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茶人解剖図鑑04体得たいとく
体得たいとくタイプ
この人は、こんな人

細川三斎ほそかわさんさい

1563 ── 1646 享年83
利休りきゅうの茶を、今日まで残した人

型を体得たいとくした人は、型の中で自由になれる。大切なものを捉え、貫き、時代に合わせつづけた

細川三斎
能きものを、
悪くしない。
今日は下から
入れました。

細川三斎ほそかわさんさいは、「特徴のない茶」と言われてきた。出所は『利休居士伝書りきゅうこじでんしょ』である。数寄すきとは「違えてする」もので、だから織部おりべはよい、三斎さんさいは少しも違えないので名を得られなかった、と。だがこの評は、違えることを物差しにしている。

三斎さんさいは、型を体得たいとくした人だった。体得たいとくしたから、型の中で自由に動けた利休りきゅうが「花は上から入れる」と定めた二重筒にじゅうづつに、和尚おしょうのためにあえて下から入れている。頑なに曲げなかったのではない。大切なものを捉えて貫き、時代と相手に合わせて、絶えず調整した。

細川三斎と かんけいのあることば
直さぬなおさぬ
能物よきもの
床天井とこてんじょう
なみだ
数寄聞書すきききがき
松向軒しょうこうけん
この人の、いちばん強いところ

定めを知っているから、外すことができる。高桐院こうとういん口切くちきりで、三斎さんさい利休りきゅうの定めた通りにせず、和尚おしょうのために下から花を入れた織部おりべを先輩として仰ぎながら、露地ろじでは従っていない。仰ぐことと、真似ることは別である。

そのうえで、貫くところは動かさなかった。将軍家との関係は細川家ほそかわけの命綱だったが、家光いえみつ茶会ちゃかいに出た茶入ちゃいれを「違うのではないか」と息子への手紙に書いている。貫きながら、合わせつづけた。それを83年やめなかった。

この人を あらわすもの
茶杓ちゃしゃく「けつりそこなひ」削りそこなった、茶杓ちゃしゃく

削りそこなったものに、そのまま「けつりそこなひ」と名をつけて残した。直さず、隠さず、捨てない。この人のやり方が、いちばんよく出ている。永青文庫えいせいぶんこに現存する。

生涯斬る人から、直さぬ人へ
細川三斎の生涯
利休りきゅう70歳、織部おりべ73歳、遠州えんしゅう69歳。三斎さんさい83歳まで生きた利休りきゅうの死を見て、織部おりべの死を見て、遠州えんしゅうを助けている。
八代やつしろの窯
焼き上がりを手に取る三斎と、待つ陶工これは、残る。
隠居して八代へ。茶と焼きものに専らだった20年。高田焼こうだやきはここから始まる。
細川三斎が つくったもの直さないことで、残したもの

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

床天井とこてんじょうを高くした

利休りきゅうは「これより天下の床天井とこてんじょうは高くなるぞ」と言ったと『久重茶会記ひさしげちゃかいき』に残る。

茶杓ちゃしゃく「けつりそこなひ」

削りそこなったものに、そのまま名をつけて残した。永青文庫えいせいぶんこ蔵。

数寄聞書すきききがき

三斎さんさいの茶の聞書。末尾に古田織部ふるたおりべ自筆じひつの三十一ヶ条を写している

細川三斎茶湯之書ほそかわさんさいちゃのゆのしょ

三斎さんさいの名を冠する茶書ちゃしょ国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん蔵。

松向軒しょうこうけん

大徳寺だいとくじ高桐院こうとういんの茶室。中柱なかばしら袖壁そでかべ下座床げざどこ

八代やつしろの窯

隠居した八代やつしろに陶工を招いた。茶は継がれなかったが、窯は継がれた

けつりそこなひ
削りそこなった茶杓を眺める三斎削りそこなった。それでよい。
削りそこなった、と自ら銘をつけた1本。型を体得した人は、型の中で自由になれる
型を体得する、ということ
型を体得するということの図解。型に縛られる場合と型を捨てる場合と型を体得する場合を並べ、体得した人にしかできないことを三つ示した図
直さないことは、頑なであることではない。定めを知っているから、外すことができる
なぜ、直さなかったのか

利休りきゅう三斎さんさいに言ったことばが残っている。
「能物ヲ悪ク成ス事、我等不成候」── 能いものを悪くすることは、自分にはできない。

三斎さんさいはこれを、生涯守った。気に入らぬ形であっても、手を入れない。

1

直したくなるのは、自分の都合である

気に入らないのは、その物が悪いからではなく、見る側の好みに合わないからである。手を入れれば、その物は自分の好みに寄る読み

2

珍しい取り合わせは、すたる

三斎茶さんさいちゃの湯口儀』に、珍敷置合めずらしきおきあわせハ、能ト当分ハ可存候得トモ、次第ニスタリ可申」とある。めずらしさは、そのときだけのものである。

3

体得たいとくした人は、型の中で自由である

利休りきゅう二重筒にじゅうづつの花を「いつも上から入れる」と定めた。三斎さんさいはその場に居合わせている。のちに高桐院こうとういん口切くちきりで、和尚おしょうのために下から入れた。定めを知っているから、外すことができる(『久重茶会記ひさしげちゃかいき』)。

残っている話

この人については、斬る話と直さぬ話の両方が残っている。

利休りきゅうが、最期に渡した茶杓ちゃしゃくなみだ

利休りきゅう切腹せっぷくの前に削り、三斎さんさいに贈ったと伝わる茶杓ちゃしゃく三斎さんさいはこれを位牌のようにあつかい、筒に窓をあけて中を拝めるようにしたという。

