茶の湯スフィア 索引 / 人物

人物の項目一覧

CHANOYU SPHERE ── BANSHŌ

茶の湯を築いた人びと。開いた人、大成した人、受け継いだ人。
全 313 項目

赤沼多佳

あかぬまたか 茶の湯研究
生年 1943 専門 茶の湯の東洋陶磁  三井記念美術館参事

茶の湯にかかわる東洋のやきものを研究する学者。裏千家の茶道研修所で学んだのち、茶陶の研究に入った。東京国立博物館の陶磁室を経て、茶道資料館の開設とともに学芸部長となり、三井記念美術館の参事も務めた。とりわけ高麗茶碗など、侘び茶が見立てた茶碗の魅力を説いたことで知られる。[確:経歴・専門]

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赤松貞村

あかまつ さだむら 東山派・能阿弥門
立場 義教の寵臣 点前 三種極真飾り

能阿弥門下の青年茶人。播磨守護赤松氏の一族で、六代将軍義教に近侍した美青年。後花園天皇行幸の際、義教の命で折烏帽子・水干の装束で台子の点前を披露し、その手順は能阿弥の秘書に『三種極真飾りの茶』と記された。将軍家儀礼の茶の華やかさを伝える。[通]

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足利義教

あしかが よしのり 東山派以前
立場 六代将軍 別称 還俗将軍

義満の四男、六代将軍。初め天台座主だったが還俗して将軍となった。病中に後花園天皇から鎌倉茄子・花山天目・青磁雲竜水指を下賜され、回復後の天皇行幸の際にこれらを飾って献茶した。寵臣赤松貞村が能阿弥門の点前を披露。将軍家の唐物数寄を象徴する。[通]

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足利義政

あしかが よしまさ 制定した人
生没 1436-1490 事績 東山文化・座敷飾りの体系

応仁の乱を招いた将軍でありながら、東山に山荘を営み、唐物の蒐集と座敷飾りの作法を整えた。同朋衆を擁して美の格付けを行わせ、後の茶の湯の美意識の枠組みを準備した。東求堂同仁斎は四畳半書院の原型とされる。豪奢な唐物を集め飾る『足し算』の文化の頂点。[通]

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荒川豊蔵

あらかわとよぞう 茶陶(近代)
生没 1894–1985 業績 志野・瀬戸黒の再興 評価 人間国宝

美濃の志野や瀬戸黒を、自らの手で甦らせた陶工。昭和の初め、岐阜県大萱の古窯址で、筍の絵のある志野の陶片を見つけ、志野が美濃で焼かれたことを実証した。この発見を機にこの地へ窯を移し、桃山の志野・瀬戸黒の再現に生涯を捧げた。その仕事により、志野と瀬戸黒で人間国宝(重要無形文化財保持者)に認められた。古陶の研究と自らの作陶を結んだ、近代茶陶の代表的な一人。[確:志野再興・人間国宝]

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荒木道薫

あらき どうくん 利休門・武将
本名 荒木村重  筆庵道薫

摂津伊丹の城主荒木村重。信長に属したが天正六年に背き、敗れて毛利氏を頼った。晩年は剃髪して筆庵道薫と号し、茶に親しんだ。利休に学んでその奥義に達し、『古今茶人系譜』では利休七哲の一人に数えられる(『江岑筆記』の七哲には入らない)。[通/要確認]

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粟田口善法

あわたぐち ぜんぽう 奈良派・珠光門
茶風 侘び数寄の典型 道具 燗鍋一つ

珠光門下の隠逸茶人。京都粟田口に住み、生涯ただ燗鍋一つで食事も茶もすませた。その楽しみと胸中の清らかさを珠光に褒められた。山上宗二の説く侘び数寄(一物も持たず、覚悟・作分・手柄の三条が調う者)の代表として挙げられる。侘びの極北を体現した人物。[通]

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安藤宗良

あんどうそうりょう 茶の湯研究
生年 1943  遠州茶道宗家執事長 事績 12世宗慶の最初の秘書

遠州茶道宗家の執事長。東京に生まれ、武蔵大学の経済学部を卒えたのち、一九六六年に遠州茶道宗家へ入った。十二世小堀宗慶宗匠が家元であったころ、その最初の秘書をつとめ、国の内外での活動を支えた。いまも宗慶宗匠と、十三世家元の小堀宗実宗匠のもとで働きながら、各地で講演に立ち、茶道を世に広めることに力を尽くしている。[確:提供された経歴]

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安楽庵策伝

あんらくあん さくでん 織部流
生没 1554-1642 事績 醒睡笑・落語の祖

誓願寺の僧。竹林院内の安楽庵に三畳台目の茶席偈安堂を結んだ。織部好みのその茶室は、彼が織部の弟子であった証ともされる。笑話集『醒睡笑』を著し、落語の祖ともいわれる。茶と話芸を結んだ異色の茶人。[確:醒睡笑・偈安堂/通:織部門]

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井伊直弼

いい なおすけ 展開した人
生没 1815-1860 事績 『茶湯一会集』・一期一会

彦根藩主、大老。茶の湯に深く分け入り、『茶湯一会集』に利休以来の『一期一会』を定式化した。亭主と客が独り残された後の余情『独座観念』を説く。茶事の心を文章として結晶させた。[通/確:一会集]

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家元一覧

いえもといちらん 当代家元
役割 現存流派の家元への索引 当代 9流 近現代の前代 5名

このスフィアに収めた、現存する茶の湯の流派の家元を束ねる索引のノード。ここから各流派の当代家元と、近現代の前代家元へたどれる。当代家元として、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家に、遠州・藪内・宗徧・上田宗箇・宗和(東京系統)・鎮信の各流を収める。系統が一つに定まる流派を選んで載せ、分派が多く当代が一人に定まらない流派は、ここには立てていない。[索引]

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怡渓宗悦

いけい そうえつ 石州流・怡渓派
大徳寺254世  怡渓派

大徳寺の禅僧で、品川東海寺高源院の開山。石州に茶を学び、石州流の一派・怡渓派を開いた。『怡渓和尚茶説』を遺す。門弟に伊佐幸琢らがあり、武家・町人へと石州流を広げた。禅と石州流を結んだ人物。[確]

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怡渓宗悦

いけい そうえつ 禅と茶
生没 1644-1714  大徳寺二五三世  石州流三百ヶ条註解

江戸前期の臨済宗の禅僧。大徳寺二五三世に就いたのち江戸に下り、広尾の祥雲寺や品川の東海寺に住した。藤林宗源の没後、『石州流三百ヶ条註解』を著して石州流を諸国へひろめる中心となり、その一流は怡渓派と呼ばれた。皆伝を受けた高弟・伊佐幸琢が石州流伊佐派を開き、以後幕府の御数寄屋頭を世襲して武家茶に禅の精神を伝えた。[通]

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伊佐幸琢

いさ こうたく 石州流・伊佐派
半々庵 立場 柳営数寄屋頭

怡渓宗悦の高弟。半々庵と号して石州流伊佐派(怡渓派の一流)を開き、伊佐流初代と呼ばれた。将軍家に招かれて数寄屋頭を勤めた。以後代々「幸琢」を襲名し四代続いた。武家社会における石州流の中核を担った。[確]

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石黒道提

いしぐろ どうてい 奈良派・珠光門
茶風 隠逸 所持 四十石の茶壺

珠光門下の隠逸茶人。もと奈良千福寺の代官で畠山政長に仕えたが、隠退して京都千本に住んだ。四十石と銘した茶壺一種を所持。篠道耳に次ぐ茶湯者とされる。[通]

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石田三成

いしだ みつなり 茶を嗜んだ武将
立場 豊臣の奉行 逸話 三献の茶

豊臣政権の文治派奉行。関ヶ原で家康に対抗した。茶の湯にも通じ、秀吉との出会いを語る『三献の茶』の逸話(温度を変えた三杯の茶で秀吉に見出された)で名高い。ただしこの逸話は後世の編纂物に基づき、史実性には留保がある。[通/要確認]

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以心斎

いしんさい 武者小路千家
武者小路千家十代 生没 1830-1891  全道宗守

武者小路千家十代、全道宗守。表千家の吸江斎の弟にあたり、官休庵を継いだ。幕末から明治の転換期に、表裏とのつながりのなかで武者小路千家を守った家元。[確:十代/通:吸江斎の弟]

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板谷波山

いたやはざん 茶陶(近代)
生没 1872–1963  葆光彩(ほこうさい)磁 評価 陶芸家初の文化勲章

近代日本の陶芸を芸術の域へ高めた、先駆けの作家。茨城の下館の出。彫刻を学んだのち陶芸に転じ、東洋古来の青磁や白磁の伝統に、独自の繊細な彫りと、霞がかったような淡い釉——葆光彩(ほこうさい)と名づけた釉——を加えた、気品ある作風を立てた。陶芸家として初めて文化勲章を受けた。茶陶そのものより、近代陶芸の格を確立した存在として、後の作家に道を開いた。[確:文化勲章・葆光彩]

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一翁宗守

いちおう そうしゅ 武者小路千家
武者小路千家四代 生没 1605-1676  官休庵を結ぶ

武者小路千家四代、似休斎。宗旦の次男で、讃岐高松藩松平家に仕えたのち官を辞し、武者小路に二畳半板の茶席・官休庵を結んで武者小路千家を立てた。『官休』は官を休めたの意。三家のうち最も簡素を旨とする家をひらいた家元。[確:四代・官休庵を結ぶ]

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一元斎

いちげんさい 江戸千家
江戸千家八代 事績 池之端の蓮華庵を整える

池之端の蓮華庵を整え、流儀を継いだ。[確:八代]

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一指斎

いっしさい 武者小路千家
武者小路千家十一代 生没 1848-1898  一叟宗守

武者小路千家十一代、一叟宗守。十代以心斎の跡を継いで官休庵を守った。明治の茶道衰微のなかで武者小路千家を支え、次代へと家をつないだ家元。[確:十一代]

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一啜斎

いっせつさい 武者小路千家
武者小路千家八代 生没 1763-1838 斎号 休翁

武者小路千家八代、休翁宗守。七代直斎の跡を継ぎ、官休庵に茶室・半宝庵を造ったと伝わる。武者小路千家の茶室と作法を充実させ、家風を後代へつないだ家元。[確:八代/通:半宝庵を造る]

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一燈宗室

いっとう そうしつ 裏千家
裏千家八代 生没 1719-1771 事績 七事式を共定

裏千家八代、又玄斎。表千家原叟宗左の子から入って今日庵を継いだ。表の如心斎とは実の兄弟で、ともに七事式を定めた。表裏の血と式法が交わる、三千家のつながりを体現する家元。[確:七事式に関与/通:中興期]

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伊藤郁太郎

いとういくたろう 茶の湯研究
生年 1931 専門 東洋陶磁(中国・朝鮮)  大阪市立東洋陶磁美術館初代館長

中国と朝鮮のやきものを究めた東洋陶磁の研究者。安宅コレクションの収集に深く関わり、その名品を核として開かれた大阪市立東洋陶磁美術館の初代館長を長く務めた。中国陶磁や、清貧の美をたたえた李朝の陶磁を深く論じた。茶の湯とは、高麗茶碗や天目など、海をこえて伝わったやきものを通じて接する。[確:経歴・専門]

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今井宗久

いまい そうきゅう 用いた人
生没 1520-1593 立場 堺の豪商・紹鴎の女婿

堺の豪商。武野紹鴎の女婿として名物を継ぎ、松島壺と紹鴎茄子を信長に進上して接近した。利休・津田宗及とともに信長・秀吉に仕えた、堺を代表する茶湯者の一人。武具・薬種で財を成し、茶と政治をつなぐ役を担った。[通]

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上田宗箇

うえだ そうこ 織部流
生没 1563-1650 事績 上田宗箇流の祖

小笠原の一族の武将。秀吉に仕え一万石を領し、九州・小田原・朝鮮に歴戦した。茶を織部に学び、武家茶の上田宗箇流を開いた。広島浅野家に仕え、自ら作庭・茶杓削りもよくした、武勇と数寄を兼ねた人。[確:武歴・生没/通:織部門]

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上田宗箇流

うえだ そうこりゅう 流派
上田宗箇 特徴 武家茶・数寄屋御成

上田宗箇を祖とする武家茶の流派。織部に学んだ宗箇が、安芸広島の浅野家家老として入り、藩主を茶でもてなす『数寄屋御成』の作法を整えた。茶室『遠鐘』と書院屋敷『和風堂』を広島に伝える。武将の気概と侘びを併せ持つ、現存する武家茶道の流れ。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通/確:宗箇の武歴・和風堂の現存]

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上田宗冏

うえだそうけい 歴代家元(近現代)
流派 上田宗箇流  16代 生年 1945

上田宗箇流の十六代家元。号は宗冏。一九四五年に広島で生まれ、慶應義塾大学を卒えた。一九九五年に十六代を継ぎ、三十年あまりにわたって広島の武家茶道を守り伝えた。原爆で大きな打撃を受けた上田流と、広島の文化の復興・発展に力を注いだ。二〇二六年に家を十七代へ譲った。[確:継承・経歴]

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上田宗篁

うえだそうこう 当代家元
流派 上田宗箇流  17代 生年 1978

上田宗箇流の十七代家元。号は宗篁。一九七八年に生まれ、國學院大学に学んだ。若い頃はプロのダンサーとして、国内外の舞台で活動した異色の経歴をもつ。二〇二六年、三十一年ぶりの継承神事を経て十七代を継いだ。上田宗箇流は広島藩の家老・上田家に伝わる武家茶道で、広島の和風堂を拠点に、桃山以来の流儀を伝えている。[確:襲名・経歴]

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宇田川宗光

うだがわそうこう 当代家元
流派 宗和流(東京系統)  18代 生年 1974

金森宗和を流祖とする宗和流の、ある系統(東京)の十八代を継ぐ茶人。一九七四年に東京で生まれた。宗和流は加賀の金沢、飛騨の高山などにも別の系統が伝わっている。十六代の堀宗友に学んで二〇一五年に十八代を継ぎ、大徳寺真珠庵で得度して寒鴉齋の号を授かった。根津美術館の顧問もつとめる。バーと茶を結んだ茶懐石の店を営むなど、現代の暮らしに合わせた茶のあり方を試みている。流祖・宗和は、仁清の御室焼を導いた人で、優美な「姫宗和」と呼ばれる茶風で知られる。[確:襲名・経歴/系統複数]

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生形貴重

うぶかたたかしげ 茶の湯研究
生年 1949 専門 中世日本文学・茶道文化論  千里金蘭大名誉教授・不審菴文庫運営委員

国文学者で、茶道の文化を研究する学者。大阪の表千家の茶家、朝宗庵に生まれた。同志社大学の大学院で国文学を学び、はじめ『平家物語』など中世の文学を研究して賞を受けた。のちに、和歌や仏の道と茶の心とのつながり、利休や紹鴎の生涯などを、文学の素養を生かして論じた。表千家の不審菴文庫の運営にも携わる。「千利休の生涯と伊達政宗」で茶道芸術文化賞を受けた。[確:経歴・業績]

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馬越化生

うまこし かせい 集めた人
生没 1844-1933 事績 ビール王・大日本麦酒

三井物産の創業メンバーの一人で、大日本麦酒社長として『ビール王』と呼ばれた実業家、馬越恭平。号を化生と称し、近代数寄者の茶会に連なって茶道具を蒐集した。財界の茶の交友を支えた一人。[通]

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有楽流

うらくりゅう 流派
織田有楽 系統 有楽系(表) 茶室 如庵

織田有楽(長益)を祖とする流派。信長の弟である有楽は利休に学び、二畳半台目の茶室『如庵』を構え、独自の有楽窓を創案した。後に岡山・立田家・尾州など各地に系統が分かれて伝わった。流派の系統は各家の公式に拠る。[確:有楽の出自・如庵/通:各派の分立]

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裏千家

うらせんけ 三千家
庵号 今日庵  仙叟宗室

千宗旦の四男・仙叟宗室に始まる家。宗旦の隠居所であった一畳台目の今日庵を継ぐ。仙叟は医術ののち茶を修め、加賀前田家に仕えた。今日庵を象徴とし、近代以降ひろく茶の湯を普及した。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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栄西

えいさい/ようさい 伝えた人
生没 1141-1215 事績 茶と禅の将来・『喫茶養生記』

備中吉備津宮の神官の子に生まれ、比叡山で天台と密教を学んだ。二度の入宋を経て臨済禅を日本に伝え、宋の茶種と喫茶の法をもたらした。鎌倉幕府の庇護を得て寿福寺を建立。『吾妻鏡』には、建保二年(1214)二日酔いに苦しむ将軍源実朝に、茶一服と『喫茶養生記』を「良薬」として献じた記録が残る。茶を養生の仙薬として説いた、日本の茶の祖。[確]

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永楽善五郎

えいらくぜんごろう 流派
土風炉師・焼物師  永楽家 古名 西村家→永楽

千家十職のうち、土風炉(どぶろ)と焼物を受け持つ永楽家の当主が代々名乗る名跡。もとは西村家といい、奈良で土風炉を作る家に始まる。土をこねて焼く風炉のほか、のちには茶碗や水指などの焼物も手がけ、とくに交趾写しや金襴手の華やかな色絵で知られるようになった。『永楽』の名は紀州徳川家から与えられた印に由来する。[確:職分・永楽家/通:永楽の名の由来]

