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茶人解剖図鑑09東山ひがしやま
東山ひがしやまタイプ
この人は、こんな人

足利義政あしかがよしまさ

1436 ── 1490 享年55
飾ることの、文法を作った人

何をどこへ置くかに、決まりを作った。道具に序列と作法が生まれたのは、ここである。

足利義政
絵は、この順に
掛けるものである。
政より、
美のほうがよい。

政治家としての評価は、はっきり言ってきびしい。応仁おうにんの乱で京都は焼け野原になった。そのさなかに、この将軍が心を注いだのは美のほうだった。その「逃げ」から、日本の宝がいくつも生まれている

1人でやったのではない。側に「同朋衆どうぼうしゅう」がいた。能阿弥のうあみ芸阿弥げいあみ相阿弥そうあみという、阿弥あみの名を持つ目利めききの一団である。美に専門家を置いた。いまで言えば学芸員であり、部屋の設計者だった。

足利義政と かんけいのあることば
東山文化ひがしやまぶんか
同朋衆どうぼうしゅう
君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき
座敷飾りざしきかざり
同仁斎どうじんさい
東山御物ひがしやまごもつ
この人の、いちばん強いところ

美を、気分の話にしなかった。同朋衆どうぼうしゅう唐物からものの格を定めさせ、座敷ざしきのどこに何を置くかを書き留めさせた。『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』である。好きか嫌いかではなく、習えば誰でもできる形にした。文化は、書き留められたところから受けつがれる。

そして身分で選ばなかった。同朋衆どうぼうしゅうは時宗の僧のなりをした人たちで、武家でも公家でもない。将軍のいちばん近くで美を決めていたのは、身分の外にいる専門家だった。この形があったから、のちに堺の商人が天下人のそばで茶を点てられた。

この人を あらわすもの
東求堂とうぐどう同仁斎どうじんさい4畳半よじょうはんの、小さな書斎

東山山荘ひがしやまさんそうに現存する。畳を敷きつめた4畳半よじょうはんに、違い棚と付書院つけしょいん。和室と茶室の原型が、ここにあると言われる。珠光じゅこう4畳半よじょうはんも、利休りきゅうの2畳も、この部屋の先にある。

生涯政に倦み、美に向かった
足利義政の生涯
将軍としては何も止められなかった人が、退いてから500年残るものを作っている。政と文化は、同じ物差しでは測れない。
焼けた京の、東の山に
造営中の山荘の縁に腰かけ、石を据える人夫たちに位置を指図する義政その石は、もそっと右へ。
応仁おうにんの乱は10年続き、京が焼けた。将軍は止められなかった。乱の5年後、義政は東山に山荘を建てはじめる。死ぬまでの8年、造営はやまなかった
足利義政が つくったもの飾り方を、形にした

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

東求堂とうぐどう同仁斎どうじんさい

4畳半よじょうはん。畳を敷きつめ、違い棚と付書院つけしょいんをそなえる。和室と茶室の原型とされる。現存する。

君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき

唐物からものの格付けと、座敷ざしきの飾り方の手引き。同朋衆どうぼうしゅうの手になる

同朋衆どうぼうしゅうという仕組み

阿弥号あみごうを持つ目利めききを側に置いた。能阿弥のうあみ芸阿弥げいあみ相阿弥そうあみの3代。

東山御物ひがしやまごもつ

将軍家の唐物からものの集まり。のちに散り、信長のぶながが集め直すことになる。

観音殿かんのんでん銀閣ぎんかく

東山山荘ひがしやまさんそうの楼閣。義政よしまさの没する前年に建った。

書院しょいんの茶

座敷飾ざしきかざりを見せる茶。わび茶の前夜である

書き留めさせた
座敷飾りの唐物を置き直す義政と、それを書き留める同朋衆置きようで、物は変わる。
何をどこへ置くか。同朋衆どうぼうしゅうに書き留めさせた。『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』である。好きか嫌いかではなく、習えば誰でもできる形にした
飾ることの、文法
座敷飾りの図解。押板・違い棚・付書院に何をどこへ置くかの決まりと、唐物の格付けを示した図
この決まりがあったから、珠光じゅこうの「和漢わかんのさかいをまぎらかす」が意味を持つ。外すには、外すべき決まりが要る
なぜ、決まりを書き留めたのか

美は言葉にしにくい。それでもこの人たちは、書き留めた。
どの絵を掛け、どの棚に何を置くか。高さも、数も、順も。

1

唐物からものが、多すぎた

将軍家には中国から来たものが山ほどあった。多いものは、並べ方を決めないと見えなくなる読み

2

書き留めれば、受けつげる

目利めきき1人の頭にあるうちは、その人が死ねば消える。書いたものは、習えば誰でも使える。文化はここから続く。読み

3

決めた人が、身分の外にいた

同朋衆どうぼうしゅうは武家でも公家でもない。美を決める席が、身分とは別に用意された。のちに堺の商人が天下人のそばに立てたのは、この形があったからである。

残っている話

この人のまわりの話は、後の世が整えたものが多い。

珠光じゅこうに茶を習った

山上宗二記やまのうえそうじき』にある話。だが側近の日記『蔭涼軒日録いんりょうけんにちろく』に珠光じゅこうの名は出てこない。堺の茶人ちゃじんが、自分たちの茶に将軍の権威を結ぶために要った話である。

