茶碗・茶入・釜・花入。手に取られ、名を与えられてきたもの。
全 189 項目
大和の郡山で焼かれた国焼。焼くと現れる赤みを帯びた肌から、この名がある。鉄分のある赤土に乳白色の釉がかかり、ところどころに赤い肌がのぞく。江戸期は郡山藩に保護されて育ち、鹿や春日山など奈良の風物を描く『奈良絵』の作が知られる。穏やかで温かみのある作風が、古都の趣を伝える。[通]
球体でひらく ──▸豊前の上野で焼かれた国焼。慶長のころ、細川三斎が朝鮮から伴った陶工・尊楷が、この地に窯を築いて始まった。三斎は利休に学んだ七人の高弟の一人で茶に深く、自ら窯を導いて茶陶を作らせた。高麗茶碗のおもむきを残しつつ、日本らしい洗練を加えた釉の景色をもつ。三斎好みの茶碗が、その姿と釉色で重んじられた。[通]
球体でひらく ──▸筑前芦屋(福岡県芦屋町)で南北朝〜室町に作られた釜。なだらかな真形(しんなり)の優美な姿と、肌に鋳出された松竹梅・楼閣山水などの繊細な地紋(鯰肌)で名高い。茶の湯釜の最高峰とされ、国指定重文の多くが芦屋釜。室町の唐物中心の茶に調和した、格高い古作。[確]
球体でひらく ──▸瀬戸金華山窯飛鳥川手の本歌。小堀遠州が遠州茶会に最も多く用いた茶入で、その登場回数は生涯六十回に及び、在中庵の五十五回を上回って遠州道具中の筆頭格をなす。遠州から酒井忠勝を経て、近代に数寄者湯木貞一の有となった。瀬戸金華山窯の代表的な手の本歌として、後世の写しの規範となった。[確]
球体でひらく ──▸堺の豪商油屋常言・常祐・常悦の三代が所蔵したことに由来する大名物肩衝。秀吉、福島正則、徳川家光、土井利勝、河村瑞賢、冬木喜平次を経て松平不昧の有となった。不昧は圜悟墨蹟とともに家宝の筆頭とし、参勤交代では専用の笈櫃に納め家臣二人に背負わせ運ばせた。柿金気色の下釉に黒飴釉がかかり、盆付際まで一筋のなだれが下る。重文。[確]
球体でひらく ──▸白い肌に、雨漏りのしみのような淡い斑文が点々と浮かぶ高麗茶碗。長年の使用で生地に染みた茶や水が景色となったもので、侘びの風情として珍重された。堅手や粉引に多く、欠点であるはずのしみを「景色」として愛でる、茶の湯独特の美意識を体現する。[通]
球体でひらく ──▸口が広く撫肩のおおらかな姿の釜。形が阿弥陀堂に似るとも、阿弥陀堂で用いられたとも伝わる。冬の炉によく据えられ、たっぷりとした湯がたぎる安定感がある。芦屋・京釜ともに作例があり、真形と並ぶ釜の代表的な形のひとつ。[通]
球体でひらく ──▸ベトナム、すなわち安南で焼かれたやきもの。南蛮貿易で日本へ渡った。染付・色絵・褐釉などがあるが、茶では主に染付の碗が用いられた。呉須の青は中国の染付より淡く、にじみがちで、文様も簡略。その素朴さがかえって侘びの心に通い、茶人に珍重された。釉のにじみが景色をなすものを蜻蛉手(とんぼで)などと呼ぶ。[通]
球体でひらく ──▸棗は紹鴎・利休の基本形から、歴代家元が好みを加えて広がった。少庵の夜桜、織部の芽張柳、原叟の老松、如心斎のつぼつぼ、仙叟の甲赤、認得斎の蔦蒔絵など。千家十職の塗師中村宗哲が代々これを作り、形と寸法を伝えた。家元の美意識が薄茶器に結晶する。[確]
球体でひらく ──▸伊賀焼の水指の最高峰。胴に大きな焼け割れ(破れ)が生じ、それを破れた袋に見立てて命銘された。古田織部好みと伝わり、窯の中で生じた破裂・歪み・ビードロの溶けを、欠点ではなく最大の景色として愛でる。桃山の破格の美意識を体現する一品。重文。[確]
球体でひらく ──▸伊賀(いまの三重の一部)で焼かれた国焼。信楽と地続きで、同じ陶土層を使う近い間柄のため、古い時代の作は信楽と見分けにくい。釉をかけず高い火度で焼き締め、薪の灰が溶けてできる緑のビードロ釉や、火に焼かれた焦げが景色をなす。桃山のころ、筒井定次や藤堂高虎のもとで、古田織部の好みを映した豪快な茶陶——水指や花入——が焼かれ、わざと歪ませ割れさせた破格の姿が珍重された。六古窯では信楽に含めて数える。水指の名品『破袋』が名高い。[確:産地・信楽との同系統/通:織部好みの茶陶]
球体でひらく ──▸古くから名物として知られた炭の産地。池田炭のほか、佐倉炭、松坂炭、伊予炭、横山炭などが古来より著名であった。山上宗二記の当代には、こうした古銘の炭が、秀吉や信長の茶湯者たちの手に渡り、名物として珍重されていた。現代では、クヌギを原木とした茶の湯炭の主な産地として岩手県一関市・藤沢町、栃木県市貝町・那須烏山市、愛媛県大洲市・内子町などが挙げられるが、古来の池田炭系統の伝統は、茶の湯の道具としての炭の価値を示す遺産である。[確:山上宗二記・日本特用林産振興会]