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江上大輔

えがみ だいすけ 現代の茶人
出身 熊本 流派 肥後古流 活動 府中・龍生軒の月釜

熊本に生まれ、東京学芸大学で書を学んだのち、肥後に伝わる古流の茶を継ぐ茶人。東京・府中の龍生軒で月釜を掛けるなど、千家とは異なる系譜の茶を関東で伝える。利休の古い時代の点前を今に残す肥後古流を、現代の場で実践する一人。[通]

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江戸千家

えどせんけ 流派
川上不白 事績 江戸に千家の茶を広む

川上不白を祖とする流派。表千家如心斎に学んだ不白が江戸に下り、千家の茶を広めた。利休忌に七事式を催す例を始めた。不白の弟子が二派に分かれ、江戸千家と表千家不白流を称して今に続く。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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遠州流

えんしゅうりゅう 流派
小堀遠州 特徴 綺麗さび

小堀遠州を祖とする流派。利休の侘びと書院の雅を融合した『綺麗さび』を旨とする。忘筌に代表される明るく開かれた茶室、王朝のみやび。松花堂昭乗・沢庵らと交わる寛永の文化圏に連なる。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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圓能斎

えんのうさい 裏千家
裏千家十三代 生没 1872-1924  鉄中宗室

裏千家十三代、鉄中宗室。明治の茶道衰微のなかで今日庵を継ぎ、東京と京都を行き来して茶の普及に努めた。学校教育への茶道の導入にも関わり、近代の裏千家を再興した家元。次代は淡々斎。[確:十三代/通:明治期の再興・普及]

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大口樵翁

おおぐち しょうおう 石州流・大口派
本名 保為 出自 大坂

大西閑斎の門から出て出藍の誉れがあった大坂の茶人。養浩斎・如心軒などの別号を持つ。石州流大口派を伝え、上方の石州流をさらに広めた。[確]

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大富善好

おおとみ ぜんこう 奈良派・茶人
出自 京都 道具 善好茶碗

京都の茶人。珠光香炉と伝わる宗易香炉、松本茶碗、交趾茶碗などの名物を所持したと山上宗二記に記される。紹鴎・道陳が所持した善好茶碗にその名を残す。[通]

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大西閑斎

おおにし かんさい 石州流・大西派
瓢々斎宗順  大西派

片桐家臣。石州に茶を学び、その没後に大坂へ出て石州流大西派を称した。上方における石州流の一拠点を築いた。[確]

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大西清右衛門

おおにしせいえもん 流派
釜師  大西家  京都・三条釜座

千家十職のうち、茶の湯の釜を受け持つ大西家の当主が代々名乗る名跡。京都の三条釜座(かまんざ)に居を構え、桃山のころから続く釜師の家である。鉄を鋳て、湯を沸かす釜——真形(しんなり)や面取、丸釜などさまざまな形と、地紋・鐶付の意匠——を、家元の好みに応じてつくる。釜は炉や風炉の中心の道具で、茶席の湯音を生む。[確:職分・大西家]

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岡倉天心

おかくら てんしん 近代・茶を世界へ
生没 1863–1913 著作 茶の本

美術行政家・思想家。英文『The Book of Tea(茶の本)』(1906)をニューヨークで刊行し、茶の湯を「茶道(Teaism)」として西洋に提示した。茶を日常の中に美を見出す生の術と捉え、道教・禅とのつながりや「不完全の美」を論じた。茶を国際的な思想言語へと翻訳した最初の人。海外に向けた茶の湯発信の原点。[確]

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岡佳子

おかよしこ 茶の湯研究
生年 1954 専門 近世陶磁史・京焼  大手前大学教授

近世のやきもの、とりわけ京焼を研究する学者で、博士。大手前大学の教授。出土した資料と伝わる作品の両方を突き合わせ、仁清や乾山、古清水など、京のやきものが生まれ展開していく道すじを実証的にたどった。国宝の仁清をめぐる謎にも取り組んだ。著書に『近世京焼の研究』『国宝 仁清の謎』など。[確:経歴・業績]

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尾形乾山

おがたけんざん 流派
尾形光琳  京都・鳴滝  銹絵・琳派の意匠

江戸中期の京焼の陶工で、画家・尾形光琳の弟。みずからも琳派の名手として知られる。京都の鳴滝に窯を構え、独自の作風を立てた。白い土に透明な釉をかけ、鉄絵具で文様を描く。焼くと鉄が錆のような褐色に変わるので銹絵(さびえ)と呼ぶ。簡略な草花や文字を、禅画を思わせる自由な筆で描いた。文人らしい洒脱な趣で知られる。[確:銹絵・琳派]

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奥村吉兵衛

おくむらきちべえ 流派
表具師(ひょうぐし)  奥村家  掛物・屏風・風炉先など

千家十職のうち、表具を受け持つ奥村家の当主が代々名乗る名跡。墨蹟や絵を掛物に仕立てる表装をはじめ、屏風や風炉先屏風、張交ぜなどを、家元の好みに応じてつくる。江戸前期に始まる家で、茶席の床を飾る品を担う。[確:職分・奥村家]

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織田有楽斎

おだ うらくさい 展開した人
生没 1547-1622 事績 如庵・有楽流

信長の弟。利休に学び、独自の茶を展開した。国宝の茶室如庵を構え、有楽窓と呼ばれる連子窓を考案。武家の出でありながら数寄に遊び、利休後の茶を多様化させた一人。[通]

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織田信長

おだ のぶなが 用いた人
生没 1534-1582 事績 茶器を象徴貨幣・威信財へ

茶の湯の価値を引き上げた武将。評価の定まった東山御物・珠光名物など最高級の唐物を集約し(生涯235点規模)、自らの権威に格付けの裏打ちを与えた。茶会を開く権利を家臣の生涯の名誉とし、茶器を一国一城に匹敵する象徴貨幣へと押し上げた。本能寺には38種の唐物を運び込み、その大半が炎に消えた。九十九茄子だけが焼け跡から拾われ、修復されて今に伝わる。[確:蒐集・本能寺/通]

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表千家

おもてせんけ 三千家
庵号 不審菴  江岑宗左

千宗旦の三男・江岑宗左に始まる、利休の本家を継ぐ家。茶室不審菴を象徴とする。宗旦の正統を継ぎ、紀州徳川家に仕えた。三千家のうち、利休以来の千家屋敷を継承した家。流派の定義・系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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織部流

おりべりゅう 流派
古田織部 特徴 破調の美・武家茶

古田織部を祖とする流派。利休の侘びを継ぎつつ、歪みや破調を好む大胆な美意識を打ち出した。燕庵に代表される台目構えの茶室、色紙窓。弟子に上田宗箇・本阿弥光悦・金森出雲・安楽庵策伝ら武家・文化人が連なる。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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覚々斎

かくかくさい 表千家
表千家六代 生没 1678-1730  原叟宗左

表千家六代、原叟宗左。久田家から入って不審菴を継いだ。点前と道具にすぐれ、千家中興の上手とうたわれた。八代将軍吉宗に茶を教えたとも伝わる。次代の如心斎へと、表千家の充実期を準備した家元。[確:六代/通:中興の上手]

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片桐石州

かたぎり せきしゅう 展開した人
生没 1605-1673 事績 石州流・武家茶の規範

大和小泉の大名。将軍家茶道指南役を務め、石州流を興した。慈光院に席を構え、武家茶の規範を整えた。遠州の綺麗さびを受けつつ、武家の格式にかなう茶法を体系化した。[通]

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加藤清正

かとう きよまさ 茶を嗜んだ武将
立場 肥後熊本城主 性格 放胆かつ細心

賤ヶ岳七本槍の一人として知られる猛将だが、茶の湯の心得もあった。武勇一辺倒に見えて細心の一面を持ち、それが茶道の精神と通じると桑田は説く。荒大名が茶を解さなかったという講談的イメージへの反証として挙げられる人物。[通]

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加藤唐九郎

かとうとうくろう 茶陶(近代)
生没 1897–1985 業績 志野・黄瀬戸の研究と作陶  瀬戸

瀬戸の陶家に生まれ、桃山の志野や黄瀬戸の再現と研究に打ち込んだ陶工。古窯址の調査と作陶を両輪に、力強く野趣のある志野茶碗を多く生んだ。荒川豊蔵とともに、美濃桃山陶の復興を牽引した一人。古陶磁の研究家としても知られ、その奔放な作風と強い個性で、近代の志野を代表する作家となった。[確:志野・黄瀬戸の作陶]

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金森出雲

かなもり いずも 織部流
生没 1558-1615 立場 可重・宗和の父

飛騨高山城主、名は可重(ありしげ)。信長・秀吉・家康に歴任し戦功をたてた武将。利休の長男道安と織部に茶を学び、二代将軍秀忠の茶の師範も勤めた。『長闇堂記』に目利きの功者と記される。姫宗和こと金森宗和の父。[確:城主・生没/通:道安・織部門]

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金森宗和

かなもり そうわ 展開した人
生没 1584-1657 美意識 姫宗和・優美な茶

飛騨の武家出身。公家社会と結び、優美で雅やかな茶を展開して『姫宗和』と称された。野々村仁清に作陶を指導し、雅な色絵の茶陶を生ませた。綺麗さびと並ぶ、江戸の掛け算の美の一つ。[通]

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嘉納鶴翁

かのう かくおう 集めた人
生没 1862-1951 事績 白嘉納家7代・白鶴美術館

灘の白鶴酒造を営む白嘉納家の7代当主、嘉納治兵衛。奈良・興福寺に縁ある中村家に生まれ、幼少から古美術に親しんだ。煎茶・抹茶を嗜み、東洋古美術を蒐集して白鶴美術館を遺した。鶴堂・鶴庵とも号した近代の数寄者。[通]

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神谷宗湛

かみや そうたん 利休門・博多の豪商
出自 筑前博多の富豪 記録 宗湛日記

博多の豪商で利休門下の数寄者。神谷家六代目。先祖は石見銀山を開いた製煉技術者で、巨富を築いた。博多文琳・瀟湘夜雨など名物を伝える。茶会記『宗湛日記』を遺し、桃山の茶の湯を伝える一級史料となっている。秀吉の九州平定に際し博多復興に関わった。[確]

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川上自得斎宗幸

かわかみ じとくさい そうこう 江戸千家
江戸千家二代 事績 不白堂を設計

流祖不白の嗣子。不白堂を設計し、江戸千家の家を整えた。三代から六代までは代々、新宮藩の茶頭・水戸徳川家の茶道師範を務めた。[確:二代]

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川上不白

かわかみ ふはく 江戸千家の祖
生没 1716-1807 事績 江戸千家・七事式

表千家如心斎に学び、江戸に千家の茶を広めた江戸千家の祖。利休忌に七事式を催す例を始めた。九十二歳の天寿を全うし、その流れは江戸千家と表千家不白流に分かれて今に続く。江戸の茶の普及者。[確:生没・七事式/通:流派の分岐]

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川喜田半泥子

かわきたはんでいし 茶陶(近代)
生没 1878–1963 本業 伊勢の実業家・銀行家 性格 数寄者の作陶・東の魯山人

伊勢の素封家で、銀行家としても活躍しながら、余技として茶陶を焼いた数寄者。津に窯を構え、志野や粉引、唐津などに学びつつ、型にとらわれない自由でおおらかな茶碗を作った。その自在な作風は高く評され、西の魯山人に対して東の半泥子と並び称された。職業の陶工ではなく、茶の心のままに土と遊んだ、近代の風流人の作陶を体現する。[確:数寄者の作陶]

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川端康成

かわばた やすなり 近代・文学
生没 1899–1972 作品 千羽鶴

小説家、ノーベル文学賞受賞者。小説『千羽鶴』で茶の湯を主題に据えたが、それを美の理想としてではなく、伝統に巣食う情念や醜さ、官能の場として描いた。受賞講演『美しい日本の私』では茶や禅に触れつつ、『千羽鶴』はむしろ茶を耽美的に弄ぶ風潮への警鐘だと自ら述べた。茶を文学的に異化した視点。[確]

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蒲生氏郷

がもう うじさと 利休七哲筆頭
生没 1556-1595 立場 利休七哲

近江日野の城主、のち会津若松。信長に見込まれ娘を娶る。禅・和歌・連歌・茶を究めた文武両道の武将で、利休七哲の筆頭に挙げられる。利休の子少庵を匿い、千家再興を助けた。[通:利休七哲/確:武将としての事績]

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猗々斎紹智

ききさい じょうち 藪内流
藪内流十二代 事績 竹風会・財団藪内燕庵を設立

同門組織『竹風会』と財団法人藪内燕庵を設立し、近代的な組織として流儀を支えた。[確:十二代]

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北大路魯山人

きたおおじ ろさんじん 茶陶(近代)
生没 1883–1959 拠点 星岡茶寮・星岡窯

陶芸家・美食家・書家。会員制料亭・星岡茶寮を主宰し、料理から器・しつらえまで総合的に演出した。随筆『現代茶人批判』で、家元の書の俗化や、益田鈍翁ら数寄者の風雅陶再現を痛烈に批判し、利休が長次郎を、織部が織部焼を生んだとする通説への付和雷同を戒めた。茶の権威主義への外からの異議申し立て。[確]

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北畠晴具

きたばたけ はるとも 伊勢の数寄
伊勢国司北畠家  相阿弥流を伝承

伊勢国司北畠家の当主。北畠氏は南朝以来伊勢に拠り、東山文化に接して数寄を受容した。多気の国司館址には相阿弥作と伝わる古式庭園が遺る。相阿弥流の茶が北畠家に伝えられたとされ、中央の東山文化が地方大名へ伝播した一例。[伝]

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北見宗幸

きたみ そうこう 現代の茶人
生年 1972- 流派 裏千家 正教授 拠点 東京・高田馬場/茶道会館

東京生まれの裏千家正教授で、高田馬場の茶道会館で教える現代の茶人。茶道文化振興会の理事長として茶の湯の普及につとめ、講演や雑誌連載、テレビ・CMなど幅広い場で茶道の文化を伝える。佐渡の鈍翁茶会の監修なども手がける。[通]

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北向道陳

きたむき どうちん 利休の最初の師
本姓 荒木 役割 利休を紹鴎に引合せ

堺の目利き茶人で、能阿弥流の茶を伝えた。若き日の利休(与四郎、十七歳)はまず道陳に茶を学び、その紹介で武野紹鴎の弟子となった。台子・書院の茶は道陳から、小座敷の茶法は利休が紹鴎のもとで深めたと『南方録』は伝える。松花の壺・虚堂墨蹟など名物を所持。利休の出発点に立つ人物。[通]

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吸江斎

きゅうこうさい 表千家
表千家十代 生没 1818-1860  祥翁宗左

表千家十代、祥翁宗左。わずか八歳で不審菴を継ぎ、紀州徳川家の治宝から茶の皆伝を受けたと伝わる。幼くして家を背負い、藩主の後見のもとで千家の作法を身につけた家元。[確:十代/通:八歳継承・皆伝]

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給湯流茶道

きゅうとうりゅう さどう 現代の茶人
創始 2010年頃 主宰 谷田半休  オフィスの給湯室

会社員でもある谷田半休が始めた、現代の茶の遊び。オフィスの給湯室を茶室に見立て、ビジネスの合間に茶を点てる。戦国武将が陣中で茶を喫した心意気を、現代の働く場に重ねるユーモアが持ち味で、海外メディアにも紹介された。茶の湯の見立ての精神を現代に展開した試み。[通]

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近代の陶工

きんだいのとうこう 茶陶(近代)
時代 明治以降 性格 個人作家としての陶芸 茶陶 桃山の再興と新たな創造

明治以降、家業の窯ではなく、一人の作家として茶陶を生み出した陶工たち。江戸までの十職や諸窯が家として道具を作ったのに対し、近代では個人の名と作風が前面に出るようになった。桃山の志野・瀬戸黒・天目などの古い技を、陶片や窯址の研究から自らの手で甦らせる者、数寄者として自在に楽しむ者など、その関わり方はさまざま。荒川豊蔵・板谷波山・北大路魯山人・川喜田半泥子らがこの流れに連なる。[確:個人作家の登場]

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玉室宗珀

ぎょくしつ そうはく 禅と茶
生没 1572-1641  大徳寺住持  芳春院 開山

安土桃山から江戸前期の臨済宗の禅僧。春屋宗園の甥にしてその法を嗣ぎ、大徳寺の住持となった。前田利家の室・芳春院(松子)が建てた芳春院の開山に迎えられる。茶の湯に親しみ、千宗旦が営んだ利休五十回忌の導師をつとめ、片桐石州に『三叔宗関』の号を授けたと伝わる。紫衣事件では沢庵らとともに幕命に抗して一時奥州赤舘に流された。[通:茶史伝承を含む]

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久保長闇堂

くぼ ちょうあんどう 奈良の茶人
本名 久保権太夫・利世 著作 長闇堂記

奈良春日社の神職久保家に生まれ、権太夫・利世と名のった。茶書『長闇堂記』の著者。北野大茶会を見学し利休を慕い、小堀遠州・金森可重・江月和尚らと交わった。鴨長明の方丈を慕って野田郷に長闇堂を結び、花と土いじりに余生を楽しんだ。遠州とは長年の親交。[確]

