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茶人解剖図鑑12乞食宗旦そうたん
乞食宗旦そうたんタイプ
この人は、こんな人

千宗旦せんのそうたん

1578 ── 1658 享年81
絶やさないために、分けた人

利休りきゅう秀吉ひでよしひとりに仕えて死んだ。宗二そうじ織部おりべも、仕えた相手に殺された。宗旦そうたんはどこにも仕えず、3人の子を別々の家へ出した

千宗旦
茶の湯は
夜咄よばなしに極まる。
さびたるを
本にして。

利休りきゅうの孫。父は少庵しょうあん。祖父が切腹せっぷくした天正てんしょう19年、宗旦そうたんは13歳だった千家せんけは取り潰され、父は会津の蒲生氏郷がもううじさとに預けられる。家が赦されて戻ってから、この人の仕事が始まった。

生涯どこにも仕えなかった。1畳台目いちじょうだいめ今日庵こんにちあんに住み、乞食宗旦そうたんと呼ばれた。そして81まで生きた。利休りきゅうを直に見た最後の世代が、誰よりも長く残ったということである。

千宗旦と かんけいのあることば
今日庵こんにちあん
乞食宗旦こじきそうたん
夜咄よばなし
三千家さんせんけ
江岑夏書こうしんげがき
宗旦木槿そうたんむくげ
この人の、いちばん強いところ

一つに賭けなかった。祖父は秀吉ひでよしひとりに仕えて死に、祖父の高弟だった宗二そうじも同じ人に殺され、織部おりべ家康いえやすの世で果てた。千家せんけ茶人ちゃじんが権力者1人に寄りかかるとどうなるか宗旦そうたんの生きているあいだに、三度起きている。3人の子を、紀州徳川きしゅうとくがわ加賀前田かがまえだ高松松平たかまつまつだいらへ別々に出した。

そして自分は、どこにも仕えなかった。仕える家を持たない者が1人いれば、子の家がどう転んでもびの本家は空かない。貧しさに徹したことと、子を大名家へ出したことは、別々の顔ではない。同じ一つの目的の、行き先が二つあるだけである。

この人を あらわすもの
今日庵こんにちあん1畳台目いちじょうだいめの席

利休りきゅう待庵たいあんが2畳。それをさらに詰めた。客は1人、主と向かい合うだけの広さである。道具を飾る場所が、もう無い。

生涯潰れた家を建て直し、三つに分けて渡した
千宗旦の生涯
節の付け方が、ほかの人と逆である。多くの茶人ちゃじん最後に何かが起きるが、宗旦そうたんは13歳のときに全部起きてしまっている。あとの68年は、起きたことを起こさないための時間だった。
3人の子を、送り出す
戸口に立ち、荷を負って街道へ出ていく3人の子を見送る宗旦行きなさい。別々に。
江岑こうしん紀州徳川きしゅうとくがわへ、仙叟せんそう加賀前田かがまえだへ、一翁いちおう高松松平たかまつまつだいらへ。一つに賭けなかった
宗旦が したこと建て直し、詰めて、分けた

