何をどこへ置くかに、決まりを作った。道具に序列と作法が生まれたのは、ここである。
政治家としての評価は、はっきり言ってきびしい。応仁の乱で京都は焼け野原になった。そのさなかに、この将軍が心を注いだのは美のほうだった。その「逃げ」から、日本の宝がいくつも生まれている。
1人でやったのではない。側に「同朋衆」がいた。能阿弥・芸阿弥・相阿弥という、阿弥の名を持つ目利きの一団である。美に専門家を置いた。いまで言えば学芸員であり、部屋の設計者だった。
美を、気分の話にしなかった。同朋衆に唐物の格を定めさせ、座敷のどこに何を置くかを書き留めさせた。『君台観左右帳記』である。好きか嫌いかではなく、習えば誰でもできる形にした。文化は、書き留められたところから受けつがれる。
そして身分で選ばなかった。同朋衆は時宗の僧のなりをした人たちで、武家でも公家でもない。将軍のいちばん近くで美を決めていたのは、身分の外にいる専門家だった。この形があったから、のちに堺の商人が天下人のそばで茶を点てられた。
東山山荘に現存する。畳を敷きつめた4畳半に、違い棚と付書院。和室と茶室の原型が、ここにあると言われる。珠光の4畳半も、利休の2畳も、この部屋の先にある。◎
◎=はっきり確かめられる ○=そう伝わっている
4畳半。畳を敷きつめ、違い棚と付書院をそなえる。和室と茶室の原型とされる。現存する。
唐物の格付けと、座敷の飾り方の手引き。同朋衆の手になる。
阿弥号を持つ目利きを側に置いた。能阿弥・芸阿弥・相阿弥の3代。
将軍家の唐物の集まり。のちに散り、信長が集め直すことになる。
東山山荘の楼閣。義政の没する前年に建った。
座敷飾りを見せる茶。わび茶の前夜である。
美は言葉にしにくい。それでもこの人たちは、書き留めた。
どの絵を掛け、どの棚に何を置くか。高さも、数も、順も。
将軍家には中国から来たものが山ほどあった。多いものは、並べ方を決めないと見えなくなる。読み
目利き1人の頭にあるうちは、その人が死ねば消える。書いたものは、習えば誰でも使える。文化はここから続く。読み
同朋衆は武家でも公家でもない。美を決める席が、身分とは別に用意された。のちに堺の商人が天下人のそばに立てたのは、この形があったからである。◎
この人のまわりの話は、後の世が整えたものが多い。
『山上宗二記』にある話。だが側近の日記『蔭涼軒日録』に珠光の名は出てこない。堺の茶人が、自分たちの茶に将軍の権威を結ぶために要った話である。
能阿弥は珠光に立花と唐物の目を教え、逆に茶の奥を教わったと伝わる。将軍に会えなくても、ここでは行き来があった。
義政の世には「観音殿」である。「銀閣」と呼ばれるようになったのは江戸のころ。金閣の対として並べたのは、後の世である。
ここで茶の湯は、遊びから見せる場になった。豪華すぎるからこそ、それをひっくり返した珠光が際立つ。書院の茶は、わび茶の敵ではない。前夜である。
金閣には金箔が貼ってある。銀閣には銀が無い。だから応仁の乱で金が尽きた、義政が死んで未完に終わったと語られてきた。
ところが平成の調査で、建物から銀箔の痕跡は見つからなかった。貼ってあったものが剥がれたのではない。はじめから貼られていない。
・建物の本来の名は「観音殿」である
・銀箔の痕跡は検出されていない
・「銀閣」の呼び名が広まるのは江戸のころ
・はじめから銀を貼る計画があったのかどうか
・義政自身が、この建物をどう呼んでいたか
・同仁斎を誰が設計したか
名前が先にあると、建物のほうが足りなく見える。「銀閣」と呼ぶから、銀が無いことが欠けに見えるのである。名をつけたのは、後の世である。
義政が建てたのは、漆黒の板壁に白い障子の楼閣だった。足りないのではなく、そう作られている。
金閣の対として銀閣、と並べるのは分かりやすい。義満は金、義政は銀。華やかな祖父と、地味な孫。だがそう並べた瞬間、この建物は「金に及ばないもの」になってしまう。
銀の痕跡が無いのなら、読み方を変えたほうがよいと思う。黒い板壁と白い障子、苔と砂。足りないのではなく、そう作られている。
この読み方をとると、珠光との距離が近くなる。同じころ、同じ京で、派手さを削いだところに美しさを見る目が育っていた。将軍と奈良の僧は会っていないかもしれないが、時代のほうは同じである。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
14歳で将軍になり、応仁の乱を止められず、京は焼けた。政治家としての評価は、きびしいままでよい。そこを飾る必要はない。
東山山荘、同仁斎の4畳半、東山御物、そして座敷の飾り方の手引き。政と文化は、同じ物差しでは測れない。
何をどこへ置くかが定まり、唐物に順がついた。その順があるから、珠光の「さかいをまぎらかす」が意味を持つ。書院の茶は、わび茶の敵ではなく前夜である。
義政と同朋衆が飾ることに決まりを作り、珠光がそのさかいをまぎらかした。
図鑑のいちばん手前に、この人がいる。茶の湯の話は、壊す人から始まっているように見えて、その前に必ず作った人がいる。
書院の茶は、わび茶の前夜である。
茶の湯の話は、たいてい珠光から始まる。豪華な唐物に背を向けた人、というところから語り出す。だが背を向ける相手は、その前に誰かが作っている。それが義政と同朋衆である。
この人たちがやったのは、美を書き留めることだった。どの絵を掛け、どの棚に何を置くか。気分の話を、習えば誰でも使える形にしている。文化は、書き留められたところから続く。
もう一つ大きいのは、美を決める人を身分の外に置いたことである。同朋衆は武家でも公家でもない。この席があったから、のちに堺の商人が天下人のそばで茶を点てられた。利休の立った場所は、ここで用意されている。
政治家としての評価は、きびしいままでよいと思う。そこを直す必要はない。ただ、止められなかった人が退いてから作ったものが、500年のこっている。それだけのことである。
決まりを作った人がいたから、外した人が偉く見える。壊す話の前には、必ず作った人がいる。
※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。
◎ はっきり確かめられること
○ そう伝わっていること
読み 監修者の解釈。史実とは分けています
この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。
監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学