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熊倉功夫

くまくらいさお 茶の湯研究
生年 1943 専門 茶道史・日本文化史  近代茶道史の研究

茶道史と日本文化史を究めた歴史学者。東京の生まれ。博士論文は『近代茶道史の研究』。筑波大学の教授や、国立民族学博物館の教授・名誉教授を務め、林原美術館やMIHO MUSEUMの館長などを歴任した。茶の湯の歴史を、寛永の文化や日本の料理文化ともつなげて広くとらえ、茶の湯文化学会の会長も務めた。著書に『茶の湯 わび茶の心とかたち』などがある。[確:経歴・業績]

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黒田如水

くろだ じょすい 利休門・武将
本名 黒田官兵衛孝高 立場 秀吉の軍師

秀吉の懐刀として中国経略を支えた軍師。通称官兵衛、入道して如水。初めは「茶湯は勇士の好むべきことではない、無刀で狭い席に坐るのは無用心」と嘲っていたが、ある契機に茶の価値を会得し、利休に学んだ。武人が茶に開眼する典型として描かれる。[通]

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黒田正玄

くろだしょうげん 流派
竹細工・柄杓師  黒田家  柄杓・蓋置・花入など

千家十職のうち、竹細工と柄杓を受け持つ黒田家の当主が代々名乗る名跡。茶席で湯水を汲む柄杓をはじめ、竹の蓋置や花入、茶杓などを、家元の好みに応じてつくる。初代は江戸前期の人で、もとは武士であったと伝わる。柄杓は流派や季節で寸法や形が定まり、その作り分けも担う。[確:職分・黒田家]

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桑田忠親

くわたただちか 茶の湯研究
生没 1902–1987 専門 戦国時代史・茶道史  國學院大學名誉教授

戦国時代の歴史と茶道史を究めた歴史学者で、文学博士。東京帝国大学の史料編纂所を経て、國學院大學の教授・名誉教授となった。利休や織部、秀吉といった人物を、史料を博く集めて描き出し、茶道史研究の土台を築いた一人。のちの研究者たちに先立つ世代の大家である。NHKの大河ドラマで時代の考証も担った。著書に『日本茶道史』『千利休研究』『古田織部の茶道』など。[確:経歴・業績]

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慶主座

けいしゅそ 名工・作り手
茶杓師 関わり 利休の茶杓師と伝わる

千利休の茶杓を削ったと伝わる茶杓師。『茶窓閒話』が利休の茶杓師として名を挙げる。茶人が自作茶杓を削る際、下削りを担う専門の作り手がいたことを示す一人で、利休型の茶杓が広まる背景にこうした職人の手があった。[確:茶窓閒話に名/伝:事績は乏しい]

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剣翁紹智(雲脚亭)

けんおう じょうち 藪内流
藪内流三代 庵号 雲脚亭

藪内流の三代。雲脚亭を号し、家の茶を伝えた。[確:三代]

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剣渓紹智(蕉雪斎)

けんけい じょうち 藪内流
藪内流四代 庵号 蕉雪斎

藪内流の四代。蕉雪斎を号した。[確:四代]

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芸阿弥

げいあみ 東山派・同朋衆
能阿弥  相阿弥

能阿弥の子、相阿弥の父。真芸と称し学叟と号した。父とともに足利義政に同朋として仕え、唐物の目利きと絵画に優れた。啓書記に東山御物の宋元名画を模写させて画技を育てた。根津美術館蔵「瀑布山水図」が代表作。能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三阿弥は東山文化の目利きの中核。[確]

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玄々斎

げんげんさい 裏千家
裏千家十一代 生没 1810-1877 事績 立礼式を創む

裏千家十一代、精中宗室。三河松平家の末子から入って今日庵を継いだ。時勢に応じて椅子に座る立礼式(椅子点)を始めるなど茶式を改良し、裏千家中興と称された。近代の茶の湯の門戸を広げた画期の家元。[確:立礼式創始/通:中興]

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江月宗玩

こうげつ そうがん 禅と茶
生没 1574-1643  大徳寺百五十六世  龍光院 実質開祖

安土桃山から江戸前期の臨済宗の禅僧。堺の豪商・天王寺屋、津田宗及の子に生まれ、春屋宗園に参じてその法を嗣いだ。大徳寺百五十六世住持をつとめ、父祖ゆかりの龍光院を実質的に開いた。茶の湯の家に育った教養人として、小堀遠州ら当代の数寄者とも親しく交わった。[通]

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好々斎

こうこうさい 武者小路千家
武者小路千家九代 生没 1795-1835  仁翁宗守

武者小路千家九代、仁翁宗守。八代一啜斎の跡を継いだ。裏千家の認得斎の弟にあたり、三千家の血が互いに行き交う系譜のなかで官休庵を守った。若くして世を去った家元。[確:九代/通:認得斎の弟]

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江岑宗左

こうしん そうさ 表千家
表千家四代 生没 1613-1672 斎号 逢源斎

表千家四代、逢源斎。宗旦の三男で、利休以来の千家屋敷と不審菴を継いで表千家を立てた。紀州徳川家に茶頭として仕え、三木町棚を好んだ。父宗旦の侘びを受け、千家の本家を後代へつないだ家元。[確:四代・紀州徳川家茶頭]

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神津朝夫

こうずあさお 茶の湯研究
生年 1953 専門 茶道史・日本文化史 立場 史実からの再検証

茶道史と日本文化史を研究する著述家。東京の生まれ。早稲田大学を卒業し、ドイツのマンハイム大学に学んだのち、帝塚山大学の大学院で博士(学術)を得た。茶会記などの史料を丹念に読み解き、栄西が茶を伝えたという話や『わび』を禅の美学とする見方など、広く信じられてきた伝承や通説を史実から問い直す立場で知られる。著書に『茶の湯の歴史』『千利休の「わび」とはなにか』『茶会記を読み解く』などがある。[確:経歴・著作・立場]

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古渓宗陳

こけい そうちん 禅と茶
生没 1532-1597  大徳寺百十七世  総見院 開山

戦国から安土桃山の臨済宗の禅僧。大徳寺百十七世住持をつとめ、秀吉が信長の菩提を弔って建てた総見院の開山となった。千利休の参禅の師として知られ、利休が大徳寺山門(金毛閣)の造営に尽くした縁も深い。蒲庵の号でも呼ばれる。[通]

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小早川隆景

こばやかわ たかかげ 茶を嗜んだ武将
出自 毛利元就の三男 立場 毛利両川

毛利元就の三男で、毛利家の外交・大局を担った文武兼備の武将。茶の湯の嗜みも深く、筑前名島で大名衆を二畳半の数寄屋に招いて茶を進めた。『宗湛日記』にその茶事が記される。露地に岩を道に見立てるなど、見立ての工夫を凝らした。[確]

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小林逸翁

こばやし いつおう 集めた人
生没 1873-1957 事績 阪急東宝の祖・新茶道構想

阪急・東宝グループを築いた実業家、小林一三。蒐集した美術を逸翁美術館として遺した。『簡素即茶道・芸術即茶道』からなる新茶道を提唱し、家元の権威に頼る茶を批判して、より民主的な茶事を構想した。[通]

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小林太玄

こばやし たいげん 禅と茶
生年 1938-  大徳寺塔頭 黄梅院 住職  茶席の墨蹟

昭和十三年(1938)生まれの臨済宗の禅僧。花園大学に学び、荒廃していた大徳寺塔頭・黄梅院を復興してその住職をつとめる。『日々是好日』など茶席に用いられる一行書を数多く揮毫し、当代を代表する墨蹟の禅僧の一人として知られる。[通:来歴の細部は伝聞による]

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小堀遠州

こぼり えんしゅう 展開した人
生没 1579-1647 美意識 綺麗さび

作事奉行を務めた大名茶人。利休の侘びに王朝の雅を重ね、明るく端正な綺麗さびをひらいた。建築・作庭・茶を一続きの美として構想し、多くの名物に古歌から銘を与えた。引き算の上に、王朝美という別の価値を掛け合わせた人。[通]

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小堀遠州流

こぼり えんしゅうりゅう 流派
小堀遠州 特徴 遠州直系・松籟会

小堀遠州を流祖とし、遠州の同母弟・正行(槍の治左衛門)の家系が継いだ流派。七世以降は本家の血を入れて遠州直系となり、十二世宗舟が明治に家元として再興した。遠州茶道宗家(宗家十三世)とは別系統の、もう一つの遠州の流れ。同門組織は松籟会。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通/確:正行の家系・直系化]

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小堀宗安

こぼり そうあん 小堀遠州流
小堀遠州流六世

小堀遠州流の六世。系譜をつないだ。[確:六世]

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小堀宗圓(健作)

こぼり そうえん 小堀遠州流
小堀遠州流十六世 生年 1945 継承 1999(平成11)

本名は健作。平成十一年(1999)に十六世を継いだ。政一(遠州)より数えて十六世にあたる。流祖・遠州の弟正行の家系として綺麗さびの茶を伝え、のちに家元嗣・宗峯へ継いだ。[確:十六世・継承年]

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小堀宗延(政壽)

こぼり そうえん 遠州流
遠州流六世 事績 十九歳で隠居

養子として家に入るも、十九歳の若さで隠居した。短い在任ながら系譜をつないだ。[確:六世]

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小堀宗慶(正之)

こぼり そうけい 遠州流
遠州流二世 事績 近江孤篷庵を建立

遠州の長男。松花堂昭乗に書を学び神童とうたわれた。父の没後、近江に孤篷庵を建立して遠州を弔い、その茶と美意識を継いだ。[確:二世]

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小堀宗虎(正行)

こぼり そうこ 小堀遠州流
小堀遠州流二世 異名 槍の治左衛門

遠州の同母弟。武勇に優れ『槍の治左衛門』と称された三千石の旗本。この家系が遠州の茶を継ぎ、松籟会へつながる流れの祖となった。[確:二世]

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小堀宗功

こぼり そうこう 小堀遠州流
小堀遠州流五世

小堀遠州流の五世。家系を継ぎ、遠州の茶を伝えた。[確:五世]

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小堀宗香(政峯)

こぼり そうこう 遠州流
遠州流五世 立場 大番頭・若年寄

大番頭・若年寄を歴任した出世頭。幕府の要職にありながら、家の茶を守り伝えた。[確:五世]

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小堀宗舟(政孝)

こぼり そうしゅう 小堀遠州流
小堀遠州流四世 伝承 栗林公園作庭説

小堀遠州流の四世。讃岐の栗林公園について、その庭の基礎を遠州流庭園として形づくったとする説がある。[通/要確認:作庭は確証された史実ではなく学説の域]

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小堀宗舟(政休)

こぼり そうしゅう 小堀遠州流
小堀遠州流十二世・再興 事績 遠州没後250年祭

明治に家元として流儀を再興し、遠州没後二百五十年祭を催した。近代の小堀遠州流の礎を築いた。[確:十二世・再興]

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小堀宗信(政展)

こぼり そうしん 小堀遠州流
小堀遠州流八世 事績 本家からの養子・遠州直系

本家からの養子として家を継ぎ、遠州直系を保った。[確:八世]

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小堀宗仁

こぼり そうじん 小堀遠州流
小堀遠州流十一世 事績 正統継承に努め早世

本家改易後の正統の継承に努めたが、若くして没した。なお十世(宗勇)は病身のため惣領を引き、歴代には数えない。[確:十一世]

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小堀宗瑞(政房)

こぼり そうずい 遠州流
遠州流四世 事績 綱吉の御前で講釈

十歳で家督を継ぎ、将軍綱吉の御前で茶の講釈を行ったと伝わる。若くして流儀を担った。[確:四世]

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小堀宗忠(政報)

こぼり そうちゅう 小堀遠州流
小堀遠州流七世 事績 遠州直系となる

本家五世政峯の子が養子に入り、以後この家は遠州の直系となった。本家の血を継いだ転機の代。[確:七世・直系化]

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小堀宗忠(進)

こぼり そうちゅう 小堀遠州流
小堀遠州流十四世 事績 高松宮妃の師範

高松宮妃の茶道師範を務めた。皇室と縁を持ち流儀を伝えた。[確:十四世]

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小堀宗中(政優)

こぼり そうちゅう 遠州流
遠州流八世・中興 事績 幕臣に復帰し流儀を再興

四十年の浪々を経て文政十一年(1828)に幕臣として召し出され、小堀本家の名跡を再興した中興の祖。遠州の茶法を整理して後世へ伝えた。利休・三斎・織部・遠州の四祖の言行をまとめた『茶道四祖伝書』を書写・伝来したことでも知られる。[確:八世・本家再興]

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小堀宗通(文雄)

こぼり そうつう 小堀遠州流
小堀遠州流十五世 生没 1912-1999 事績 松籟会を立ち上げ

本名は文雄。昭和二十八年(1953)に十四世宗忠の没後を継いだ。同門組織『松籟会』を立ち上げ、機関紙『松籟』を創刊し、近代的な組織として流儀を広げた。[確:十五世・松籟会創設]

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小堀宗貞(正十)

こぼり そうてい 小堀遠州流
小堀遠州流三世 事績 多賀大社の造営奉行

多賀大社の造営奉行を務めた。家業のかたわら遠州の茶を伝えた。[確:三世]

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小堀宗道(政徳)

こぼり そうどう 小堀遠州流
小堀遠州流九世 事績 寛政重修諸家譜に呈譜

寛政重修諸家譜に小堀家の系譜を呈譜した。家系の記録を整えた代。[確:九世]

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小堀宗博

こぼり そうはく 小堀遠州流
小堀遠州流十三世

小堀遠州流の十三世。近代の流儀を継いだ。[確:十三世]

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小堀宗峯

こぼり そうほう 小堀遠州流
立場 小堀遠州流 当代家元 家元嗣披露 2019(平成31)

小堀遠州流松籟会の当代家元。平成三十一年(2019)の遠州忌で家元嗣として披露され、のちに家元を継いだ。流祖・遠州の弟正行の家系として、綺麗さびの茶を現代に伝える。[確:家元嗣披露/当代継承は流派内の最新情報に拠り、公式サイト未更新の部分は要確認]

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小堀宗實(政恒)

こぼり そうみ 遠州流
遠州流三世 事績 遠州蔵帳を編纂

小堀家伝来の道具を整理し、遠州蔵帳(小堀家器財帳)を編んだ。流祖以来の名物の来歴を記録として後世に伝えた。[確:三世]

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小堀宗明(正徳)

こぼり そうめい 遠州流
遠州流十一世 事績 東京茶道会の基を築く

東京茶道会の基礎を築き、近代の茶道組織の整備に貢献した。十二世・宗慶(紅心、今遠州)へ続く。[確:十一世]

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小堀宗本(正和)

こぼり そうもと 遠州流
遠州流九世 事績 遠州に遜色なき能書

流祖遠州に劣らぬ能書として知られた。書を通じても流儀の美意識を体現した。[確:九世]

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小堀宗友(政方)

こぼり そうゆう 遠州流
遠州流七世 事績 伏見騒動で改易

伏見奉行在任中の騒動により改易され、小堀家は大名家として途絶えた。流儀にとって大きな転機となった。[確:七世]

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小堀宗有(正快)

こぼり そうゆう 遠州流
遠州流十世 事績 茶道を一般公開

茶道を広く一般に公開して普及に努め、女性にも門戸を開いた。近代の流儀の基盤をつくった。[確:十世]

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小堀宗慶(紅心)

こぼりそうけい こうしん 歴代家元(近現代)
流派 遠州流  12世 生没 1923–2011

遠州流茶道、遠州茶道宗家の十二世家元。本名は正明、号は宗慶・成趣庵・紅心。一九二三年に生まれ、東京美術学校で日本画を学んだ。学徒出陣で大陸に渡り、戦後はシベリアでの抑留を経て帰国した。一九五〇年に宗慶を襲名し、一九六二年に十二世を継いだ。「国民皆茶」を掲げて遠州流の普及に努め、名物裂の研究や、藤原定家の書風を伝える書き手としても知られ、「今遠州」と呼ばれた。二〇一一年に没した。[確:襲名・経歴・没年]

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小堀宗実(不傳庵)

こぼりそうじつ ふでんあん 当代家元
流派 遠州流  13世 生年 1956

遠州流茶道、遠州茶道宗家の十三世家元。号は不傳庵。一九五六年に生まれ、学習院大学を卒えたのち、大徳寺で禅の修業を積んで号を授かった。二〇〇一年元旦に十三世を継いだ。流祖・小堀遠州以来の「綺麗さび」の茶風を受け継ぎ、国内外で茶道の普及と文化交流に努めている。茶道具や茶花への造詣が深く、藤原定家の書風を伝える書き手でもある。著書に『綺麗さびの極み』『茶の湯の宇宙』など。[確:襲名・経歴]

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駒沢利斎

こまざわりさい 流派
指物師(さしもの)  駒沢家  棚・香合・炉縁など

千家十職のうち、木を組んでつくる指物(さしもの)を受け持つ駒沢家の当主が代々名乗る名跡。釘を使わず木を組み合わせる技で、棚や香合、炉縁、莨盆などの木地の道具を、家元の好みに応じてつくる。江戸前期に始まる家である。[確:職分・駒沢家]