◎=はっきり確かめられる  ○=そう伝わっている

千家せんけの再興

利休りきゅう切腹せっぷくで取り潰された家を、父少庵しょうあんのあと受けついで立て直した。ここで絶えていた可能性は十分にある

今日庵こんにちあん

1畳台目いちじょうだいめ待庵たいあんの2畳をさらに詰めた。極小の席に、主と客の直心じきしんの交わりだけを残した

又隠ゆういん

4畳半よじょうはん今日庵こんにちあん仙叟せんそうに譲ってから結んだ席と伝わる。詰めきったあとに、もう一度4畳半よじょうはんへ戻っている

三つに分けた家

江岑こうしん紀州徳川きしゅうとくがわへ、仙叟せんそう加賀前田かがまえだへ、一翁いちおう高松松平たかまつまつだいらへ。表・裏・武者小路の三千家さんせんけになる

釣舟つりぶね花入はないれ

江岑夏書こうしんげがき』に「釣舟つりぶね花入はないれ宗旦そうたんが初めて」とある。道具を作らなかった人ではない宗旦そうたん木槿むくげにも名が残る。

江岑こうしんに渡した記憶

81まで生きたので、子の江岑こうしんは何度でも尋ねられた。江岑夏書こうしんげがき』は、その答えの束である

今日庵こんにちあん
1畳台目に座る宗旦と、天井を見上げて狭さに驚く客一物も、持たぬ。
1畳台目だいめ。道具は釜が一つだけ。仕える家を持たない者が1人いれば、侘びの本家は空かない
一つに、賭けない
千家が一つの権力に依存すると絶えることと、宗旦が三家を三つの大名家へ分けて出したことを並べた図
左の3人は、いずれもこの図鑑に載っている。宗旦そうたんは全員の死を同時代に見ている。右の形にしたのが危険を分けるためだったと言い切る史料は無い。並べるとそう見える、というところまでである。
江岑夏書こうしんげがき』に残る、宗旦そうたんの言葉寛文かんぶん3年(1663) 子の江岑こうしんが書き留めた

茶湯ちゃのゆ夜咄よばなし茶会ちゃかいきわまると、宗旦そうたん度々たびたびもうさそうろう

茶の湯は夜咄よばなし茶会ちゃかいに極まる、と宗旦そうたんはたびたび言っておられた。灯の下、暗がりの中でする茶のことである。

茶之湯ちゃのゆ根本こんぽん、さびたをもとにして致候いたしそうろう大切たいせつ成事なることそうろう。さびはへちにも似申候にもうしそうろうども格別かくべつことにて、持様もちよう大切たいせつそうろう

茶の湯の根本は、さびたものを本にしてする。さびは、ただつまらないのとよく似ている。だが別のものである。見た目ではなく、気の持ちようのほうが大切である。

茶湯ちゃのゆには道理どうりまりそうろう。そのさき無理むりあり。これちゃ極意ごくいそうろう

茶の湯には道理が詰まっている。その先に、道理を離れたところがある。型を積み上げきった先にしか、型を超えた自在は出てこない

書いたのは宗旦本人ではない。子の江岑が、父から聞いたことを100日のあいだ毎朝書き留めた。奥書に「100日之間、毎朝書申候」とある。宗旦が81まで生きたから、江岑は何度でも尋ねることができた。「父宗旦が81歳まで生きていて、茶湯について細かく尋ねましたので、よく覚えているのです」と江岑は書いている。

※ 三つめの「道理と無理」は、江岑の書きぶりでは宗旦の語とまでは断じられません。宗旦から江岑へ渡ったものとして、この面に置きました。訳は監修者の読みによります。

なぜ、仕えなかったのか

茶で生きるなら、大名家に茶頭さどうとして入るのが普通である。
宗旦そうたんは68年、一度もそれをしていない

1

仕えた茶人ちゃじんが、3人死んでいる

利休りきゅう山上宗二やまのうえそうじ古田織部ふるたおりべいずれも仕えた相手に死を命じられた宗旦そうたんはこの三つを、同時代の出来事として見ている。

2

祖父の嘆きを、家が知っていた

「けがさじと思ふ御法のともすれば 世わたる橋となるぞ悲しき」。利休りきゅうが口ずさんでいたと宗二そうじが書き留めた一首いっしゅである。茶が世渡りの手段になるのが悲しい、と。

3

仕えない者が、1人要る

子が三家とも大名家に入れば、千家せんけは武家の中の家になる。誰にも仕えない者が1人残っていれば、びの出どころは武家の外にあると言える。自分が貧しいままでいることが、子の仕官しかんを成り立たせている。読み