同朋衆どうぼうしゅうが、珠光じゅこうの下座についた

能阿弥のうあみ珠光じゅこうに立花と唐物からものの目を教え、逆に茶の奥を教わったと伝わる。将軍に会えなくても、ここでは行き来があった

銀閣ぎんかくという名は、後からついた

義政よしまさの世には「観音殿かんのんでん」である。「銀閣ぎんかく」と呼ばれるようになったのは江戸のころ。金閣きんかくの対として並べたのは、後の世である

歴史の わかれ道茶の湯は、こう変わった
部屋
寝殿造の広い板の間
畳を敷きつめた4畳半よじょうはん。違い棚と付書院つけしょいん
飾り方
持ち主が、思い思いに置く
手引きの決まりに従う。位置も高さも数も
道具
珍しい舶来の品
格がつく。画人の名で上中下が決まる
だれが決めるか
持ち主である将軍
同朋衆どうぼうしゅう身分の外にいる目利めき
茶の場
産地を当てて賭ける闘茶とうちゃ
座敷飾ざしきかざりを見せる場書院しょいんの茶

ここで茶の湯は、遊びから見せる場になった。豪華すぎるからこそ、それをひっくり返した珠光じゅこうが際立つ書院しょいんの茶は、わび茶の敵ではない。前夜である。

まわりの 人びと人物相関図
足利義政の人物相関図
師の欄が無い。この人に茶の師はいない。美を決めていたのは、雇った専門家のほうである。弟子の列に置いたのも人ではなく、受けつがれた形である。
いちばん大きな なぞなぜ、銀閣ぎんかくに銀は貼られていないのか

金閣きんかくには金箔が貼ってある。銀閣ぎんかくには銀が無い。だから応仁おうにんの乱で金が尽きた、義政よしまさが死んで未完に終わったと語られてきた。

ところが平成の調査で、建物から銀箔の痕跡は見つからなかった。貼ってあったものが剥がれたのではない。はじめから貼られていない。

たしかなこと

・建物の本来の名は「観音殿かんのんでん」である

銀箔の痕跡は検出されていない

・「銀閣ぎんかく」の呼び名が広まるのは江戸のころ

わからないこと

はじめから銀を貼る計画があったのかどうか

義政よしまさ自身が、この建物をどう呼んでいたか

同仁斎どうじんさいを誰が設計したか

名前が先にあると、建物のほうが足りなく見える。「銀閣ぎんかく」と呼ぶから、銀が無いことが欠けに見えるのである。名をつけたのは、後の世である

義政よしまさが建てたのは、漆黒の板壁に白い障子の楼閣だった。足りないのではなく、そう作られている

義政よしまさは、銀という名を足された。足された名のせいで、はじめから無かったものが欠けに見えるようになった。
監修者の読み ── 足りないのではなく、そう作られている

金閣きんかくの対として銀閣ぎんかく、と並べるのは分かりやすい。義満よしみつは金、義政よしまさは銀。華やかな祖父と、地味な孫。だがそう並べた瞬間、この建物は「金に及ばないもの」になってしまう

銀の痕跡が無いのなら、読み方を変えたほうがよいと思う。黒い板壁と白い障子、苔と砂。足りないのではなく、そう作られている。

この読み方をとると、珠光じゅこうとの距離が近くなる。同じころ、同じ京で、派手さを削いだところに美しさを見る目が育っていた。将軍と奈良の僧は会っていないかもしれないが、時代のほうは同じである。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ足利義政という人
1

政では何も止められなかった

14歳で将軍になり、応仁おうにんの乱を止められず、京は焼けた。政治家としての評価は、きびしいままでよい。そこを飾る必要はない。

2

退いてから、500年残るものを作った

東山山荘ひがしやまさんそう同仁斎どうじんさい4畳半よじょうはん東山御物ひがしやまごもつ、そして座敷ざしきの飾り方の手引き。政と文化は、同じ物差しでは測れない

3

決まりを作ったから、外す人が出てきた

何をどこへ置くかが定まり、唐物からものに順がついた。その順があるから、珠光じゅこうの「さかいをまぎらかす」が意味を持つ書院しょいんの茶は、わび茶の敵ではなく前夜である。

義政よしまさ同朋衆どうぼうしゅうが飾ることに決まりを作り、珠光じゅこうがそのさかいをまぎらかした。

図鑑のいちばん手前てまえに、この人がいる。茶の湯の話は、壊す人から始まっているように見えて、その前に必ず作った人がいる。

監修者の読み武井宗道

書院しょいんの茶は、わび茶の前夜である。

茶の湯の話は、たいてい珠光じゅこうから始まる。豪華な唐物からものに背を向けた人、というところから語り出す。だが背を向ける相手は、その前に誰かが作っている。それが義政よしまさ同朋衆どうぼうしゅうである。

この人たちがやったのは、美を書き留めることだった。どの絵を掛け、どの棚に何を置くか。気分の話を、習えば誰でも使える形にしている。文化は、書き留められたところから続く

もう一つ大きいのは、美を決める人を身分の外に置いたことである。同朋衆どうぼうしゅうは武家でも公家でもない。この席があったから、のちに堺の商人が天下人のそばで茶を点てられた。利休りきゅうの立った場所は、ここで用意されている

政治家としての評価は、きびしいままでよいと思う。そこを直す必要はない。ただ、止められなかった人が退いてから作ったものが、500年のこっている。それだけのことである。

わび茶の敵ではなくわび茶の、前夜
美を語ったのではなく美を、書き留めた
身分で選んだのではなく目利きを、身分の外に置いた

決まりを作った人がいたから、外した人が偉く見える。壊す話の前には、必ず作った人がいる。

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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