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誉田屋宗宅

こんだや そうたく 堺・珠光門
出自 堺 伝来 珠光文琳

堺の人、珠光の弟子。珠光所持の文琳茶入を譲り受け、その没後に津田宗及が入手した。名物の伝来を媒介した堺の茶人。山上宗二記に珠光の弟子と明記される。[通]

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後西天皇

ごさい てんのう 宗和流に学んだ帝
百十一代天皇  金森宗和に学ぶ

後水尾天皇の第七皇子、百十一代天皇。高松宮を継ぎ桃園宮とも呼ばれた。歌道・古典に通じ、金森宗和に茶を学んで宗和流・宗和好みに深く傾倒した。当麻寺中之坊で片桐石州の点茶を受けたことでも知られる。御茶事は『槐記』に詳しい。宮廷茶の湯の中心。[確]

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五島慶太

ごとう けいた 集めた人
生没 1882-1959 事績 東急の祖・五島美術館

東急グループを築いた実業家、号は古経楼。奈良朝の古写経から蒐集を始め、墨蹟・茶道具へと広げた。逸翁・小林一三と並ぶ東西の数寄者と称される。収集品は没後、五島美術館として公開された。[通]

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最々斎

さいさいさい 裏千家
裏千家七代 生没 1709-1733  竺叟宗室

裏千家七代、竺叟宗室。表千家如心斎の弟で、今日庵を継いだ。二十五歳の若さで早世したため作例や事歴は乏しいが、表裏の血のつながりを示す家元。跡は同じく如心斎の弟・一燈が継いだ。[確:七代・如心斎の弟/確:二十五歳で早世]

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西福院

さいふくいん 奈良派・珠光門
興福寺西福院 所持 三日月の壺

南都興福寺西福院の住職、珠光門下の茶人。義政愛用の東山御物だった大壺「三日月」を所持したことで知られる。七つの瘤と前傾した姿から三日月の名があったという。義政没後に西福院の所蔵となった。[通]

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佐々木導誉

ささき どうよ 茶の前夜
生没 1296?-1373 事績 闘茶の代表者

近江の豪族、室町幕府の重臣。和歌・連歌・猿楽に通じ、豪奢な闘茶会を催した中世大名の代表。『太平記』は七十服の本非を飲み分ける賭けの茶会を伝える。茶が芸道になる前夜の、舶来趣味と賭博の茶。[確:太平記/導誉は自筆文書による]

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佐竹義宣

さたけ よしのぶ 茶を嗜んだ武将
立場 常陸→秋田の国主  肥前名護屋

常陸の国主、のち秋田へ移封。秀吉に従い、朝鮮役では肥前名護屋に在陣した。陣中の徒然を慰めるため、能や茶湯に精進した。戦陣においても茶が武将の心の支えとなったことを示す一例として挙げられる。[確]

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三斎流

さんさいりゅう 流派
細川三斎 系統 三斎系(表) 特徴 利休直流の武家茶

細川三斎(忠興)を祖とする武家茶の流派。利休七哲の一人である三斎は、師・利休の侘び茶を厳格に継ぎ、その作法を細川家の伝統として遠隔地に固定した。肥後にはこの流れを引く肥後古流が伝わる。流派の系統は各家の公式に拠る。[確:三斎の利休門・武歴/通:三斎流の祖]

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三千家

さんせんけ 守った人
成立 宗旦の子らに始まる 構成 表千家・裏千家・武者小路千家

千宗旦の子らに始まる、利休の侘びを継ぐ三つの家。表千家(不審菴)・裏千家(今日庵)・武者小路千家(官休庵)。江戸期に家元制度として組織され、茶の湯の継承と普及の中核を担った。流派の成り立ち・歴代家元は各家の公式文献に拠る。[通]

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坐忘斎

ざぼうさい 裏千家
裏千家十六代 生年 1956-  玄黙宗室

裏千家十六代、玄黙宗室。十五代鵬雲斎の跡を継いだ、当代の裏千家家元。父が広げた国際的な活動を受けつぎ、伝統を守りながら現代に茶の湯を伝えている。今日庵の系統を継ぐ現在の当主。[確:十六代・当代]

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篠道耳

しの どうじ 奈良派・珠光門
別名 篠 所持 香炉

珠光門下の茶人。山上宗二記に松本珠報と並ぶ代表的茶湯者として挙げられる。香炉の家として知られ、その香炉は将軍家秘蔵の東山御物となっていたと伝わる。珠光門下の目利きの一人。[通]

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芝山監物

しばやま けんもつ 利休七哲
生没 ?-? 立場 利休七哲

利休七哲の一人。名は宗綱と伝わる武家茶人。道安の茶会にも蒲生・三斎らとともに名を連ねる。事歴の詳細は乏しいが、利休門の高弟として七哲に数えられる。[通/要確認:事歴は詳らかでない]

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清水道竿

しみず どうかん 石州流・清水派
仙台藩茶頭  清水派三世

仙台藩茶頭清水道閑の世嗣。石州流清水派三世。父道閑に学び、その没後は松浦鎮信に師事、さらに藤林宗源に就いて皆伝を受けた。複数の石州流分派を統合的に継承した点に特色がある。[確]

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春屋宗園

しゅんおく そうえん 禅と茶
生没 1529-1611  大徳寺百十一世  龍光院 開山

安土桃山から江戸初期の臨済宗の禅僧。大徳寺百十一世住持をつとめ、茶の湯に深く親しんで今井宗久・津田宗及・千利休・千道安らと交わった。黒田長政が父・孝高(如水)の菩提を弔って創建した龍光院の開山に迎えられ、門下から沢庵・江月宗玩らが出た。茶人たちの参禅の師として、利休の侘び茶を禅の側から支えた一人である。[通]

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松花堂昭乗

しょうじょう しょうじょう 寛永の三筆
生没 1582-1639 事績 八幡名物・閑雲軒

石清水八幡の社僧にして寛永の三筆の一人。書・画・茶に遊び、三畳の茶席閑雲軒、晩年は松花堂を結んだ。遠州・近衛応山らと交わる書院茶。八幡名物を用いた風雅の茶人。松花堂弁当の名の由来。[確:松花堂茶会記/通:三筆]

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笑嶺宗訢

しょうれい そうきん 禅と茶
生没 1505?-1584  大徳寺百七世  古渓宗陳ら

戦国期の臨済宗大徳寺派の禅僧で、大徳寺百七世住持をつとめた。大仙院に学んだ大仙派の法系に連なり、門下に総見院開山の古渓宗陳らを育てた。堺の町衆や茶人とも縁が深く、利休前夜の大徳寺に禅の学統を伝えた禅匠の一人である。[通]

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真翁紹智(月心軒)

しんおう じょうち 藪内流
藪内流二代 事績 西本願寺の茶道師家

西本願寺の茶道師家となり、その庇護を受けた。剣仲の茶を継ぎ、藪内家を下京に確立した。歴代は『紹智』を襲名する。[確:二代]

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真伯宗守

しんぱく そうしゅ 武者小路千家
武者小路千家六代 生没 1693-1745 斎号 静々斎

武者小路千家六代、静々斎。五代文叔の跡を継いで官休庵を守った。武者小路千家の点前と茶室を受け継ぎ、次代の直斎へとつないだ家元。[確:六代]

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新柳斎宗雪

しんりゅうさい そうせつ 江戸千家(池之端)
系統 池之端  十一代・当代 襲名 令和六年

江戸千家・池之端系の当代。十代名心庵宗雪を継ぎ、令和六年に十一代を襲名した。不白以来の江戸の茶を伝える。[確:池之端十一代・当代]

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而妙斎

じみょうさい 表千家
表千家十四代 生年 1938- 継承 昭和55年

表千家十四代、宗左。昭和五十五年に不審菴を継ぎ、長く家元を務めた。平成三十年に隠居して次代の猶有斎に家督を譲った。戦後から平成にかけての表千家を率いた家元。[確:十四代・昭和55年継承・平成30年隠居]

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十四屋宗悟

じゅうしや そうご 奈良派・道耳門
出自 近江大津  篠道耳

下京の茶湯数寄。篠道耳の弟子で珠光の孫弟子にあたる茶匠。鑑識眼は高くなかったが小道具を数多く所持したと山上宗二記は評する。此村屋・万代屋・松本などとも称した。[通/要確認]

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常叟宗室

じょうそう そうしつ 裏千家
裏千家五代 生没 1673-1704 斎号 不休斎

裏千家五代、不休斎。四代仙叟の跡を継ぎ、加賀前田家や伊予松山の久松家に仕えた。諸侯に茶を伝えながら、若くして世を去った。今日庵を大名家とのつながりのなかで支えた家元。[確:五代/通:前田家・久松家に仕う]

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如心斎

じょしんさい 表千家
表千家七代 生没 1705-1751 事績 七事式を定む

表千家七世、天然宗左。千家中興の上手とされる。裏千家の一燈宗室、大徳寺の無学和尚と相談し、碧巌の七事随身の語に基づいて七事式を定めた画期の家元。花月・且座など四式を加えて七事式を大成。門下に川上不白ら。[確:七事式制定/通:中興]

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鈴木大拙

すずき だいせつ 近代・禅と茶
生没 1870–1966 著作 禅と日本文化

仏教学者。禅を世界に紹介した人物として知られ、英文『Zen and Japanese Culture(禅と日本文化)』で、茶の湯を禅の精神が生活様式に結晶した一例として論じた。侘び・寂びを禅的な無の美意識と結びつけて説明し、茶と禅の関係を国際的な議論の俎上に載せた。茶の精神性を哲学として語る系譜の源。[確]

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住友春翠

すみとも しゅんすい 集めた人
生没 1864-1926 事績 住友15代・泉屋博古館

住友家15代当主、住友吉左衞門友純。公家徳大寺家の出で和漢の教養に深く、文人の清雅な美を好んだ。煎茶会の床飾りに中国古銅器を求めたことが、後の泉屋博古館の青銅器コレクションの礎となった。茶の湯・能楽を嗜む明治の数寄者。[通]

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住吉屋宗無

すみよしや そうむ 利休門・茶湯七人衆
本姓 山岡 立場 秀吉茶湯七人衆

堺で造酒を業とした茶人。剣を上泉伊勢守に、茶を利休に学び、ともに奥義に達した。秀吉召抱えの茶湯七人衆の一人。置合せの道具を定め常住一様の会を催す古風な茶人だった。[確]

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随流斎

ずいりゅうさい 表千家
表千家五代 生没 1650-1691  良休宗左

表千家五代、良休宗左。四代江岑の養子として不審菴を継いだ。みずからの茶の覚えを記した『随流斎延紙ノ書』を残し、後世の点前研究の手がかりとなった。短い在世のうちに千家の作法を書きとどめた家元。[確:五代/通:延紙ノ書]

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清巌宗渭

せいがん そうい 禅と茶
生没 1588-1662  大徳寺百七十世 参禅 千宗旦の師

江戸前期の臨済宗の禅僧。近江の生まれで、大徳寺で玉甫紹琮に入門ののち建国宗良の法を嗣ぎ、大徳寺百七十世住持をつとめた。江戸では品川の東海寺住持も兼ねる。書画にすぐれ、沢庵宗彭・江月宗玩とともに『大徳寺三筆』と称された。千宗旦の参禅の師となり、宗旦の侘びの小間に与えた『今日庵』の号は清巌の墨蹟に由来すると伝えられ、裏千家の茶室の名の源とされる。[伝:今日庵号の由来]

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惺斎

せいさい 表千家
表千家十二代 生没 1863-1937  敬翁宗左

表千家十二代、敬翁宗左。明治の茶道衰微のなかで不審菴を継ぎ、その再興に努めた。各地に弟子を育て、近代の表千家を立て直した。茶の湯が時代の波にさらされた時期を支えた家元。[確:十二代/通:明治期の再興]

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石州流

せきしゅうりゅう 流派
片桐石州 特徴 武家茶の式法

片桐石州を祖とする武家茶の流派。将軍家の茶道指南として厳粛な式法を整えた。家老藤林宗源が大成し、怡渓派・伊佐幸琢を経て松平不昧の不昧派、松浦鎮信の鎮信派など多くの分派を生んだ。石州自身に傑出した後継がなく、門下の逸材に印可が広がった。[通/確:分派の広がり]

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瀬田掃部

せた かもん 利休七哲
生没 1548-1595 立場 利休七哲

名は正忠。秀吉に仕えた武家で、利休七哲の一人。利休の数寄の極意を求めて奈良へ下り、織部とともに鷺絵を参得した。文禄四年、関白秀次事件に連座して処刑された。[通:七哲/確:秀次事件連座]

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千少庵

せん しょうあん 利休の後継
生没 1546-1614 立場 宗恩の連れ子

利休の後妻宗恩の連れ子で、利休の娘を娶り婿養子となった。道安と義兄弟。利休没後、蒲生氏郷のもとに逃れ、のち千家を再興。その子宗旦へと、三千家の血脈をつないだ要の人。[確:聚光院墓碑銘/通:再興の経緯]

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千道安

せん どうあん 利休の長男
生没 1546-1607 立場 利休先妻の子

利休の長男。父に劣らぬ伎倆と伝わる。飛石を一つ掘り下げて父を唸らせ、炉をかき廻されても動じず茶会を開いた逸話が残る。道安囲いと呼ぶ仕切りを工夫。千家の血を引く一方の継承者。[通:細川三斎茶書・茶話指月集]

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千家十職

せんけじっしょく 流派
意味 三千家の茶道具を作る十家  茶碗・釜・塗・指物・釜など十の職分 呼称の定着 大正期

表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が用いる茶道具を、代々あつらえてつくる十の家のこと。茶碗の樂家、釜の大西家、塗師の中村家、指物の駒沢家、土風炉と焼物の永楽家、袋師の土田家、柄杓と竹細工の黒田家、表具の奥村家、金物の中川家、一閑張の飛来家からなる。家ごとに受け持つ職分が定まり、当主は代々その名跡を継ぐ。十職という呼び名がまとまって使われるようになったのは大正のころとされる。家元の好みを形にし、茶の湯の道具を支えてきた職人の家々である。[確:十家の構成・職分/通:呼称の定着時期]

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千玄室(鵬雲斎)

せんげんしつ ほううんさい 歴代家元(近現代)
流派 裏千家  15代 生没 1923–2025

裏千家の十五代家元。号は鵬雲斎、隠居後は玄室。一九二三年に生まれ、同志社大学に学んだ。青年期に海軍へ入り、特攻隊員として出撃を待つうちに終戦を迎えた。一九四九年に大徳寺で得度して鵬雲斎の号を授かり、一九六四年に十五代を継いで宗室を襲名。「一碗からピースフルネスを」を掲げ、半世紀以上にわたり世界数十カ国を回って茶の湯を伝えた。文化勲章を受けた。二〇〇二年に家を譲って玄室と名のり、二〇二五年に没した。[確:襲名・経歴・没年]

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仙叟宗室

せんそう そうしつ 裏千家
裏千家四代 生没 1622-1697  今日庵を継ぐ

裏千家四代。宗旦の四男で、隠居所であった一畳台目の今日庵を継いで裏千家を立てた。医術を修めたのち茶に専心し、加賀前田家に茶頭として仕えた。三千家のうち今日庵の系統をひらいた家元。[確:四代・前田家茶頭]

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千宗左(而妙斎)

せんそうさ じみょうさい 歴代家元(近現代)
流派 表千家  14代 生年 1938

表千家の十四代家元。号は而妙斎、隠居後は宗旦。一九三八年に生まれ、一九六七年に而妙斎の号を授かった。一九八〇年に十四代を継いで宗左を襲名し、一九九〇年には利休四百回忌をつとめた。京都市の文化功労者として表彰された。二〇一八年に家を十五代へ譲り、隠居して宗旦と名のった。[確:襲名・経歴]

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千宗左(猶有斎)

せんそうさ ゆうゆうさい 当代家元
流派 表千家  15代 生年 1970

表千家の十五代家元。号は猶有斎。一九七〇年に生まれ、二〇一八年に十五代を継いで宗左を襲名した。芸術学の博士で、家に伝わる茶書を収める不審菴文庫の文庫長として、その研究と出版にあたっている。著書に『近世前期における茶の湯の研究』がある。[確:襲名・経歴]

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千宗室(坐忘斎)

せんそうしつ ざぼうさい 当代家元
流派 裏千家  16代 生年 1956

裏千家の十六代家元。号は坐忘斎。一九五六年に生まれ、同志社大学を卒えたのち、大徳寺で参禅得度して坐忘斎の斎号を受けた。二〇〇二年に十六代を継いで宗室を襲名し、今日庵の庵主となった。今日庵理事長、淡交会会長。文筆家としても知られ、随筆を多く著している。紫綬褒章を受けた。[確:襲名・経歴]

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千宗守(有隣斎)

せんそうしゅ うりんさい 歴代家元(近現代)
流派 武者小路千家  13代 生没 1913–1999

武者小路千家の十三代家元。号は有隣斎、隠居後は宗安。一九一三年に生まれ、京都帝国大学で国史学を学んだ。一九五三年に十三代を継いで宗守を襲名した。一九六四年に日本で初めての茶道専門学校「千茶道文化学院」を開き、翌年には官休庵を法人として立ち上げた。学問と茶を結んだ学究肌の家元として知られ、『利休とその道統』『茶花十講』などを著した。一九九九年に没した。[確:襲名・経歴・没年]

