茶の湯スフィア 索引人物 / 織田信長

織田信長

おだ のぶなが / 用いた人

茶の湯の価値を引き上げた武将。評価の定まった東山御物・珠光名物など最高級の唐物を集約し(生涯235点規模)、自らの権威に格付けの裏打ちを与えた。茶会を開く権利を家臣の生涯の名誉とし、茶器を一国一城に匹敵する象徴貨幣へと押し上げた。本能寺には38種の唐物を運び込み、その大半が炎に消えた。九十九茄子だけが焼け跡から拾われ、修復されて今に伝わる。[確:蒐集・本能寺/通]

生没年
天文三年(一五三四) ― 天正十年六月二日(一五八二) 本能寺にて自害
茶での位置
みずから点前を極めた茶人ではない。茶の湯を統治の装置として作り替えた人
茶頭
今井宗久・千利休(当時は宗易)・津田宗及 ── のちに「天下三宗匠」と称される
主な政策
名物狩り(『信長公記』に永禄十二年頃から)/名物茶道具の下賜/ゆるし茶湯
呼び名
これら一連の仕組みを、後年 豊臣秀吉が「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」と呼んだ
最後の茶会
天正十年六月一日、本能寺。公家と京の有力者を招き、名物を披露
翌日
本能寺の変。信長とともに、集めた名物の多くが焼失
深く知る ── はじめに

茶を点てた人ではなく、茶の価値を決める権利を握った人である。堺を押さえて鉄砲と茶器の流通を同時に手に入れ、足利将軍家の東山御物が持っていた価値の頂点を、名物狩りによって自分のもとへ移した。そして土地の代わりに茶道具を与え、茶会を開く許可そのものを恩賞にした。土地には限りがあるが、名物の価値には限りがない——この発明が、のちの秀吉の茶へ、そして利休の死へとつながっていく。

……

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つながる項目
茄子茶入 本能寺の変 東山御物 千利休 豊臣秀吉 今井宗久 曜変天目 漢作肩衝 勢高 松永久秀 津田宗及
出典

「はじまりの茶の湯学」織田信長 講義資料

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監修・武井宗道。通説と、史料から確かめられることを分けて記しています。