型を体得した人は、型の中で自由になれる。大切なものを捉え、貫き、時代に合わせつづけた。
細川三斎は、「特徴のない茶」と言われてきた。出所は『利休居士伝書』である。数寄とは「違えてする」もので、だから織部はよい、三斎は少しも違えないので名を得られなかった、と。だがこの評は、違えることを物差しにしている。
三斎は、型を体得した人だった。体得したから、型の中で自由に動けた。利休が「花は上から入れる」と定めた二重筒に、和尚のためにあえて下から入れている。頑なに曲げなかったのではない。大切なものを捉えて貫き、時代と相手に合わせて、絶えず調整した。
定めを知っているから、外すことができる。高桐院の口切で、三斎は利休の定めた通りにせず、和尚のために下から花を入れた。織部を先輩として仰ぎながら、露地では従っていない。仰ぐことと、真似ることは別である。
そのうえで、貫くところは動かさなかった。将軍家との関係は細川家の命綱だったが、家光の茶会に出た茶入を「違うのではないか」と息子への手紙に書いている。貫きながら、合わせつづけた。それを83年やめなかった。
削りそこなったものに、そのまま「けつりそこなひ」と名をつけて残した。直さず、隠さず、捨てない。この人のやり方が、いちばんよく出ている。永青文庫に現存する。◎
◎=はっきり確かめられる ○=そう伝わっている
利休は「これより天下の床天井は高くなるぞ」と言ったと『久重茶会記』に残る。
削りそこなったものに、そのまま名をつけて残した。永青文庫蔵。
三斎の茶の聞書。末尾に古田織部自筆の三十一ヶ条を写している。
三斎の名を冠する茶書。国文学研究資料館蔵。
大徳寺高桐院の茶室。中柱と袖壁、下座床。
隠居した八代に陶工を招いた。茶は継がれなかったが、窯は継がれた。
利休が三斎に言ったことばが残っている。
「能物ヲ悪ク成ス事、我等不成候」── 能いものを悪くすることは、自分にはできない。
三斎はこれを、生涯守った。気に入らぬ形であっても、手を入れない。
気に入らないのは、その物が悪いからではなく、見る側の好みに合わないからである。手を入れれば、その物は自分の好みに寄る。読み
『三斎茶の湯口儀』に、「珍敷置合ハ、能ト当分ハ可存候得トモ、次第ニスタリ可申」とある。めずらしさは、そのときだけのものである。◎
利休は二重筒の花を「いつも上から入れる」と定めた。三斎はその場に居合わせている。のちに高桐院の口切で、和尚のために下から入れた。定めを知っているから、外すことができる(『久重茶会記』)。◎
この人については、斬る話と直さぬ話の両方が残っている。
利休が切腹の前に削り、三斎に贈ったと伝わる茶杓。三斎はこれを位牌のようにあつかい、筒に窓をあけて中を拝めるようにしたという。
利休が追放されたとき、秀吉を憚って誰も近づかないなか、淀まで見送りに出たのは三斎と古田織部だけだった。利休自筆の書状から確かめられる。
家光が病の直後、三斎を招いた席での話。将軍が「私は病み上がり、三斎は老人である。今更、ボケの花でもあるまい」と言う。手元が狂ったのを、三斎は「御病気直後は手が震えるものでございます」と受けた。
気の短さで知られた人が、将軍の失敗を包んでいる。
三斎の茶は、長く「特徴がない」と評されてきた。出所は『利休居士伝書』の一節である。数寄とは「違えてする」のが利休のかかりだから古織はよい、三斎は少しも違えないので、結局それほど名を得られなかった、と。
だがこの評は、違えることを物差しにしている。違えないほうを選んだ人を、その物差しで測っている。
・『数寄聞書』の末尾に、古田織部自筆の三十一ヶ条を写している
・そこに批判の記述はない
・三斎自身は、利休から「茶の源流は奈良の村田珠光」と聞いたと語っている(『久重茶会記』)
・三斎が織部をどう思っていたのか
・「特徴がない」という評を、本人が知っていたかどうか
矢部誠一郎は、三斎を保守の人として描いていない。「抑制の中で作為をあらわす」人だとする。『細川三斎 茶の湯の世界』には「三斎の作意と創造性」「三斎独自の作風」の節がある。
三斎自身の名乗りは「利休の正統」ではない。珠光から利休、そして自分である。受けついだのは利休の形ではなく、珠光から続く流れのほうだと考えていた。
矢部は、愛息忠利の死とともに、三斎の「大名茶」の精神も正しい継承者を失ったと見てよいだろう、と書いている。
だが三斎流も肥後古流も、いまも在る。招いた陶工の技は100年後まで届いた。遠州が一万両の疑いをかけられたときは、この人が助けている。
守るとは、型を動かさないことではない。能きものを悪くしないという判断を、引き継ぐことである。三斎は型を体得した人だった。体得したから、型の中で自由に動けた。
頑なに曲げなかったのではない。大切なものを捉えて貫き、時代との調整を絶えず行った。だから利休の茶は、今日まで残った。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
若いころは気の短さで知られ、人を斬っている。その人が晩年、気に入らぬ形に手を入れないことを守り抜いた。同じ人の、同じ強さである。
利休が定めた二重筒の花を、和尚のために下から入れた。織部を先輩と仰ぎながら、露地では従わなかった。仰ぐことと、真似ることは別である。
三斎流も肥後古流もいまに在る。招いた陶工の技は100年後まで届いた。遠州が疑いをかけられたときは、この人が助けている。貫きながら、合わせつづけた。
利休が価値を創り、織部が型を立て、遠州が世の中に置いた。
三斎は、残した。4人めがこの人であることに、意味がある。
守るとは、型を動かさないことではない。
長いあいだ、三斎は「師の形を一分の違いもなく守った人」と語られてきた。私も一度そう書いた。だが三斎自身の名乗りは珠光から利休、そして自分である。受けついだつもりだったのは、利休の形ではなく、その前から続く流れだった。
この人は型を体得していた。体得した人は、型の中で自由である。利休が定めた二重筒の花を、和尚のために下から入れた。定めを知っているから、外すことができる。頑なに曲げなかったのではない。
大切なものを捉え、貫き、時代との調整を絶えず行った。将軍家との関係は細川家の命綱だったが、道具を見る目だけは売らなかった。貫くことと、合わせることは、同じ人の中で両立する。
4人を並べると、茶の湯が何でできているかが見えてくる。創る人、立てる人、置く人、そして残す人。どれが欠けても、いまの形にはなっていない。
守るとは、型を動かさないことではなく、能きものを悪くしないという判断を、引き継ぐことである。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
◎ はっきり確かめられること
○ そう伝わっていること
読み 監修者の解釈。史実とは分けています
この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。
監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学