴎じょうおう

「天下の四なすび」の筆頭。挽家ひきやの蓋に椰子の実を使っている。湯木美術館ゆきびじゅつかん蔵・重要文化財。

井戸茶碗いどぢゃわん紅葉山もみじやま

陶工の指痕ゆびあとが残り、高台こうだいにカイラギがある。高麗茶碗こうらいぢゃわん請来しょうらいされた、いちばん初めのころのもの。石水博物館せきすいはくぶつかん蔵。

見立みた

水を汲む釣瓶つるべ水指みずさしに、竹を切って蓋置ふたおきに、自分で竹を削って茶杓ちゃしゃく

小間こま

3畳・二畳半じょうはん。鴨居を低く、入口を狭く、窓を減らした。

床に、和歌を掛けた
床に和歌の色紙を掛けて振り返る紹鴎唐の字でなくとも、よい。
唐物からもの墨蹟ぼくせきが掛かる床に、日本の歌を掛けた。外から来たものを飾る場が、日本の文化になった
分別 ── 歌のやり方で、道具を組む
分別の図解。定家の歌論を茶に移した仕組みと、唐物と高麗物と和歌の色紙を一つの席に取り合わせた例を示した図
歌を学んだ13年が、そのままここに出ている。道具を選ぶ目ではなく、並べる目である。
なぜ、歌だったのか

茶の湯は、紹鴎じょうおうの時代にはまだ100年ほどの若い道だった。美しさを測る物差しが、まだ茶の中に無かった。

歌には、それが1000年ぶん溜まっていた

1

歌には、1000年ぶんの物差しがあった

定家ていか詠歌大概えいがたいがい』の「情は新しきを以て先となし、詞は旧きを以て用ゆべし」を、紹鴎じょうおうは師から直接受けている。道具を詞、取り合わせを情に置きかえた

2

本歌取ほんかどりは、取り合わせと同じ仕組みである

古い歌を踏まえたうえで、まだ無かった景色を立ち上げるのが本歌取ほんかどりである。名物めいぶつを使いながら、見えるものを新しくするのは、同じやり方である。読み

3

余情よじょうは、無いものを見せる

山上宗二やまのうえそうじ紹鴎じょうおうの茶を「吉野の花の盛りを過ぎて、夏も越し、秋の月、紅葉に似たり」と評した。咲いている花ではなく、散ったあとの景色である。

残っている話

堺の豪商であることが、この人の話のほとんどに効いている。

名物めいぶつを六十点ほど持っていた

同時代で突出した数である。最高の美を知っている人が、引き算をした。順が逆だと、ただの粗末になる。

公家に歌を習い、公家の家計を支えた

実隆さねたか応仁おうにんの乱のあと窮乏していた公家である。紹鴎じょうおうは食籠や太刀を持参して通った。学ぶ側が、教える側を養っている

信長のぶながに毒を盛られた

急死だったので生まれた話。だが弘治こうじ元年の信長のぶながは、まだ尾張すら統一していない。堺との接点も無い。

二つの流れが、いまに続いている

弟子から千利休せんのりきゅうが出て千家せんけになり、籔内剣仲やぶのうちけんちゅうが出て籔内流やぶのうちりゅうになった。剣仲けんちゅう古田織部ふるたおりべの妹を妻にしている紹鴎じょうおうのところで分かれた筋が、400年続いている。

歴史の わかれ道茶の湯は、こう変わった
床に掛けるもの
禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきだけ
和歌わか色紙しきしも掛かる。茶が歌につながった
道具の並べ方
唐物からもの唐物からもの和物わもの和物わもの
唐物からもの高麗こうらいを、同じ席に
何で決まるか
由緒ゆいしょと値。持ち主の格
取り合わせ亭主ていしゅ分別ふんべつで決まる
道具の出どころ
買って揃える
釣瓶つるべ、竹。自分で作る
「わび」の意味
歌の言葉。思いどおりにならない淋しさ
茶の言葉。人のあり方を言う語に変わる

この転換を伝えているのは、多くが『山上宗二記やまのうえそうじき』1冊である。ただし道具と席のほうは、同時代の茶会記ちゃかいきが裏づけている。語りは後の世、物は同時代。この二つを分けて読む。

まわりの 人びと人物相関図
武野紹鴎の人物相関図
師が3人いて、歌と茶とぜんで別々である。この三つの合流点に、この人の茶がある。弟子からは、千家せんけ籔内やぶのうちという二つの流れが今に続いている。利休りきゅう宗久そうきゅう宗及そうぎゅうの3人は、のちに「天下三宗匠てんかさんそうしょう」と呼ばれた。辻玄哉つじげんさい連歌師れんがしで、「枯れかじけ寒かれ」を山上宗二やまのうえそうじへ伝えた人である。点線の枠は、後の世の記述しか根拠が無いもの。
いちばん大きな なぞなぜ、いちばん有名な歌を、この人のものと言えないのか

紹鴎じょうおうのわびを表す歌として、いつも挙げられるのは定家ていか「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」である。花も紅葉も無い、漁師小屋の秋の夕暮れ。よくできた話である。