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千宗守(不徹斎)

せんそうしゅ ふてっさい 当代家元
流派 武者小路千家  14代 生年 1945

武者小路千家の十四代家元。号は不徹斎。一九四五年に生まれ、慶應義塾大学とその大学院で美学美術史を修めた。一九八九年に十四代を継いで宗守を襲名した。官休庵の理事長を務め、欧米での講演や茶会、ローマ教皇庁での献茶など、茶の湯を海外に伝える活動にも力を入れてきた。[確:襲名・経歴]

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千宗旦

せんの そうたん 守った人
生没 1578-1658 事績 侘びの徹底・三千家の祖

利休の孫。仕官せず侘びに徹し、乞食宗旦と呼ばれた。一畳台目の今日庵を結び、極小の空間に主客の直心の交わりを凝縮した。三人の子から表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が分かれ、利休の侘びを継承する系譜となった。[通]

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千利休

せんの りきゅう 大成した人
生没 1522-1591 事績 侘び茶の大成

堺の納屋衆(倉庫商)魚屋の生まれ、田中与四郎。商人・宗易として名物を商う目利きであった前半生を経て、五十歳前後で信長の茶湯者となり、秀吉のもとで栄達した。二畳の待庵、手捏ねの楽茶碗、躙口、竹の花入——簡素・対等・関係性という一つの思想を、空間と道具のかたちにまで徹底した。『利休』号は天正十三年(1585)、宮中茶会に際し正親町天皇から与えられた居士号。[確:待庵・楽茶碗・栄達]

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相阿弥

そうあみ 東山派・同朋衆
芸阿弥 著作 御飾記

能阿弥の孫、芸阿弥の子。真相と称し、義政に同朋として仕え東山御物の管理にあたった。茶湯・立花に通じ、相阿弥流を編んだとされ、これは伊勢北畠家に伝わった。『御飾記』で座敷飾りの様式を定めた。大徳寺大仙院の山水襖絵が代表作。書院の茶と座敷飾りの規範を残した。[確]

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宗旦流

そうたんりゅう 流派
千宗旦の侘び 代表 山田宗徧・藤村庸軒

千宗旦の侘び数寄を継ぐ、三千家とは別系の流れ。宗旦門下の山田宗徧が宗徧流を、藤村庸軒が庸軒流を開いた。家元の格式より、侘びに徹した宗旦の精神を受け継ぐ町人・数寄者の茶。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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宗和流

そうわりゅう 流派
金森宗和 特徴 姫宗和・公家茶

金森宗和を祖とする流派。優美な作風から『姫宗和』と称され、公家社会に好まれた。後西天皇の傾倒を受け、子方氏を通じて加賀藩・岸和田・飛騨に伝わった。名古屋では武者小路千家進出まで茶道の正統とされた。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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即中斎

そくちゅうさい 表千家
表千家十三代 生没 1901-1979  無盡宗左

表千家十三代、無盡宗左。同門会を組織し、財団法人不審菴を設立して、表千家の組織と財政の基礎を整えた。近代的な家元制度のもとで、戦後の茶道を支えた家元。次代の而妙斎へと現代の表千家をつないだ。[確:十三代・財団不審菴設立]

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啐啄斎

そったくさい 表千家
表千家八代 生没 1744-1808  件翁宗左

表千家八代、件翁宗左。七代如心斎の長男として不審菴を継いだ。天明の大火で千家の建物が焼けたのち、不審菴の再建に努めた。父の定めた七事式を受け継ぎ、災後の千家を立て直した家元。[確:八代/確:天明大火後の再建]

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尊行院

そんぎょういん 奈良派・珠光門
南都尊行院 所持 珠光小茄子

南都尊行院の僧、珠光の門弟。珠光所持の小茄子(珠光小茄子)と石菖蒲絵を所持した。九十九茄子より少し小さく、珠光が一種として楽しんだことから名物となった茶入を伝えた。[通]

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高橋箒庵

たかはし そうあん 近代数寄者
生没 1861–1937 著作 大正名器鑑

実業家・茶人。益田鈍翁らと近代数寄者の茶を牽引し、名器の調査記録『大正名器鑑』を編纂して、茶道具研究の基礎を築いた。大師会・光悦会などの大茶会を組織し、近代の数寄者ネットワークの中心となった。茶道具の体系的記録という近代的事業を主導した人物。[確]

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高山右近

たかやま うこん 利休七哲
生没 1552-1615 立場 キリシタン大名

利休七哲の一人にして、信仰を貫いたキリシタン大名。茶の湯と切支丹の祈りを生きた稀有な茶人。信仰を捨てず領地を失い、最後はマニラへ追放された。武家茶人の精神性のひとつの極。[通:利休七哲/確:国外追放]

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滝川一益

たきがわ かずます 茶を望んだ武将
立場 信長の部将 逸話 珠光小茄子を望む

信長の部将。武田攻めの功で上野と関東管領を与えられたが、恩賞に名物茶入「珠光小茄子」を望んで得られず、領地のみを与えられて落胆したという逸話で名高い。武将にとって名物茶器が領地に匹敵する価値を持った時代を象徴する。[通]

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沢庵

たくあん 禅と茶
生没 1573-1646 事績 紫衣事件・大徳寺

大徳寺の禅僧。遠州・松花堂・石州らと交わり、茶と禅をつないだ。幕府の紫衣勅許への介入に抗して流罪となった紫衣事件の中心人物。茶の湯の精神的支柱としての禅を体現した。[確:紫衣事件/通:茶人との交遊]

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竹内順一

たけうちじゅんいち 茶の湯研究
専門 茶道具・茶道美術 主題 茶道具研究の歴史

茶道具と茶道美術を研究する学者。茶道具がどのように研究され、評価されてきたか——その研究の歴史そのものを論じたり、名物の記録のなりたちを考えたりした。茶道学の体系的な著作や、近代の美術館と茶道具の関わりについての論にも携わっている。[確:専門・業績]

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竹蔵屋紹滴

たけぞや じょうてき 堺派・花の名人
出自 堺 所持 貨狄の花入

堺の茶匠。鳥居引拙・藤田宗理と同格とされ、花の名人として知られた。舟形の花入「貨狄」を所持した。[通]

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武野紹鴎

たけの じょうおう 開いた人
生没 1502-1555 事績 歌学を茶へ・取り合わせの確立

堺の富裕な武具商に生まれた茶人。三条西実隆に和歌を学び、藤原定家の歌論(稽古と作意・分別)を茶に移した。約六十種の名物を秘蔵する大所持者でありながら、『正直に慎しみ深く、おごらぬさまを侘という』と説き、名物一種を持って侘に徹せよと述べた。唐物と高麗・和物を同じ茶席に取り合わせ、亭主の眼が価値を決めると示した。床に定家の小倉色紙を掛けた最初の茶人。[通/確:会記]

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立花大亀

たちばな だいき 禅と茶
生没 1899-2005  大徳寺五百十一世  利休に帰れ

大正十年(1921)堺の南宗寺で得度した臨済宗の禅僧。大徳寺塔頭徳禅寺の住職を経て大徳寺五百十一世住持・最高顧問をつとめ、山内に如意庵を再興した。花園大学長も務め、『大徳寺歴代墨蹟精粋』を編み、『利休に帰れ』など著書を通じて茶の心を問い続けた。茶杓・一行書など雄渾な墨蹟を多く遺し、戦後の茶禅をつないだ長老の一人。[通]

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田中仙樵

たなか せんしょう 近代・茶道改良
生没 1875–1960 創設 大日本茶道学会

裏千家円能斎に学んだ茶人。1898年に大日本茶道学会を創設し、「秘伝開放」「茶道本来無流儀」を掲げた。流儀が出版を禁じ口伝と特権階級に閉じていた状況を批判し、茶書の公開と流派を越えた研究を主張。家元制度の不要を説いた改革者。『南方録』研究にも成果を残す。茶道の内側からの近代化運動。[確]

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田中仙堂

たなかせんどう 茶の湯研究
生年 1958 専門 茶道の歴史社会学  大日本茶道学会会長・三徳庵理事長

茶道を歴史と社会学の視点から研究する学者で、著述家。本名は田中秀隆。東京大学の大学院で社会学を学んだ。茶道が近代の社会のなかでどのように受けとめられ、広まっていったかを論じ、岡倉天心の『茶の本』の読み解きなども手がけた。大日本茶道学会の会長、また茶道文化の学術賞を主宰する三徳庵の理事長を務め、研究を助け広める活動にも携わっている。著書に『近代茶道の歴史社会学』『岡倉天心「茶の本」をよむ』などがある。[確:経歴・業績・役職]

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田中宗慶

たなかそうけい 名工・作り手
焼物師 称号 天下一焼物師 関わり 樂焼の創始に長次郎と

利休の周辺にあって樂焼の創始を支えた焼物師。『天下一焼物師』の号を受けたと伝わる。長次郎とともに窯を営み、大徳寺の春屋宗園や絵師の長谷川等伯らとも交わったとされる。樂家の系譜では、宗慶の子に常慶があり、その家が代々の樂吉左衛門へとつながる。[確:天下一焼物師の伝・樂創始期の人/伝:血縁の細部は諸説]

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谷晃

たにあきら 茶の湯研究
生年 1944 専門 茶会記の研究  野村美術館館長

茶会記の研究を究めた学者で、芸術学の博士。野村美術館の館長を務めた。茶会の記録である茶会記を丹念に読み解き、そこに記された道具や料理、客の顔ぶれから、その時代の茶の湯のありさまや、社会と文化のすがたを浮かび上がらせた。茶会記を歴史の史料として読む方法を大きく深めた一人。著書に『茶会記の研究』『茶人たちの日本文化史』などがある。[確:経歴・業績]

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谷川徹三

たにかわてつぞう 茶の湯研究
生没 1895–1989 専門 哲学・芸術評論  『茶の美学』

哲学と芸術・文学のあいだに独自の領域を切りひらいた哲学者・評論家。西田幾多郎に学んだ京都学派の一人で、法政大学の総長を務めた。茶の湯を芸術としてどう捉えるか、その構造を冷静に分析し、敗戦直後にいち早く『茶の美学』を著した。柳宗悦らの民藝運動も支えた。詩人の谷川俊太郎は長男にあたる。[確:経歴・業績]

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谷端昭夫

たにはたあきお 茶の湯研究
専門 茶道史 主題 公家茶道・大名茶道 受賞 茶道文化学術賞

茶道史を研究する学者。近世の公家たちの茶——朝廷や公家の社会で営まれた茶の湯——に光をあて、その独自のかたちと、茶道史のなかでの位置づけを明らかにした。大名の茶の系譜についても論じている。『公家茶道の研究』で茶道文化の学術賞を受けた。[確:専門・業績]

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淡々斎

たんたんさい 裏千家
裏千家十四代 生没 1893-1964 事績 淡交会を創設

裏千家十四代、碩叟宗室。全国の同門を束ねる淡交会を創設し、近代的な組織のもとで裏千家を大きく広げた。学校茶道や海外への普及の道もひらいた。現代の裏千家の隆盛の礎を築いた家元。[確:十四代・淡交会創設]

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大綱宗彦

だいこう そうげん 禅と茶
生没 1772-1860  大徳寺四三五世・黄梅院十四世  歌僧・茶

江戸後期の臨済宗の禅僧。六歳で黄梅院に入り、のち大徳寺四三五世・黄梅院十四世となった。和歌と茶の湯にすぐれ、生涯に二万首ともいわれる歌を詠んだ。表千家十世吸江斎・裏千家十一世玄々斎ら当代の家元や歌人・竹屋光昭らと親しく交わり、幕末の大徳寺で茶人にもっとも親しまれた風雅の歌僧として知られる。[通]

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大日本茶道学会

だいにほん さどうがっかい 流派
田中仙樵 系統 千家系(表) 掲げた旗 茶道本来無流儀

田中仙樵が明治三十一年(1898)に創立した茶の団体。『茶道本来無流儀』『秘伝開放』を掲げ、秘伝や家元制度の制約に依らず、誰もが自由に茶道を学び研究できることを目指した。現在は公益財団法人三徳庵が運営する。流派の系統は各家の公式に拠る。[確:創立・理念/通:千家系の位置づけ]

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大林宗套

だいりん そうとう 禅と茶
生没 1480-1568  大徳寺九十世  南宗寺 開山

室町後期から戦国期の臨済宗の禅僧。大徳寺九十世住持をつとめ、三好長慶の請いで堺に南宗寺を開いた。武野紹鴎が法を嗣ぎ、北向道陳・千利休・津田宗及ら堺衆を数多く教化した。堺の町衆茶の湯と大徳寺の禅を結びつけた、利休以前の重要な禅匠である。[通]

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竹猗紹智(真々斎)

ちくい じょうち 藪内流
藪内流八代 事績 皇女和宮の茶道指南役

皇女和宮の茶道指南役を務めた。皇室と縁を持ち流儀を伝えた。[確:八代]

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竹陰紹智(比老斎)

ちくいん じょうち 藪内流
藪内流六代 事績 諸大名と交わる

諸大名と交わり、藪内の茶を外へ発展させた。[確:六代]

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竹翁紹智(桂陰斎)

ちくおう じょうち 藪内流
藪内流七代 出自 大和五条来田家から養子

大和五条の来田家から養子に入り、七代を継いだ。[確:七代]

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竹心紹智(不住斎)

ちくしん じょうち 藪内流
藪内流五代・中興 教え 正直清浄・礼和質朴

中興の祖。古儀への回帰を説き、『正直清浄・礼和質朴』を旨とした。華美を戒める藪内の茶風を定めた。[確:五代・中興]

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竹翠紹智(休々斎)

ちくすい じょうち 藪内流
藪内流十代 事績 近代茶道の黄金期

近代茶道の黄金期を担い、藪内流を広めた。[確:十代]

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竹窓紹智(透月斎)

ちくそう じょうち 藪内流
藪内流十一代 事績 組織的基盤を築く

流儀の組織的な基盤を築いた。近代の藪内流を整えた。[確:十一代]

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竹露紹智(宝林斎)

ちくろ じょうち 藪内流
藪内流九代 事績 維新期を守る

幕末維新の激動期に流儀を守り伝えた。[確:九代]

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茶の湯研究

ちゃのゆけんきゅう 茶の湯研究
性格 学問としての茶の湯 方法 史料に即した実証 時代 近代以降

茶の湯を、流派の教えとしてではなく、歴史と文化の対象として学問的に研究する立場。近代以降、茶会記や古い茶書などの史料を丹念に読み、伝承や通説を史実から検証しなおす研究が進んだ。陶磁史の側から茶陶を究める者、茶道史・文化史の側から茶の湯の歩みをたどる者など、その切り口はさまざま。林屋晴三・熊倉功夫・神津朝夫らがこの流れに連なる。[確:学術研究の系譜]

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直斎宗守

ちょくさい そうしゅ 武者小路千家
武者小路千家七代 生没 1725-1782 斎号 堅叟

武者小路千家七代、堅叟。六代真伯の跡を継ぎ、官休庵に茶室・一方庵を造ったと伝わる。武者小路千家の茶席を整え、簡素の家風を深めた家元。[確:七代/通:一方庵を造る]

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鎮信流

ちんしんりゅう 流派
松浦鎮信  石州流の一派

肥前平戸藩主・松浦鎮信を祖とする石州流の一派。鎮信は石州流を藤林宗源に学び、平戸藩の武家茶として一派を成した。大名の格式と石州流の厳粛な式法を重んじる。石州流が諸藩へ広がる一翼を担った。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[確:鎮信の藩主・石州門/通:鎮信派の祖]

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辻玄哉

つじ げんさい 堺派・利休の高弟
出自 堺・櫛屋 立場 茶湯七人衆

堺の人、屋号を櫛屋という。連歌師でもあり、武野紹鴎の高弟。利休の茶の真の師であったとする説もある。秀吉に仕えて茶湯七人衆に列した。津田宗及の茶湯日記に茶事が頻出し、瓜紅の台子・飯胴の小壺・虚堂の墨蹟などの名物を所持した。[通]

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辻与次郎

つじよじろう 名工・作り手
釜師 称号 天下一与次郎(秀吉より)  京都・三条釜座

利休の釜師として、その好みの釜を数多く生んだ名工。近江の生まれで、京の三条釜座に居を構え、西村道仁に学んだ。室町以来の芦屋・天命とは異なる新しい釜——丸釜・阿弥陀堂釜・雲龍釜・四方釜など——を利休の意を受けて作り出した。秀吉から『天下一』を許され『天下一与次郎』と称した。[確:利休の釜師・天下一の号]

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津田宗及

つだ そうぎゅう 用いた人
生没 ?-1591 立場 堺・天王寺屋/茶会記

堺の豪商天王寺屋の主。父宗達から続く『天王寺屋会記』を遺し、当時の茶会の実像を伝える一級の記録者となった。今井宗久・利休と並び信長・秀吉に仕えた。記録を通じて茶の湯史を後世に残した功績が大きい。[通/確:会記]