淀まで見送った、2人のうちの1人

利休りきゅうが追放されたとき、秀吉ひでよしを憚って誰も近づかないなか、淀まで見送りに出たのは三斎さんさい古田織部ふるたおりべだけだった。利休りきゅう自筆じひつの書状から確かめられる。

将軍が茶杓ちゃしゃくを落としたとき

家光いえみつが病の直後、三斎さんさいを招いた席での話。将軍が「私は病み上がり、三斎さんさいは老人である。今更、ボケの花でもあるまい」と言う。手元が狂ったのを、三斎さんさい「御病気直後は手が震えるものでございます」と受けた。
気の短さで知られた人が、将軍の失敗を包んでいる。

まわりの 人びと人物相関図
細川三斎の人物相関図
弟子の列に置いたのは、三斎さんさいを助けた人たちである。茶の弟子ではない三斎さんさいは茶を生業にしなかった人なので、弟子を取って流すという形になっていない。
いちばん大きな なぞなぜ、この人は名を得られなかったと言われるのか

三斎さんさいの茶は、長く「特徴がない」と評されてきた。出所は『利休居士伝書りきゅうこじでんしょ』の一節である。数寄すきとは「違えてする」のが利休りきゅうのかかりだから古織ふるおりはよい、三斎さんさいは少しも違えないので、結局それほど名を得られなかった、と。

だがこの評は、違えることを物差しにしている。違えないほうを選んだ人を、その物差しで測っている。

たしかなこと

・『数寄聞書すきききがき』の末尾に、古田織部ふるたおりべ自筆じひつの三十一ヶ条を写している

そこに批判の記述はない

三斎さんさい自身は、利休りきゅうから「茶の源流は奈良の村田珠光むらたじゅこう」と聞いたと語っている(『久重茶会記ひさしげちゃかいき』)

わからないこと

三斎さんさい織部おりべをどう思っていたのか

「特徴がない」という評を、本人が知っていたかどうか

矢部誠一郎やべせいいちろうは、三斎さんさいを保守の人として描いていない。「抑制の中で作為をあらわす」人だとする。『細川三斎ほそかわさんさい 茶の湯の世界』には「三斎さんさい作意さくいと創造性」「三斎さんさい独自の作風」の節がある。

三斎さんさい自身の名乗りは「利休りきゅうの正統」ではない。珠光じゅこうから利休りきゅう、そして自分である。受けついだのは利休りきゅうの形ではなく、珠光じゅこうから続く流れのほうだと考えていた。

利休りきゅうは頭を下げなかった。織部おりべは何も語らなかった。遠州えんしゅうは次を用意してもらった。三斎さんさいは、次へ渡した
監修者の読み ── 守るとは、動かさないことではない

矢部やべは、愛息忠利ただとしの死とともに、三斎さんさいの「大名茶だいみょうちゃ」の精神も正しい継承者を失ったと見てよいだろう、と書いている。

だが三斎流さんさいりゅう肥後古流ひごこりゅうも、いまも在る。招いた陶工の技は100年後まで届いた。遠州えんしゅうが一万両の疑いをかけられたときは、この人が助けている。

守るとは、型を動かさないことではない。能きものを悪くしないという判断を、引き継ぐことである。三斎さんさいは型を体得たいとくした人だった。体得たいとくしたから、型の中で自由に動けた。

頑なに曲げなかったのではない。大切なものを捉えて貫き、時代との調整を絶えず行った。だから利休りきゅうの茶は、今日まで残った

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ細川三斎という人
1

斬る人だった。そして、直さぬ人になった

若いころは気の短さで知られ、人を斬っている。その人が晩年、気に入らぬ形に手を入れないことを守り抜いた。同じ人の、同じ強さである

2

型を体得たいとくしたから、型の中で自由だった

利休りきゅうが定めた二重筒にじゅうづつの花を、和尚おしょうのために下から入れた。織部おりべを先輩と仰ぎながら、露地ろじでは従わなかった。仰ぐことと、真似ることは別である

3

利休りきゅうの茶を、今日まで残した

三斎流さんさいりゅう肥後古流ひごこりゅうもいまに在る。招いた陶工の技は100年後まで届いた。遠州えんしゅうが疑いをかけられたときは、この人が助けている。貫きながら、合わせつづけた

利休りきゅうが価値を創り、織部おりべが型を立て、遠州えんしゅうが世の中に置いた。

三斎さんさいは、残した。4人めがこの人であることに、意味がある。

監修者の読み武井宗道

守るとは、型を動かさないことではない。

長いあいだ、三斎さんさいは「師の形を一分の違いもなく守った人」と語られてきた。私も一度そう書いた。だが三斎さんさい自身の名乗りは珠光じゅこうから利休りきゅう、そして自分である。受けついだつもりだったのは、利休りきゅうの形ではなく、その前から続く流れだった。

この人は型を体得たいとくしていた。体得たいとくした人は、型の中で自由である利休りきゅうが定めた二重筒にじゅうづつの花を、和尚おしょうのために下から入れた。定めを知っているから、外すことができる。頑なに曲げなかったのではない。

大切なものを捉え、貫き、時代との調整を絶えず行った。将軍家との関係は細川家ほそかわけの命綱だったが、道具を見る目だけは売らなかった。貫くことと、合わせることは、同じ人の中で両立する

4人を並べると、茶の湯が何でできているかが見えてくる。創る人、立てる人、置く人、そして残す人。どれが欠けても、いまの形にはなっていない。

頑なに曲げないのではなく大切なものを捉え、貫く
型に縛られるのではなく型を体得して、型の中で自由になる
師の形を守るのではなく師の前から続く流れを継ぐ

守るとは、型を動かさないことではなく、能きものを悪くしないという判断を、引き継ぐことである。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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