だがこの結びつけの出所は『南方録なんぽうろく』である。元禄げんろくごろに立花実山たちばなじつざんが編んだ書で、紹鴎じょうおうの世から150年ほどあとに成立している。同時代の記録ではない。

たしかなこと

実隆さねたかに13年歌道かどうを学んだ(『実隆公記さねたかこうき』)

定家ていかに傾倒していた。『茶道300条ちゃどうさんびゃくじょう』に「紹鴎じょうおう定家卿ていかきょうを賞美して」とある

定家ていか色紙しきしを床に掛けた(『山上宗二記やまのうえそうじき』)

わからないこと

「見渡せば」の歌を、本人が挙げたかどうか

・『南方録なんぽうろく』の記述が、どこまで古い伝えを写しているか

・「わびとは正直に慎しみ深く」の語を、いつ言ったのか

同時代に近い『山上宗二記やまのうえそうじき』が伝えているのは、別の言葉である。「枯れかじけ寒かれ」。もとは連歌れんがの行き着く先を言う語で、紹鴎じょうおうから辻玄哉つじげんさいへ、玄哉げんさいから宗二そうじへと伝わった。

定家ていかに傾倒したことは確かである。だが「どの歌か」を決めたのは、後の世である

紹鴎じょうおうは、歌を足された。足されるほうにも、足すだけの中身があったということである。
監修者の読み ── 後の世の書から出た話を、どう扱うか

「見渡せば」の歌は美しい。紹鴎じょうおうのわびの説明として、これ以上のものは無い。だから同時代の裏づけが無くても、語られつづけてきた

捨てる必要はないと思う。捨てずに、印を付けて置いておく。「紹鴎じょうおうがそう言った」ではなく、「後の世が、そう読んだ」と書けばよい。

後の世の書から出た話が400年生き延びたということ自体が、この人の茶が歌で説明できるものだった証である。関係のない歌なら、400年ももたない。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ武野紹鴎という人
1

歌を学んでから、茶に向かった

27から13年、公家に歌道かどうを学んでいる。茶はそのあとである。歌が1000年かけて磨いた物差しを、そのまま茶室に持ちこんだ

2

新しいものを作らず、組み合わせを新しくした

道具は伝えられた名物めいぶつを使う。取り合わせのほうを変える。定家ていかの「詞は旧きを、情は新しきを」の茶の形である。本歌取ほんかどりと、同じ仕組み

3

茶の湯を、日本の文化にした

それまで抹茶まっちゃも道具も唐物からものだった。床に掛かるのも禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきである。紹鴎じょうおうはそこに和歌わかを掛け、日本の歌の物差しを持ちこんだ。外から来たものを飾る場が、日本のものになった

珠光じゅこうが矛盾を楽しみ、紹鴎じょうおうが組み合わせ方を作り、利休りきゅうが価値を創り、織部おりべが型を立て、遠州えんしゅうが世の中に置き、三斎さんさいが残した。

6人並べると、茶の湯が1本の線になる紹鴎じょうおうは、その線を繋いだところにいる。

監修者の読み武井宗道

茶の湯は、紹鴎じょうおうのところで日本のものになった。

紹鴎じょうおうの時代、茶の湯はまだ100年ほどの若い道だった。何を美しいとするかの物差しが、まだ茶の中に溜まっていない。歌には、それが1000年ぶんあった紹鴎じょうおうは借りてきたのではなく、13年かけて身につけてから持ちこんでいる。

借りたのは結論ではなく、方法である。定家ていかの「詞は旧きを、情は新しきを」。道具は昔からあるものを使い、組み合わせのほうを新しくする。新しいものを作らずに、新しい景色を出すやり方である。

この人が堺の豪商だったことは、飾りではなく条件である。名物めいぶつを六十点持っていた人が「枯れかじけ寒かれ」と言う。持っていない人が同じことを言っても、それは引き算ではない。知り尽くしたうえで減らすから、減らしたことに意味が出る

珠光じゅこうは矛盾を置いた。だが置いただけでは、次の人が使えない。紹鴎じょうおうが歌の方法を当てて、はじめて人に渡せる形になった。利休りきゅうが受け取ったのは、美意識ではなく、この方法である。

そしてこれが、いちばん大きい。紹鴎じょうおうより前の茶の湯は、抹茶まっちゃも道具も中国から来たもので、床に掛かるのも禅僧ぜんそう墨蹟ぼくせきだった。外来のものを並べて見せる場だったのである。紹鴎じょうおう和歌わかを入れたことで、茶の湯は日本の文化そのものになった。「わび」を道具の好みではなく人のあり方を言う語に変えたのも、この人である。

新しいものを作るのではなく組み合わせを、新しくする
持たないから減らすのではなく知り尽くしてから、減らす
唐物を並べる場ではなく日本の文化そのものへ

歌が1000年かけたことを、茶は1人の13年で受け取った。その13年で、茶の湯は日本のものになっている。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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