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津田宗達

つだ そうたつ 堺・天王寺屋
天王寺屋  津田宗及

紹鴎門下の堺の茶匠。津田家は屋号を天王寺屋といい、堺の会合衆三十六人衆の一人として自治を担った豪商。子は津田宗及。天王寺屋文琳・楢柴肩衝など名物を多く所持した。茶会記『天王寺屋会記』はこの父子三代の記録で、桃山茶の湯の一級史料。[確]

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土田友湖

つちだゆうこ 流派
袋師(ふくろし)  土田家  仕覆・服紗など裂地の品

千家十職のうち、裂地(きれじ)を縫う袋師(ふくろし)の土田家の当主が代々名乗る名跡。茶入を包む仕覆(しふく)をはじめ、服紗(ふくさ)や数寄屋袋など、名物裂などの裂地を用いた品を、家元の好みに応じて仕立てる。江戸中期に始まる家である。[確:職分・土田家]

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筒井紘一

つついこういち 茶の湯研究
生年 1940 専門 茶書研究  今日庵文庫長・茶道資料館副館長

茶書の研究を究めた茶道研究家で、文学博士。古い茶書を体系的に読み解く仕事の第一人者として知られる。今日庵文庫の文庫長や、茶道資料館の副館長を務め、未刊の茶書を掘り起こす茶書研究会を立ち上げた。著書に『茶書の系譜』『茶書の研究』などがあり、茶の湯の文献研究を大きく前へ進めた。[確:経歴・業績]

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陶々舎

とうとうしゃ 現代の茶人
設立 2013年・京都 拠点 大徳寺近くの町家  天江大陸・中山福太朗ほか

京都・大徳寺にほど近い町家を拠点に、天江大陸・中山福太朗らが営む茶のシェアスペース。特定の流派に属さず、若い世代が日常のなかで茶を点て、稽古し、もてなす場をつくる。固定した家元制度の外で茶の湯を楽しむ、現代的なあり方を体現する集まり。[通]

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東陽坊長盛

とうようぼう ちょうせい 利休の高弟
京都真如堂東陽坊 茶室 東陽坊(二畳台目)

京都真如堂東陽坊の住職。利休に学び、侘び数寄で知られた。尊円親王の六字名号一幅と伊勢天目一碗で、生涯炉を絶たなかったという。薄茶を大服に点て吸い茶で振る舞う機転を利休に賞された。北野大茶会で建てた二畳台目の茶席「東陽坊」は建仁寺に移築され現存。黒楽「東陽坊」は利休七種の一つ。[確]

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豊臣秀次

とよとみ ひでつぐ 茶を嗜んだ武将
立場 秀吉の養嗣 趣味 好学・芸術

秀吉の姉の子で養嗣となった武将。好学で芸術趣味が深く、茶にも志が深かった。小倉色紙を入手した際に利休らを招いて色紙開きの茶会を催すなど、文芸と茶を結んだ。文化人としての側面が際立つが、のち秀吉に切腹を命じられた。[確]

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豊臣秀長

とよとみ ひでなが 茶を嗜んだ武将
立場 秀吉の弟  利休に学ぶ

秀吉の弟で、豊臣政権の実務を支えた武将。茶の湯にも通じ、利休・津田宗及・山上宗二らを招いて茶事を催した。三畳台目の座敷で虚堂の墨蹟を掛け、高麗茶碗を用いるなど、当時の最高水準の茶を行った。恩威並び行う名補佐役と評された。[確]

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豊臣秀吉

とよとみ ひでよし 用いた人
生没 1537-1598 事績 黄金の茶室・北野大茶湯

信長の路線を継ぎ、茶を権力の演出に用いた。黄金の茶室を組み立て、北野大茶湯では身分を問わず参加を募った。利休を重用し『内々の儀は宗易』と頼みながら、最後はその死を命じた。侘びと豪奢という両極を、同じ茶の湯のうちに抱えた人物。[通]

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鳥居引拙

とりい いんせつ 奈良派・珠光門
立場 古今茶湯の名人 所持 名物三十種

珠光門下の茶人。山上宗二記に「茶湯者ノ数寄者ハ古今ノ名人、珠光幷引拙、紹鷗也」とあり、珠光・紹鴎と並ぶ名人とされた。堺に住み名物を多く所持。紹鴎茄子をはじめ茶入の茄子・柴肩衝など三十種を所有したと伝わる。[通/伝]

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同朋衆

どうぼうしゅう 制定した人
代表 能阿弥・芸阿弥・相阿弥 役割 唐物の鑑定・座敷飾りの制定

将軍家に仕え、唐物の管理・鑑定・座敷飾りを司った専門家。能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三代が、美術品の格付け(『君台観左右帳記』)と飾りの作法を体系化した。日本人の美の物差しを制定した立法者ともいえる。なお能阿弥は珠光に唐物の目利きを伝えたとされる。[通]

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中川浄益

なかがわじょうえき 流派
金もの師  中川家  建水・水次・薬缶など

千家十職のうち、金属の道具を受け持つ金もの師の中川家の当主が代々名乗る名跡。銅や真鍮、砂張などで、建水(けんすい)や水次、薬缶、火箸などを、家元の好みに応じてつくる。初代は桃山から江戸初期の人で、もとは鎧などの金工に始まると伝わる。[確:職分・中川家]

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中村修也

なかむらしゅうや 茶の湯研究
生年 1959 専門 日本古代史・茶道史 立場 史実からの再検証

日本古代史と茶道史を研究する学者で、文教大学の教授。文学博士。一次史料を丹念に読み解いて、千利休は切腹したのではなく追放されたのではないか、という説を立てたことで知られる。広く信じられてきた利休像を、史料から問い直す立場に立つ。神津朝夫らとともに、通説を史実から見つめなおす流れに連なる。[確:経歴・立場]

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中村宗哲

なかむらそうてつ 流派
塗師(ぬし)  中村家  棗・香合など漆器

千家十職のうち、漆器を受け持つ塗師(ぬし)の中村家の当主が代々名乗る名跡。棗(なつめ)をはじめ、香合や盆、棚など、茶の湯の漆の道具を、家元の好みに応じてつくる。初代は江戸前期の人で、千宗旦の塗師にさかのぼる縁をもつ。黒や朱の塗、蒔絵など、漆の技を代々受け継ぐ。[確:職分・中村家]

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中村昌生

なかむらまさお 茶の湯研究
生没 1927–2018 専門 茶室・数寄屋建築  京都工芸繊維大名誉教授

茶室と数寄屋建築の研究を究めた建築史家で、建築家。工学博士。それまで建築史であまり扱われてこなかった茶室に正面から取り組み、利休をはじめとする茶匠たちの作風から、茶室の形づくられてきた道すじを明らかにした。みずからの研究をふまえて、多くの茶室の設計や復元も手がけ、桂離宮の修理など伝統建築の保存にも力を尽くした。この分野を第一人者として長く牽引した人である。[確:経歴・業績]

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永島福太郎

ながしまふくたろう 茶の湯研究
生没 1912–2008 専門 中世史・茶道史 業績 天王寺屋会記の校訂ほか

中世史と茶道史を究めた歴史学者。関西学院大学の名誉教授で、文学博士。古文書を地道に読む実証の手法で、奈良の社寺や中世の都市、そして茶の湯の歴史を論じた。茶会記の代表である『天王寺屋会記』の校訂をはじめ、茶道の辞典の監修にも携わり、茶道史研究の土台を築いた一人。[確:経歴・業績]

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奈良宗久

なら そうきゅう 現代の茶人
生年 1969- 流派 裏千家 正教授・業躰 出身 石川・大樋家

昭和四十四年(1969)石川県生まれの茶人・美術工芸作家。大樋焼の大樋陶冶斎(十代長左衛門)の家に育ち、玉川大学で学んだのち裏千家学園を経て今日庵に入庵した。鵬雲斎より茶名『宗久』を受け、坐忘斎より正教授を拝命。家元のそばで茶を学ぶ業躰として、国内外に裏千家の茶を伝える。[通]

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南坊宗啓

なんぼう そうけい 利休の高弟
立場 南方録の著者  堺・南宗寺集雲庵

利休の高弟で、茶書『南方録』の著者として名高い。堺の富豪淡路屋の出身、禅通寺の春林宗俶に参じて慶蔵主と称した。利休に茶法を究め、その教えを書き留めたとされる。ただし『南方録』は江戸期に立花実山が編んだもので、宗啓自筆の原本は伝わらず、成立に諸説がある。[通/要確認]

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西村道仁

にしむらどうにん 名工・作り手
釜師 位置 京釜の祖の一人 生没 1504〜1555

戦国期の釜師・鋳物師で、京都の三条釜座に属した。京釜の家系の祖とされ、のちに利休の釜師となる辻与次郎を育てた。芦屋・天命の古作から、京で作る新しい釜へと移る、その橋渡しに位置する作り手。茶の湯の道具が京で整えられてゆく流れの一端を担った。[確:三条釜座の釜師・京釜の祖/通:与次郎の師]

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西山松之助

にしやままつのすけ 茶の湯研究
生年 1912 専門 近世文化史 業績 家元制度の実証研究

近世の文化史を究めた歴史学者で、東京教育大学の教授を務めた。とりわけ家元制度を実証的に調べた先駆者として知られ、さまざまな家元を種類や血筋ごとに整理し、それが大きな制度へ育っていく歩みを解き明かした。江戸の町人文化の研究でも多くの業績を残し、『南方録』の校注も手がけた。茶の湯を、芸道や家元という制度の面からとらえた点に特色がある。[確:経歴・業績]

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認得斎

にんとくさい 裏千家
裏千家十代 生没 1770-1826  柏叟宗室

裏千家十代、柏叟宗室。九代不見斎の跡を継いで今日庵を守った。武者小路千家の好々斎は弟にあたる。三千家の血が互いに行き交う系譜のなかで、裏千家の伝統をつないだ家元。次代は中興の玄々斎。[確:十代/通:好々斎の兄]

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仁阿弥道八

にんなみどうはち 流派
時期 江戸後期〜明治初  名碗の写しの名手

江戸の後期から明治の初めに活躍した、京焼の名工。仁清や乾山の伝統を受けつつ、独自の作風を立てた。とりわけ写しの技に秀で、唐物・高麗もの・国焼を問わず、あらゆる名碗を写して、その腕は当代随一と称された。井戸を写した茶碗などは、本歌に迫る出来栄えと評される。[通]

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根津嘉一郎

ねづ かいちろう 集めた人
生没 1860-1940 事績 蒐集の公共化・根津美術館

鉄道王と呼ばれた実業家、青山。茶道具・東洋古美術を蒐集し、没後その コレクションは根津美術館として公開された。個人の数寄を公共の財へ還元した、近代数寄者の遺産の一典型。[通]

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能阿弥

のうあみ 目利きの祖
生没 1397-1471 事績 君台観・珠光推挙

足利義政の同朋衆。唐物の目利き・立花・水墨に長じ、東山御物の価値を定めた中核。珠光に茶を学び、その珠光を義政に推挙して茶の師範とした。目利きと茶湯を結んだ人。[確/通:山上宗二記に拠る]

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野田酔翁

のだ すいおう 石州流・野田派
本名 野田久忠 立場 幕府御蔵奉行

江戸幕府御蔵奉行を勤めた茶人。松浦鎮信に石州流鎮信派を学び、江戸本所石原町に住んで茶を教え、別に石州流野田派を唱えて多くの門人を集めた。江戸における石州流普及の担い手。[確]

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野々村仁清

ののむらにんせい 流派
丹波・野々村  仁和寺門前  色絵陶器の大成

江戸の前期に活躍した、京焼を代表する名工のひとり。丹波の野々村の出といい、仁和寺の門前に窯を構えて茶陶や雑器を焼いた。白い土に透明な釉をかけ、その上へ赤・緑・黄・紫といった色絵具で文様を描き、金彩を添えた。草花・鳥獣・風景など多彩な意匠を、優雅で品よくまとめた色絵陶器を大成した。京焼の華やかさの源をつくった人。[確:色絵の大成]

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野村得庵

のむら とくあん 集めた人
生没 1878-1945 事績 野村財閥・碧雲荘

野村財閥を築いた実業家、野村徳七。茶号を得庵と称し、茶の湯は藪内流、能は観世流を嗜んだ。南禅寺界隈に数寄屋造りの別邸碧雲荘を営み、茶道具を中心に古美術を蒐集。没後その収集品は野村美術館に収められた。[通]

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橋本素子

はしもともとこ 茶の湯研究
生年 1965 専門 中世史・喫茶文化史 主題 儀礼の茶から茶の湯へ

日本の中世史と喫茶の文化史を研究する学者。奈良女子大学の大学院を修めた。平安・鎌倉のころに中国から渡ってきた茶が、寺院や武家の儀礼から、しだいに広く人々のもてなしの茶へと移り、やがて茶の湯が生まれていく流れを、茶の生産や流通もふくめてたどった。茶の湯が成立する以前の長い喫茶の歩みを明らかにした点に特色がある。著書に『中世の喫茶文化』『日本茶の歴史』などがある。[確:経歴・業績]

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畠山即翁

はたけやま そくおう 集めた人
生没 1881-1971 事績 荏原製作所・畠山記念館

ポンプを開発し荏原製作所を興した実業家、畠山一清。即翁と号して茶の湯と能を学び、茶道具・墨蹟・陶磁・能装束を鋭い目で蒐集した。収集品は畠山記念館として公開され、『與衆愛玩(皆と共に楽しむ)』を旨とした。近代数寄者の最後の世代とされる。[通]

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羽淵宗印

はねぶちそういん 名工・作り手
茶杓師 別名 彦五郎 時期 室町後期

奈良に出た茶杓師。江戸後期の茶書『茶窓閒話』は、奈良の茶杓師として珠光門の珠徳・羽淵、利休の茶杓師慶主座、石川六左衛門の名を挙げる。茶人みずから削る前の時代に、竹を削る専門の作り手がいたことを伝える名で、細めの薄造りに古作の格を残す作が中興名物・千家名物として伝わる。[確:茶窓閒話に名/伝:細部は諸説]

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林屋晴三

はやしやせいぞう 茶の湯研究
生没 1928–2017 専門 陶磁史・茶陶  東京国立博物館次長ほか

日本の陶磁史、とりわけ茶陶を究めた研究者。京都の生まれ。東京国立博物館に入り、工芸課長・資料部長を経て次長を務めた。のちに頴川美術館の理事長、菊池寛実記念智美術館の館長などを歴任し、数多くの茶道具の展覧会に終生かかわった。自らも日々茶の湯を実践した人で、研究と実践を兼ねた立場から茶陶の見方を深めた。二〇〇七年に織部賞を受けた。[確:経歴・専門]

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原三溪

はら さんけい 集めた人
生没 1868-1939 事績 生糸の財・三溪園

横浜の生糸貿易・製糸業で財をなした実業家、原富太郎。慣例にとらわれぬ自由な茶事を好み、古美術や茶道具を五千点以上蒐集した。古建築を各地から移して三溪園を造り、若い画家を支援するパトロンでもあった。近代数寄者の一典型。[通]

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飛来一閑

ひきいっかん 流派
一閑張(いっかんばり)  飛来家  香合・棗・茶器など

千家十職のうち、一閑張(いっかんばり)を受け持つ飛来家の当主が代々名乗る名跡。紙を型に貼り重ねて漆を塗る一閑張の技で、香合や棗、茶器などの軽い道具を、家元の好みに応じてつくる。初代の飛来一閑は明から渡来した人と伝わり、千宗旦と親しかったという。[確:職分・飛来家/通:初代渡来の伝]

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久田宗栄

ひさだ そうえい 久田家初代
久田家初代  利休の甥

久田家初代。父実房が利休の妹を娶り、その子として生まれた利休の甥。久田家はのち表千家の家元を支える重要な茶家となり、宗匠を多く輩出した。千家の血縁ネットワークの一端を担う。[通]

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久田宗也(尋牛斎)

ひさだ そうや/じんぎゅうさい 表千家の職家
生没 1925-2010  久田家十二代 斎号 尋牛斎・半床庵

表千家の職家・久田家の十二代、号は尋牛斎。半床庵を継いで表千家の茶を伝え、茶道具や茶の湯文化に関する著述・指導でも知られた。職家として家元を支え、戦後から平成にかけての表千家を陰で支えた茶人。[通]

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久田家(半床庵)

ひさだけ 表千家の職家
立場 表千家の職家 庵号 半床庵  宗旦の血縁

表千家を支える職家のひとつで、茶室『半床庵』の名で呼ばれる。千宗旦に連なる血縁を持ち、初代宗栄以来、表千家の家元に近侍して茶を伝えてきた。三代宗全の独創的な茶室『半床庵』を守り継ぎ、家元代行的な役も担った重要な茶家。[通]

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久松真一

ひさまつしんいち 茶の湯研究
生没 1889–1980 専門 哲学・仏教学(禅)  『茶道の哲学』

禅の立場から思索を深めた哲学者・仏教学者。西田幾多郎に学んだ京都学派の一人で、京都大学の教授を務めた。みずから茶を行じ、茶の湯を、抹茶を喫することを契機に生まれた綜合的な文化の体系として捉えた。侘びの心を徹底させ、そこから新たな創造の主体を立てることを説いた『茶道の哲学』は、茶を思想として論じた名著として知られる。茶の修養の場として心茶会も興した。[確:経歴・業績]