だから、二つに割らない

「清貧の宗旦そうたん」と「子を大名家へ出した宗旦そうたん」を、表と裏のように並べたくなる。だが二つの顔があるのではない。絶やさないという一つの目的の、行き先が二つあるだけである。片方だけでは、どちらも成り立たない。読み

残っている話

どれも『江岑夏書こうしんげがき』にある。子が父から聞いた話である。

高山右近たかやまうこんの手が震えた

久しぶりに金沢から戻った右近うこんが、少庵しょうあん茶会ちゃかいに来た。露地口ろじぐちで出会ったとき、百戦の武将の手が震え、顔色が変わっていた亭主ていしゅ少庵しょうあんはいつも通り。宗旦そうたんは「茶の湯とはすごきもの」と思ったという。

蘭を入れた日は、香をたかない

花に蘭を入れるときは香をたかない。宗旦そうたんは一生たかなかったと書かれている。蘭に香りがあるからである。足さないことを、60年以上守り通した。

九つめの四方釜よほうがま

少庵しょうあんが肩の曲がりに納得できず、かまを九つ鋳させては割った。九つめだけがよく出来たので秘蔵し、宗旦そうたんはそれを風炉ふろに自在で釣って使った。のちに銀100貫で人手に渡っている。

歴史の わかれ道茶の湯は、こう変わった
茶人の身分
大名家に仕える茶頭さどう
どこにも仕えない家が、一つ立った
千家の数
一つ。潰れれば終わり
三つ。別々の大名家についた
続き方
後ろ盾が倒れれば、茶も倒れる
一つ倒れても、あとの二つが残る
席の広さ
待庵たいあんの2畳が極小だった
1畳台目いちじょうだいめ。飾る場所が無くなった
利休の記憶
見た人が、次々に死んでいく
81まで生きて、子に渡した

いま茶道を習っている人のほとんどは、この人が分けた三つの家のどれかに属している利休りきゅうが作り、宗二そうじが書き、三斎さんさいが体で伝えたものを、宗旦そうたん潰れない仕組みに変えた。

まわりの 人びと人物相関図
千宗旦の人物相関図
師の欄に祖父と父が並ぶ。宗旦そうたん利休りきゅうに習えたのは13歳までで、茶そのものは父少庵しょうあんから受けている。右の欄は点線にした ── 仕えなかったことも、この人にとっては関係の一つだからである。長男の宗拙そうせつは家を出ており、三千家さんせんけに入っていない。
いちばん大きな なぞなぜ、自分は仕えず、子には仕えさせたのか

宗旦そうたんは生涯仕官しかんしなかった。1畳台目いちじょうだいめに住み、乞食宗旦そうたんと呼ばれた。ここまでなら、清貧を貫いた人の話で終わる。

ところが3人の子は、そろって大名家に出している。江岑こうしん紀州徳川きしゅうとくがわに200石、仙叟せんそう加賀前田かがまえだ一翁いちおう高松松平たかまつまつだいら自分がしなかったことを、子にはさせている

しかも江岑こうしん仕官しかんは、紀州に住まず京と往復するという異例の形だった。家は京に置いたままである

たしかなこと

宗旦そうたん自身が仕官しかんした記録は無い

江岑こうしん寛永かんえい19年、紀州徳川頼宣きしゅうとくがわよりのぶに200石で仕えた

江岑こうしんは京の家と紀州を往復する形で出仕している

正保しょうほう3年、宗旦そうたん江岑こうしん家督かとくを譲っている

わからないこと

分けたのが意図だったのか、結果だったのか

宗旦そうたん自身に仕官しかんの誘いがあったのかどうか

・長男の宗拙そうせつが家を出た事情

茶で食べていくには、大名家に入るしかない時代である。子を出さなければ、千家せんけは食えずに消える。出すしかなかった

だが三家とも武家に入ってしまえば、千家せんけは武家の中の家になる。びの出どころが、仕える側になってしまう。だから誰にも仕えない者が、1人残っている必要があった

清貧と仕官しかんは、矛盾ではない。片方が片方を成り立たせている。宗旦そうたんが貧しいままでいたから、子は堂々と仕えられた

乞食と呼ばれることを、この人は引き受けている。呼ばれておくことにも、役がある
監修者の読み ── 13歳で全部を見た人の、68年

宗旦そうたんの生涯は、節の付き方がほかの茶人ちゃじんと逆である。多くの人は最後に何かが起きる。この人は、13歳のときに全部起きてしまっている。祖父が切腹せっぷくし、家が潰れ、父が預けられた。

