千利休(1522-1591)。茶の湯を大成した人、として名前だけは誰もが知っています。ただ「何をした人か」と聞かれると、答えにくい。点前を作った人でも、流派を興した人でもないからです。
順に見ていきます。
前半生は、商人だった
生まれは堺。田中与四郎といいました。家は魚屋(ととや)といい、納屋衆——港の倉庫を持つ商人です。
若いころから茶を学びますが、本業は商いでした。名物道具を商う目利きとして名を上げ、宗易(そうえき)と号します。武将たちに道具を売り、その価値を保証する立場にいた。いまで言えば、目利きであり商人であり、鑑定人でもあったわけです。
信長に茶湯者として仕えたのは、五十歳前後。人生の後半に入ってからです。その後、秀吉のもとで異例の栄達を遂げます。
「利休」という名も、晩年のものです。天正十三年(1585)、宮中で茶会を開くにあたり、正親町天皇から与えられた居士号でした。この号を名乗った期間は、亡くなるまでのわずか六年ほどしかありません。
何を作り変えたのか
利休がしたことは、道具や作法を増やすことではありませんでした。削ることです。
- 待庵——二畳。現存する草庵茶室で最古とされ、国宝。畳二枚の中に、主と客が入る
- 楽茶碗——ろくろを使わず、手で捏ねて作らせた。歪みも指のあともそのまま残る
- 躙口——身を屈めなければ入れない小さな入口
- 竹の花入——高価な唐物ではなく、その辺の竹を切ったもの
ばらばらの工夫のようで、向いている方角は一つです。簡素にすること。主客を対等にすること。道具ではなく関係を場の中心に置くこと。
それまでの茶は、名物道具を持つ者が持たざる者に見せる場でした。利休はそれを、二畳の部屋で膝を突き合わせる場に変えた。価値の物差しを、値段から関係へ移したと言ってもいい。
道具を商って生きてきた人が、道具の価値を相対化した。ここが利休のいちばん面白いところだと思います。
わかっていないことの多さ
ここからが本題です。
利休について語られることの多くは、本人の書いたものに基づいていません。利休は書き物をほとんど残しませんでした。いま流布している「利休の教え」の大半は、後の世の編纂物から来ています。
- 『南方録』は、利休の没後約百年して編まれたものです。有名な言葉の多くはここが出どころですが、利休自身の文言として確実とは言えません
- 師が武野紹鴎その人だったかどうかにも、再検討があります(同時代の記録には「田中宗易」と記される)
- 有名な「利休七則」なども、確実な一次史料に遡れるわけではありません
そして、いちばん知られている場面についても——
死んだ日は動かない。理由が動く
天正十九年二月二十八日(1591)、利休は京都の聚楽第の屋敷で切腹しました。首は一条戻橋で晒されています。ここまでは、『多聞院日記』『晴豊記』『時慶記』といった同時代の日記に記されていて、日付まで動きません。
分からないのは、なぜ死ななければならなかったのかです。
秀吉が挙げた罪状として史料で確認できるのは、二つだけ。新しい茶器を高値で売る「売僧(まいす)の振る舞い」と、雪駄履きに杖をついた自分の木像を、大徳寺の山門に安置したこと。
ただ、この二つで死罪というのは、どう見ても釣り合いません。だから四百年のあいだに、十を超える説が立てられてきました。美意識の対立、娘をめぐる確執、豊臣政権内部の権力闘争、朝鮮出兵への反対——。
その年の一月に、秀吉の弟・秀長が亡くなっています。「公儀のことは秀長、内々の儀は利休」と言われた対の片方が消えた直後の出来事でした。政治の側の事情を推す説が有力なのは、この符合があるからです。
これは利休を貶める話ではありません。むしろ逆です。四百年のあいだに、これほど厚く像が塗り重ねられた人だということです。
それでも残っているもの
文献が揺れても、動かないものがあります。建物と道具です。
待庵は建っています。楽茶碗は手に取れます。躙口は、いまも屈まなければ通れません。
言葉は後から足せますが、二畳という寸法は足せません。利休が何を考えていたかを知りたければ、伝記より先に、あの狭さの中に座ってみるのがいちばん早い——というのが、正直なところだと思います。