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不見斎

ふけんさい 裏千家
裏千家九代 生没 1746-1801  石翁宗室

裏千家九代、石翁宗室。八代一燈の跡を継いだ。天明の大火で今日庵が焼けたのち、宗旦ゆかりの茶室又隠(ゆういん)を再建したと伝わる。災後の今日庵を立て直し、裏千家の茶室を後代に残した家元。[確:九代/通:又隠の再興]

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不式庵閑雪

ふしきあん かんせつ 江戸千家(弥生町)
系統 弥生町・宗家蓮華庵  十代を称す

九代名元庵の弟。兄の没後に十代を名のり、江戸千家宗家蓮華庵(弥生町系)を称して独立した。式正の道統として不白の茶を継ぐ。長兄の子・名心庵宗雪に始まる池之端系とは別系統で、両家ともに不白の道統を称する。[確:名元庵の弟・宗家蓮華庵を称す]

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藤重(藤元・藤厳)

ふじしげ(とうげん・とうげん) 名工・作り手
塗師 代表 中次の考案 親子 父・藤元/子・藤厳

桃山から江戸前期の塗師の親子。中次(ちゅうじ)の形を整えたと伝わり、利休が『中次は藤重、棗は盛阿弥がよし』と評したという。大坂城落城で焼け損じた名物茶器(付藻茄子・松本茄子)の修復を命じられ、褒美にその茶入を拝領したと伝わる。徳川家にも重んじられた。[確:中次の名手・茄子茶入の修復伝来/伝:利休評の逸話]

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藤田香雪

ふじた こうせつ 集めた人
生没 1841-1912 事績 藤田財閥・藤田美術館

大阪財界の重鎮、藤田伝三郎。号を香雪と称し、武者小路千家に学んで茶の奥義を究めた。国の宝の散逸を防ごうと古美術・名物を蒐集し、その収集は子の代へ受け継がれて藤田美術館となった。明治の代表的数寄者。[通]

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藤田宗理

ふじた そうり 堺派・紹鴎の師
立場 紹鴎初めの師 所持 鶴の一声

下京の目利き茶人。胡銅無紋の花入「鶴の一声」を所持した。山上宗二記に「紹鷗始ノ坊主」とあり、武野紹鴎の最初の茶の師であったとされる。鳥居引拙没後の宗匠として知られた。[通]

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藤林宗源

ふじばやし そうげん 石州流・宗源派
立場 片桐家の家老 著作 和泉草・藻塩草

片桐石州の高弟で、石州流茶道の大成に力があった。初め桑山宗仙に学び、のち石州に師事した。石州流の聞書『和泉草』をはじめ『藻塩草』『品川物語』を著し、石州の茶を体系化して伝えた。石州流宗源派の祖。[確]

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藤村庸軒

ふじむら ようけん 宗旦流
生没 1613-1699 事績 庸軒流の祖

宗旦の高弟、宗旦四天王の一人。京の町人・数寄者で、庸軒流を開いた。詩文をよくし、侘びに徹した宗旦の茶を受け継ぐ。市民的な数寄の精神を体現した茶人として知られる。[通:宗旦四天王/庸軒流の祖]

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不住庵梅雪

ふじゅうあん ばいせつ 奈良派・宗珠門
村田宗珠 立場 信長の茶頭

村田宗珠門下の茶人、京都新在家の住人。連歌に巧みで、信長の茶頭を勤めた。山上宗二は彼を「非作者」(作意なき茶人)と評し、批判的に扱った。茶の作意をめぐる当時の価値観を映す存在。[通]

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不徹斎

ふてっさい 武者小路千家
武者小路千家十四代 生年 1945- 当代 官休庵を継ぐ

武者小路千家十四代、宗守。十三代有隣斎の跡を継いだ、当代の武者小路千家家元。三家のうち最も簡素を旨とする官休庵の家風を守りながら、現代に武者小路千家の茶を伝えている。[確:十四代・当代]

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不昧流

ふまいりゅう 流派
松平不昧  石州流の一派

出雲松江藩主・松平不昧を祖とする石州流の一派。不昧は石州流を学んで独自の境地を加え、名物道具を『雲州蔵帳』に分類・格付けした。藩を挙げて茶を奨励し、松江に菓子と茶の文化を根づかせた。石州流から分かれた大名茶の一つ。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通/確:不昧の藩主・名物分類]

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古市播磨

ふるいち はりま 奈良派の源流
生没 1452-1508 事績 風呂後の茶湯

興福寺衆徒の豪族。功徳風呂のあとに百五十人を集めて茶会を催した。寺院の儀式でも闘茶でもない、世俗的な座敷飾りの茶。『大乗院寺社雑事記』が伝える、奈良派茶道の源流。珠光の弟子と伝わる。[確:雑事記/通:珠光門]

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古田織部

ふるた おりべ 展開した人
生没 1544-1615 事績 破調の美・台目構え

利休の高弟。歪みと破調に美を見出す、へうげものの茶を展開した。利休の引き算を受けつつ、そこに意図的な変形と動きを掛け合わせた。燕庵に代表される台目構えの茶室を確立し、色紙窓を考案、織部焼を生んだ。利休追放の際、淀まで見送った弟子の一人。[通]

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文叔宗守

ぶんしゅく そうしゅ 武者小路千家
武者小路千家五代 生没 1658-1708 斎号 許由斎

武者小路千家五代、許由斎。四代一翁の子として官休庵を継いだ。父の結んだ簡素な茶席と作法を受け継ぎ、武者小路千家の基礎を固めた。父祖の侘びを次代へと渡した家元。[確:五代]

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鵬雲斎

ほううんさい 裏千家
裏千家十五代 生年 1923- 事績 茶を世界へ

裏千家十五代、汎叟宗室(千玄室)。『一碗からピースフルネスを』を掲げ、世界各地で茶を点てて平和を説いた。海外に多くの拠点を築き、茶の湯を世界へ広めた。現代の茶道を国際的に押し広げた家元。隠居後は玄室を号す。[確:十五代・世界各地での普及活動]

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細川三斎

ほそかわ さんさい 守った人
生没 1563-1646 立場 利休七哲・忠興

利休七哲の一人、細川忠興。利休追放の際、織部とともに淀まで見送った弟子として一次史料に名が残る。利休の茶を厳格に守り伝えたことで知られ、三斎流の祖とされる。武家にして利休の正統を継いだ。[通/確:見送り]

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細川幽斎

ほそかわ ゆうさい 歌と茶
生没 1534-1610 立場 紹鴎門・三斎の父

当代一の歌人にして武将。武野紹鴎の門に学んだ茶人でもある。流行を追って薄暗い四畳半をもてはやす『物識り』を冷笑し、文武の心の置きどころとして茶を嗜んだ。長男忠興が利休高弟の三斎。[通:茶人大系譜/確:幽斎自身の感想文]

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堀内議司男(壷中庵 宗長)

ほりうち ぎしお/こちゅうあん そうちょう 現代の茶人
生年 1962- 流派 遠州流 庵号 壷中庵

昭和三十七年(1962)生まれの遠州流の茶人。二十五歳で遠州流に入門し、十二年にわたり宗家の内弟子・秘書をつとめた。遠州流十二世小堀宗慶より『壷中庵 宗長』の名を受けて独立。遠州流の『綺麗さび』を核に、日本茶・紅茶・中国茶など茶文化を広く探究し、茶文化フォーラムのモデレーターなども務める。[通]

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堀口捨己

ほりぐちすてみ 茶の湯研究
生没 1895–1984 専門 建築・茶室・庭園 事績 『利休の茶室』北村透谷文学賞

近代建築の運動をおこした建築家でありながら、日本の茶室と数寄屋建築の研究にも大きな足跡を残した人。分離派建築会の結成に加わり、のちに茶室の美に近代建築と通じる価値を見いだした。利休を単なる茶人ではなく、空間を切りひらいた建築家として、また諸芸を束ねる総合芸術の担い手として捉えなおした。待庵を高く評価し、黄金の茶室の復元監修も手がけた。『利休の茶室』で北村透谷文学賞、桂離宮の研究でも知られる。[確:経歴・業績]

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堀内宗完(兼中斎・宗心)

ほりのうち そうかん/けんちゅうさい 表千家の職家
生没 1919-2015  堀内家十二代 斎号 兼中斎/隠居名 宗心

表千家の職家・堀内家の十二代。京都帝国大学理学部に学んだ理系出身の茶人で、長兄の急逝により長生庵を継ぎ、表千家十三代即中斎に師事した。建仁寺竹田益州より兼中斎の斎号を受ける。一九九七年に宗完の名を甥に譲って宗心と号した。独特の茶風と、茶の湯をめぐる多くの著述で知られる。[通]

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堀内家(長生庵)

ほりのうちけ 表千家の職家
立場 表千家の職家 庵号 長生庵 茶室 利休形 二畳台目

表千家を支える職家のひとつで、邸内の茶室『長生庵』の名で呼ばれる。歴代が表千家の家元に近侍して茶を伝え、利休形二畳台目の茶室を守り継いできた。三千家の家元制度を内側から支える、表千家の重要な茶家。[通]

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本阿弥光悦

ほんあみ こうえつ 総合の芸術
生没 1558-1637 事績 鷹ヶ峰・光悦本

刀剣鑑定の本阿弥家に生まれ、書・陶・蒔絵・茶を究めた総合芸術家。茶と陶を古田織部に学び、楽茶碗の名品を遺す。家康から鷹ヶ峰を賜り一族と工人を率いて芸術村を築いた。寛永の三筆の一。[確:生没・鷹ヶ峰拝領/通:織部門]

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本住坊

ほんじゅうぼう 利休門・侘び数寄
出自 堺 茶風 二畳半の侘び

堺の人で利休に執心深い弟子。二畳半の小座敷の侘び数寄を誇った。利休に伴われて奈良へ赴き、久保長闇堂に直接茶を教えた。長闇堂が侘び茶人として育つ媒介となった。[伝]

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牧村兵部

まきむら ひょうぶ 利休七哲
生没 1546-1593 立場 利休七哲

名は利貞(としさだ)。秀吉に仕えた武将で、利休七哲の一人。利休が圜悟の墨跡を蒲生・三斎らと拝した茶会にも同席した。文禄の役の陣中に没した。[通:七哲/確:朝鮮在陣中に没]

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益田鈍翁

ますだ どんおう 集めた人
生没 1848-1938 事績 近代最大の数寄者

三井財閥を率いた実業家、益田孝。近代最大の数寄者と称され、大師会を主催して財界人の茶を隆盛させた。古美術を蒐集し、茶道具に新たな価値を与えた。彼の死は、財界人の数寄の時代の終わりを象徴するとされる。[通]

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松尾宗二

まつお そうじ 松尾流の祖
松尾家二代  千宗旦

松尾家二代当主。松尾家は紹鴎高弟で禁裏御用達の呉服商・辻玄哉を初代とし、宗二が三代目から松尾を名のった。宗旦に茶を学び、宗旦伝来の「楽只」の茶杓・竹一重切花入などを家宝として伝えた。六代宗二が茶道松尾流初代を称し、宗旦の侘びを今に伝える松尾流の源流となった。[確]

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松平不昧

まつだいら ふまい 展開した人
生没 1751-1818 事績 名物の蒐集と分類・不昧流

出雲松江藩主、治郷。窮乏した藩財政を立て直す一方、名物道具を大量に蒐集し『雲州蔵帳』に分類・格付けした。散逸しかけた名物を体系づけて後世に伝え、不昧流を興した。大名茶の集大成。[通]

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松永耳庵

まつなが じあん 集めた人
生没 1875-1971 事績 電力王・茶道合理化論

『電力王』と呼ばれた実業家、松永安左エ門。晩年に茶へ深く入り、最後の数寄者の一人とされた。『茶道は概念ではない、生活である』と説き、点前に合理的な理由を与える改革を主張した。家元制度に批判的で、近代の茶を問い直した。[通]

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松永弾正

まつなが だんじょう 紹鴎門・武将
本名 松永久秀 名物 平蜘蛛・九十九茄子

下剋上の典型として知られる武将。三好長慶の被官から大和を制した。茶の湯は紹鴎門とも利休門とも伝わるが、桑田は紹鴎門と見る。九十九茄子・平蜘蛛釜など天下の名物を所持し、信長に追われた最期に平蜘蛛を抱いて自爆したと伝わる。名物と権力の結びつきを象徴する人物。[通/要確認]

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松永久秀

まつなが ひさひで 名物と梟雄
生没 1508-1577 事績 九十九茄子・平蜘蛛

戦国の梟雄にして数寄者。九十九茄子を信長へ献じて降伏の証とし、名物茶釜平蜘蛛とともに最期を遂げたと伝わる。茶道具が一国一城に値する象徴となった時代を体現する。松屋の祖と仮託されたが永島福太郎は『噴飯もの』と退ける。[確:九十九茄子献上/要確認:松屋の祖説は否定説あり]

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松村宗亮

まつむら そうりょう 現代の茶人
生年 1975- 拠点 横浜・関内/茶室 分茶庵 主宰 SHUHALLY(シュハリ)

横浜生まれの裏千家準教授で、茶道教室『SHUHALLY』を主宰する現代の茶人。古典の稽古を踏まえつつ、現代アートや音楽・照明と結んだ茶会を試み、若い世代へ茶の湯の入口を開く活動で知られる。守破離の名のとおり、型を守り、破り、離れる行き来を現代に問う。[通]

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松本珠報

まつもと しゅほう 奈良派・珠光門
正楽・永昌坊 茶風 隠逸・貧楽

珠光門下の隠逸茶人。もと山名家の宿老、のち畠山政長に仕えたという。応仁の乱後に奈良へ引退して珠光に茶を学び、晩年は京都東洞院四条で茶事に余生を送った。瓢箪の茶入と茶碗を楽しんだ。名水を愛し、貧楽の逸話が伝わる。[通/伝]

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松屋久行

まつや ひさゆき 奈良・松屋三名物
奈良の塗屋松屋 記録 松屋会記

奈良の富家松屋の二代目当主。珠光高弟の古市播磨を師とし、松本肩衝・徐熙筆白鷺絵・存星長盆の松屋三名物を譲られて子孫に伝えた。松屋は代々茶人を輩出し、その茶会記『松屋会記』は天王寺屋会記・宗及日記と並ぶ桃山茶の湯の根本史料。[確]

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松浦鎮信

まつら しげのぶ 石州流
生没 1622-1703 事績 鎮信派の祖

肥前平戸藩主。藤林宗源の門に石州流を学び、鎮信派(平戸藩の武家茶)を開いた。大名としての格式と石州流の厳粛な式法を重んじた。著書に茶説を残す。石州流が諸藩に広がる一翼を担った大名茶人。[確:藩主・生没/通:鎮信派の祖]

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松浦宏月

まつらこうげつ 当代家元
流派 鎮信流  41代 生年 1941

鎮信流の当代家元で、本名は松浦章。松浦家の四十一代当主にあたる。一九四一年に東京で生まれ、立教大学を卒え、アメリカの大学でも学んだ。NHKの国際部門に勤めたのち、松浦史料博物館の理事長をつとめる。鎮信流は、長崎の平戸を本拠とした旧平戸藩主・松浦家が代々伝えてきた武家茶道で、流祖は松浦家の二十九代当主・松浦鎮信である。以来、歴代の当主がこの茶を継いできた。平戸は、栄西が宋からの帰りに立ち寄って茶の種を蒔いたと伝わる地でもある。[確:当代・経歴・流儀]

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三笠景子

みかさけいこ 茶の湯研究
専門 東洋陶磁史  東京国立博物館研究員 担当 特別展「茶の湯」

東洋のやきものの歴史を研究する学芸員。東京国立博物館の研究員を務める。二〇一七年の特別展『茶の湯』をはじめ、大きな展覧会の企画を手がけ、茶陶や中国の青磁などについて研究を進めている。展示の現場から、茶の湯のやきものの見方を伝えている。[確:所属・業績]

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三窪笑り子

みくぼ えりこ 現代の茶人
流派 裏千家 出身 堺 主宰 Tea Knot(ティーノット)

堺に生まれ裏千家に学んだ茶人で、京都・北区を拠点に『Tea Knot』を主宰する。茶の湯を人と人を結ぶ『結び目』ととらえ、現代の暮らしのなかで気軽に茶に親しめる会や場づくりを行う。伝統を踏まえつつ、敷居を下げて茶を手渡す試みを続ける。[通]

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三井高棟

みつい たかみね 集めた人
生没 1857-1948 事績 三井北家10代・大磯の茶

三井本家(北家)の10代当主。明治から昭和にかけて三井財閥の機構改革を進めた。隠退後は神奈川大磯の別邸で茶の湯に親しみ、益田鈍翁ら近代数寄者の茶会に連なった。財閥の総帥が数寄に遊んだ近代茶の一典型。[通]

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明恵

みょうえ 伝えた人
生没 1173-1232 事績 栂尾高山寺・茶の栽培

華厳の僧。栄西から贈られた茶種を栂尾高山寺に植えたと伝わり、その茶園は日本最古の茶園とされる。宇治への移植もここから広まったと語られ、茶の栽培の出発点に置かれる。[通]

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三好笑岩

みよし しょうがん 三好一族・武将
本名 三好康長 茶壺 三好実休所持

三好長基の四男、長慶・実休の弟。河内高屋城に拠ったが信長に降り、のち堺の茶の湯に通じた。実休の名物茶壺を信長に献上したと『総見記』は伝える。三好一族の茶の伝来を媒介した。[通]