そのあとの68年は、同じことを二度起こさないための時間だったのではないか。仕えなかったのも、1畳台目いちじょうだいめまで詰めたのも、子を三つに分けたのも、向いている方向は同じである。絶やさない。

そして81まで生きた。これが最後の仕事になった。利休りきゅうを直に見た人が長く残ったから、子の江岑こうしん何度でも尋ねることができた。『江岑夏書こうしんげがき』百二十二項の出どころは、ほとんどこの人の記憶である。

長生きは手柄てがらではない。だがこの場合だけは、生きていること自体が伝達だった

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

まとめ千宗旦という人
1

絶やさないために、分けた

千家せんけ茶人ちゃじんが権力者1人に寄りかかるとどうなるかを、三度見ている。3人の子を別々の大名家へ出した。一つ倒れても、あとの二つが残る

2

自分は、どこにも仕えなかった

清貧と仕官しかんは矛盾ではない。宗旦そうたんが貧しいままでいたから、子は堂々と仕えられたびの出どころが武家の外に残る。

3

81まで生きた

利休りきゅうを直に見た最後の世代が、誰よりも長く残った。生きていること自体が、伝達だった。『江岑夏書こうしんげがき』はその記憶の束である。

利休りきゅうが作り、宗二そうじが書き、三斎さんさいが体で伝えた。宗旦そうたんはそれを、潰れない仕組みに変えた。

いま茶道を習っている人のほとんどは、この人が分けた三つの家のどれかにいる

監修者の読み武井宗道

貧しさを選んだのではない。絶やさないために、貧しいままでいた。

乞食宗旦そうたんという呼び名は、褒め言葉でも悪口でもない。同じころ小堀遠州こぼりえんしゅう奇麗きれいさびで大名を集め、金森宗和かなもりそうわが公家に支持されていた。「織部理屈おりべりくつ奇麗きれいキツパハ遠州えんしゅう、お姫宗和そうわムサシ宗旦そうたん」という狂歌がある。ムサシとは、むさくるしい、という意味である。

時代は華やかなほうへ行っていた。そのなかで1畳台目いちじょうだいめに住み、どこにも仕えずにいた。だがそれは世に背を向けたのとは違うと思う。子は3人とも大名家へ出している。世の中とは、子を通してつながっていた

祖父を見ている。兄弟子を見ている。同門の織部おりべも見ている。仕えた茶人ちゃじんが、仕えた相手に殺されるのを三度見た人が、茶を続かせようとしたら、こうなるのではないか。

「さびたるを本にして致候。さびはへちにも似申候へ共、格別之事にて、気之持様が大切に候」。さびは、ただつまらないのとよく似ている。だが別のものだ、と言っている。見た目が貧しいことと、心が貧しいことは別である。この人は68年、そこを取りちがえられながら通した。

清貧を貫いたのではなく絶やさないために、貧しくいた
世を捨てたのではなく子を通して、世とつながった
長生きしただけではなく生きていること自体が、伝達だった

13歳で全部を見た人が、68年かけて、二度と起きないようにした

※ ここは史料から確かめられることではなく、監修者の読みです。

この図鑑の約束

 はっきり確かめられること

 そう伝わっていること

読み 監修者の解釈。史実とは分けています

この三つを混ぜないように書いています。茶の湯の話には、 あとの時代につくられた物語がたくさん混じっているからです。

監修・武井宗道 はじまりの茶の湯学

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