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三好実休

みよし じっきゅう 紹鴎門の武将茶人
本名 三好義賢  物外軒

紹鴎門下の武将茶人。三好長慶の弟で、阿波を本拠に勢威を張った。永禄五年、久米田の戦いで流矢に当たり戦死。山上宗二記に「実休ハ武士ニテ数寄者也」とあり、珠光所持と伝わる小茄子・三日月など名物五十種ほどを所持した。武と数寄を兼ねた戦国茶人の典型。[通]

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三好宗三

みよし そうぞう 紹鴎門・武将
本名 三好政長 異称 阿波茶道の祖

紹鴎門下の武将茶人で阿波茶道の祖といわれる。三好長慶の従弟。細川家のために各地で戦功を立てたが、長慶と不和になり敗死した。三好一族は阿波・畿内に勢威を張り、茶の湯を武家社会に広げた。[通]

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三好釣竿斎

みよし ちょうかんさい 紹鴎門・武将
本名 三好政康 交友 利休

三好宗三の次男。紹鴎に茶を学び、利休とも親交があった。利休から釣竿老翁宛の書状が残る。永禄の政変に関与した武将でありながら、堺の茶の湯の networkに連なった。[通]

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無学宗衍

むがく そうえん 禅と茶
大徳寺の禅僧  玉林院ゆかり 関与 七事式の制定

江戸中期の臨済宗大徳寺派の禅僧。表千家七世如心斎と裏千家八世一燈の参禅の師として知られる。茶の遊芸化を憂えた両家元の求めに応じ、玉林院の大龍宗丈らとともに『七事随身』の禅意にもとづく七事式の制定にあずかった。茶と禅をつなぐ修養の形を整えた一人である。[通]

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椋宗理

むく そうり 紹鴎門・侘び茶人
出自 堺 茶風 寂茶人

堺の人、紹鴎の弟子(道陳門とも)。山上宗二記に「一世タケタル人」「コビタル覚悟一生持チシ人」とあり、寂びた茶人と評された。古木一種を所持。津田宗及の日記に茶会が記録される。[通]

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武者小路千家

むしゃこうじ せんけ 三千家
庵号 官休庵  一翁宗守

千宗旦の次男・一翁宗守に始まる家。讃岐高松藩に仕えた一翁が官を辞して武者小路に結んだ二畳半板の茶席、官休庵に由来する。『官休』とは官を休めたの意。三家のうち最も簡素を旨とする。流派の系譜は各家の公式文献に拠る。[通]

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村井康彦

むらいやすひこ 茶の湯研究
生年 1930 専門 日本古代史・中世史→茶の湯  国際日本文化研究センター名誉教授

はじめ日本の古代史・中世史を研究し、のちに茶の湯の歴史へ進んだ学者。文学博士。国際日本文化研究センターの名誉教授。史料を精しく読み解いて利休の生涯と人物を描き、その後の利休像を方向づけた。喫茶が日本の生活文化としてどう根づき、ほかの文化とどう関わってきたかを論じた『茶の文化史』もある。茶の湯文化学会の設立にも加わった。著書に『千利休』『茶の文化史』など。[確:経歴・業績]

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村田珠光

むらた じゅこう 開いた人
生没 1423頃-1502 事績 侘びの方向を開く・『心の文』

奈良の出身。称名寺に入るが、茶や遊興に熱中して寺を出た。素性の知れぬ一人の数寄者として、唐物一辺倒の世に、和漢の境をまぎらかす取り合わせを持ち込んだ。弟子へ宛てた『心の文』に「此の道、第一わろき事は我慢偏執なり」と記し、まず先人の美を敬う謙虚さを説いた。涅槃経の「心の師となれ、心を師とせざれ」で結ぶ。茶を嗜みから道へ引き上げた。[確:心の文/通:事績]

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名元庵

めいげんあん 江戸千家
江戸千家九代 後継 二系分化のもと

江戸千家の九代。病身のため生前に長男・名心庵宗雪へ家元を譲り、宗雪が十代を継いだ。名元庵の没後、その弟・不式庵閑雪も十代を名のって江戸千家宗家蓮華庵を称し独立した。以後、池之端系(名心庵→新柳斎)と弥生町系(閑雪・宗家蓮華庵)の二系が、いずれも不白の道統を称している。[確:九代/二系分化の経緯]

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万代屋宗安

もずや そうあん 利休門・茶湯七人衆
出自 堺・渡辺氏  利休の女婿

堺の人、屋号を万代屋という。利休に茶を学び、その娘を娶った女婿。秀吉茶湯七人衆の一人で御伽衆も勤め、北野大茶会に参加した。長次郎作の黒楽「万代屋黒」にその名を残す。[確]

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盛阿弥

もりあみ 名工・作り手
塗師 称号 天下一(秀吉より)  底に『盛』の針書き

利休の塗師として知られ、棗(なつめ)の名手。豊臣秀吉から『天下一』の称号を受けたと伝わる。利休が『棗は粉を交ぜて荒く塗れ、中次は真に丁寧に塗れ』と指示したという逸話があり、その作風は『盛阿弥棗』として一様式に数えられる。三代続いたとされる。[確:天下一の称号・盛阿弥棗の名/伝:利休の指示の逸話]

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柳田國男

やなぎた くにお 近代・民俗学
生没 1875–1962 著作 木綿以前の事

日本民俗学の創始者。茶を、特権階級の美意識としてではなく、庶民の日常の喫茶習慣から捉え直す視点を示した。『木綿以前の事』などで、茶が民衆の生活文化に根ざす過程を論じ、家元化・芸道化される以前の茶の姿に光を当てた。茶の湯を民俗の側から相対化する視点を与えた。[通]

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藪内剣仲

やぶのうち けんちゅう 藪内流の祖
生没 1536-1627 事績 藪内流・燕庵

藪内流の祖、紹智。利休と同門で、古田織部とも縁が深い。下京に侘びの茶を伝え、織部好みの茶室燕庵を継いだ。三千家とは別系の、もう一つの利休の流れを今に伝える。系譜には不明な点も多い。[通/要確認:遠祖の系譜は時代的に疑問も]

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藪内紹智(允猶斎)

やぶのうちじょうち いんゆうさい 当代家元
流派 藪内流  14代 生年 1967

古儀茶道藪内流の十四代家元。号は允猶斎。一九六七年に京都で生まれ、福井工業大学で建築を学んだ。天龍寺で参禅の修業を積み、一九九四年に若宗匠となって、二〇一五年六月に十四代を襲名した。藪内家は代々「紹智」の名を継ぎ、京都の下京、西本願寺の門前にある。流祖・剣仲が古田織部から譲り受けた茶室・燕庵を象徴とし、利休の時代の茶風に織部の武家茶を取り入れた、華美を戒める古儀の茶を四百年にわたり伝えてきた。[確:襲名・経歴・流儀]

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藪内紹智(青々斎)

やぶのうちじょうち せいせいさい 歴代家元(近現代)
流派 藪内流  13代 生没 1936–2018

古儀茶道藪内流の十三代家元。号は青々斎・竹仲、隠居後は穆室。本名は尚弥。一九三六年に十二代の長男として生まれ、同志社大学を卒えた。一九七九年に十三代を継いだ。アメリカの首都での茶道美術の催しに席を設けたのをはじめ、オマーン・ネパール・フランスなど各地で茶を披き、藪内流を海外へ紹介することに力を注いだ。門弟をいたずらに増やすより、稽古する一人ひとりの茶を深めることが大切だと説き、古儀の茶風を守った。二〇一五年に家を長男(十四代)へ譲り、穆室と号した。二〇一八年に没した。[確:襲名・経歴・没年]

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藪内流

やぶのうちりゅう 流派
藪内剣仲 別称 下流(しもりゅう)

藪内剣仲(紹智)を祖とする流派。下京に伝わり、上流と呼ばれた三千家に対し『下流』と称された。織部好みの燕庵を継ぎ、武家茶の格式と侘びを併せ持つ。紹鴎から道具を直に伝えられたと家伝に説くが、利休門かには議論がある。[通/要確認:利休門説に異論]

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矢部良明

やべよしあき 茶の湯研究
生年 1943 専門 陶磁史・茶道史  東京国立博物館工芸課長

陶磁史と茶道史を究めた研究者。東京国立博物館で工芸課長を務め、のちに美術館の館長を歴任した。中国や日本のやきものの長い歴史を広く論じるとともに、利休や織部、紹鴎、珠光といった茶人たちと、やきものとの関わりを数多くの著作で描いた。裏千家から茶道文化賞を受けた。著書に『茶の湯とやきもの』『千利休の創意』などがある。[確:経歴・業績]

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山田宗徧

やまだ そうへん 宗旦流
生没 1627-1708 事績 宗徧流・四方庵

宗旦の高弟。寺の住職から還俗し、茶で身を立てた侘び数寄の人。宗旦から利休伝来の四方釜を授かり四方庵と号す。吉田藩の茶頭を経て江戸に出て、利休正伝の茶法を広めた。宗徧流の祖。[確:致仕・歿年/通:相伝の経緯]

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山田宗徧(10世・宗囲)

やまだそうへん そうい 歴代家元(近現代)
流派 宗徧流  10世 生没 1908–1987

宗徧流不審庵の十世家元。はじめ宗囲と名のり、のちに流祖と同じ宗徧を実名とした。号は成学・四方斎。八世宗有の長男として一九〇八年に大阪で生まれ、東京帝国大学を卒えた。父と姉のもとで茶を学び、一九六三年に十世を継いだ。父の代から続くトルコとの民間の交流を受け継ぎ、その功でトルコ政府から表彰された。京都の一条恵観の山荘にあった茶室を、鎌倉の自邸へ移し復元して残したことでも知られる。著書に『茶を語る』など。一九八七年に没した。当代十一世はその子。[確:襲名・経歴・没年]

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山田宗徧(幽々斎)

やまだそうへん ゆうゆうさい 当代家元
流派 宗徧流  11世 生年 1966

宗徧流不審庵の十一世家元。号は幽々斎、本名は山田長光。一九六六年に鎌倉で生まれ、上智大学を卒え、南禅寺で得度した。一九九〇年に十一世を継ぎ、宗徧を襲名した。家元は鎌倉にあり、流祖・山田宗徧が宗旦から受け継いだ侘び茶の点前を伝える。稽古のあり方を現代に合わせて見直す試みにも取り組んでいる。[確:襲名・経歴]

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山上宗二

やまのうえ そうじ 守った人
生没 1544-1590 事績 『山上宗二記』

堺の薩摩屋に生まれ、利休の高弟となった。妥協を許さぬ潔癖さゆえ秀吉の怒りを買い、惨殺されたと伝わる。遺した『山上宗二記』(1588)は、名物の来歴・茶の湯の心得・茶人評を伝える同時代の最重要茶書。利休の茶と名物の根拠を後世へ伝えた。[確:宗二記]

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山本助五郎

やまもと すけごろう 紹鴎門・侘び数寄
道々 茶室 天下一の二畳半

紹鴎門下の堺の茶人。紹鴎が彼のために好んで造った二畳半の小座敷は当時天下にただ一つで、侘び数寄の茶を行った。秀吉時代に流行する小間の原型を、紹鴎が弟子のために試みた例。[通]

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又玅斎

ゆうみょうさい 裏千家
裏千家十二代 生没 1852-1917  直叟宗室

裏千家十二代、直叟宗室。十一代玄々斎の跡を継ぎ、のちに玄室を名乗った。幕末から明治への激動のなかで今日庵を守り、次代の圓能斎へと裏千家をつないだ。世の転換期を支えた家元。[確:十二代/通:玄室を名乗る]

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猶有斎

ゆうゆうさい 表千家
表千家十五代 継承 平成30年 当代 利休より十五代

表千家十五代、宗左。平成三十年に父而妙斎より不審菴を継いだ、当代の表千家家元。利休から数えて十五代目にあたる。長い千家の歴史を受けて、いまの表千家を率いる。[確:十五代・当代・平成30年継承]

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有隣斎

ゆうりんさい 武者小路千家
武者小路千家十三代 生年 1913- 斎号 徳翁

武者小路千家十三代、徳翁宗守。十二代愈好斎の跡を継ぎ、戦後の武者小路千家を率いた。同門の会を広げ、現代に官休庵の簡素な茶を伝えた家元。次代の不徹斎へと家督をつないだ。[確:十三代]

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愈好斎

ゆこうさい 武者小路千家
武者小路千家十二代 生没 1889-1953  聴松宗守

武者小路千家十二代、聴松宗守。明治末から昭和にかけて官休庵を継いだ。武者小路千家の組織を整え、財団・同門の会の基礎を築いて、近代の武者小路千家を立て直した家元。[確:十二代]

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由良成繁

ゆら なりしげ 紹鴎に学んだ武将
立場 上野金山城主  武野紹鴎

上野金山の城主。京都から来た走衆「武野因幡守仲村」すなわち武野紹鴎に茶を学んだという。紹鴎を金山城に留めて茶を習い、以来茶の湯を好んだ。東国の武将に紹鴎の茶が伝わった経路を示す。[伝]

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横河民輔

よこがわ たみすけ 集めた人
生没 1864-1945 事績 横河グループ・中国陶磁の蒐集

建築家で横河グループ(横河電機など)の創業者。中国陶磁器の蒐集に深く傾倒し、千点を超えるコレクションの多くを東京国立博物館へ寄贈した。体系性が高く学術的価値の大きい『横河コレクション』として知られる。[通]

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依田徹

よだとおる 茶の湯研究
生年 1977 専門 近代美術史・茶道史 主題 「美術」と茶の湯

日本の近代美術史と茶道史を研究する学者。東京藝術大学の大学院で美術の博士となった。明治以降に西洋から入った『美術』という考え方が、茶の湯や茶道具のとらえ方をどう変えたかを論じ、近代における美術と茶の湯の関わりを描いた。盆栽の歴史や、皇室と茶の湯についての著作もある。美術館の学芸の現場に立ちながら研究を進めてきた。著書に『近代の「美術」と茶の湯』『盆栽の誕生』『皇室と茶の湯』などがある。[確:経歴・業績]

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樂吉左衛門

らくきちざえもん 流派
茶碗師  樂家  長次郎

千家十職のうち、茶碗を受け持つ樂家の当主が代々名乗る名跡。初代長次郎に始まる楽焼の家で、千家の侘び茶のための手捏ね・低火度の茶碗を、代々つくり続けてきた。当主は『吉左衛門』を襲名し、隠居して入の字のつく号(道入・了入など)を名乗るのが習わし。十職のなかでも、茶の湯の中心の道具である茶碗を担う家である。[確:職分・樂家]

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利休七哲

りきゅう しちてつ 利休の高弟
典拠 江岑筆記 顔ぶれ 蒲生・三斎・織部ほか

利休の高弟とされる七人の武家茶人。『江岑筆記』では蒲生飛騨(氏郷)・細川三斎・瀬田掃部・芝山監物・高山右近・牧村兵部・古田織部を挙げる。武人本位の選で、町人の山上宗二や南坊宗啓が劣るわけではない。顔ぶれには諸説ある。[通/要確認:七人の構成は文献により異同]

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流派

りゅうは 流派
成り立ち 利休後、弟子や子孫が各地で展開  近代以降さらに分立

茶の湯の流儀の分かれ。利休の時代には流儀という枠はなく、利休没後、その子孫(三千家)や弟子(織部・遠州・石州ら)がそれぞれの地と家で茶を伝えるなかで、流派が形づくられていった。武家茶・公家茶・町人茶など担い手によっても性格を分け、近代以降さらに多くの流派に分立した。各流派の系譜・正統は、それぞれの家が公式に定めるものである。[通]

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了々斎

りょうりょうさい 表千家
表千家九代 生没 1775-1825  曠叔宗左

表千家九代、曠叔宗左。久田家から入って不審菴を継いだ。紀州徳川家の十代治宝の厚い庇護を受け、その茶の相手を務めた。藩主と親しく交わり、千家の茶を大名に伝えた家元。[確:九代/通:治宝の庇護]

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蓮々斎

れんれんさい 江戸千家
江戸千家七代・中興 事績 明治に池之端で再興

明治に池之端で江戸千家を再興し、中興と称される。近代の流儀の礎を築いた。(三〜六代は新宮藩茶頭・水戸徳川家茶道師範を歴任。)[確:七代・中興]

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碌々斎

ろくろくさい 表千家
表千家十一代 生没 1837-1910  瑞翁宗左

表千家十一代、瑞翁宗左。幕末から明治への転換期に不審菴を継いだ。維新後、社寺への献茶を始めるなど、新しい世にあって茶道の普及に力を尽くした。近代の表千家の出発点となった家元。[確:十一代/通:維新後の献茶・普及]

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六閑斎

ろっかんさい 裏千家
裏千家六代 生没 1694-1726  泰叟宗室

裏千家六代、泰叟宗室。わずか十一歳で今日庵を継ぎ、表千家の覚々斎に茶を学んだと伝わる。幼くして家を背負い、表裏の交わりのなかで作法を身につけた。短い生涯ながら今日庵をつないだ家元。[確:六代/通:十一歳継承・覚々斎に学ぶ]

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