球体でひらく ──▸一輪の花が五弁を開きやがて実を結ぶように、達磨の伝えた禅が後に五家に分かれ栄えることを示す。達磨大師が二祖慧可に与えた伝法偈とされ、『少室六門集』所載。「一心から五智が開かれる」という解釈もある。達磨の真作かは文献学的に疑問視されるが、禅門で広く伝わる偈。[通/伝]
球体でひらく ──▸高麗茶碗を代表し、侘び茶の道具として高く評価された。枇杷色の釉、竹節高台、高台脇の梅花皮(かいらぎ)。朝鮮の器を茶人が見立てて茶碗とした。もとが日常雑器か祭器かは決着していない。茶会記に『井戸茶碗』と出るのは天正六年(1578)で、以後急速に主役となる。窯址は長く不明だったが、慶尚南道晋州周辺で青井戸を焼いた窯が確認されつつある。[通]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸古瀬戸の尻膨茶入。小堀遠州が、姿が編笠に似ることから「あふことはまばらにあめる伊よ簾いよいよ我をわびさするかな」の歌を引いて命銘した。鶉斑の釉が全体に及び、時代を経た土味が侘びを深める。これに添う伊予簾緞子の仕覆が名高い。昭和美術館蔵。[確]
球体でひらく ──▸鉄分の強い砂まじりの土を、轆轤で薄く挽いた高麗茶碗。土質ゆえに肌がざらつき、手に触れるといらいらと感じる。その触り心地がこの名のもとになったという。土灰の釉が薄くかかり、窯の火加減しだいで青みがかったり黄ばんだりと、微妙に色が変わる。黄色く上がったものは黄伊羅保、高台内を釘のようなもので削って渦をつけたものは釘彫伊羅保、片側に違う釉を掛け分けて一碗に二様の景色が出たものは片身替伊羅保と呼び分ける。[通]
球体でひらく ──▸瓢箪形の唐物茶入の名品。松本珠報が所持し、足利義政の東山御物に列したと伝わる。大内・大友家から豊臣秀吉、上杉景勝へと渡り、上杉の名を得た。徳川家光・前田家を経て野村美術館蔵。柿色釉に黒飴釉が渦を巻くようにかかる。[確]
球体でひらく ──▸雲鶴手ともいう高麗茶碗で、雲や鶴の文様を象嵌した青磁。朝鮮では高麗の時代から象嵌の青磁が盛んに焼かれ、雲鶴の茶碗もその系譜に連なるため、ほかの高麗茶碗よりも古く、高麗の末まで遡る品もある。もとは薬湯を飲む筒形の器だったらしく、花の丸文や雲・鶴・甲の文を象嵌する。高麗青磁の終わりごろにあたり、釉は濁りがちで象嵌も崩れ気味。だがその崩れが、かえって茶の湯に似合った。筒形が茶臼の挽木の鞘を思わせるとして『挽木の鞘』、大きな丸文を狂言師の袴に見立てて『狂言袴』と銘づけた茶碗がある。のちに倭館で写され、御本雲鶴とも呼ばれる。[通]
球体でひらく ──▸胴に雲と龍の地紋をめぐらせた小ぶりの釜。利休好みとして知られ、辻与次郎が鋳たと伝わる。小間の侘びた茶に映る、簡素で力強い姿。大・小があり、深い真形に対して胴の張った姿が特徴。京釜の名物として広く写された。[通]
球体でひらく ──▸越前(いまの福井)で焼かれたやきもの。六古窯の一つで、平安末から鎌倉のころに始まる。常滑の影響を受けたといわれ、鉄分の多い土で壺や甕、摺鉢などを焼いた。釉はかけず、高い火度で焼き締め、薪の灰がかかって深みのある自然釉の景色を生む。素朴で堅牢な日用の器が、北陸から各地へ運ばれた。[確:六古窯・産地]
球体でひらく ──▸宋の禅僧圜悟克勤が弟子に与えた印可状(法を授けた証)。日本に伝わった最古の墨蹟とされ、珠光が師一休からこれを授かり茶席に掛けたと伝わる「珠光墨蹟」。墨蹟を床の中心に据える茶の湯の精神性は、ここに始まる。流れ着いた箱から発見された伝説から「流れ圜悟」とも。国宝。[確]
球体でひらく ──▸水墨画の掛物。牧谿(もっけい)・玉澗(ぎょくかん)らの瀟湘八景や叭々鳥など、東山御物の唐絵が床を飾った。墨の濃淡と大きな余白が侘びの心に通じ、後には賛(讃)を伴う禅画・茶画も用いられた。削ぎ落とされた水墨の余白に、見る者が世界を補う。[通]
球体でひらく ──▸古瀬戸では遺例の少ない丸壺。小堀遠州が江月宗玩と相談し、逢坂山を詠んだ古歌「相坂の嵐の風は寒けれど…」から歌銘を付けた。命銘の場には連歌師里村紹巴の歌も引かれ、二人の和歌の応酬から名が生まれた。肩口に集まった黄釉が一筋流れて大きく湾曲する景色が珍しい。遠州・江月の交友が結晶した一品。重文。[確]
球体でひらく ──▸京都の仁和寺、すなわち御室の門前で焼かれたやきもの。寛永のころに始まるとされる。皇室ゆかりの格の高い寺だけに、その品格を映した洗練された作風で知られた。白い土に透明な釉や色の釉をかけ、華やかなものもあるが、茶陶には素朴な調子のものが好まれた。のちにこの地で野々村仁清が名を成す。[通]
球体でひらく ──▸古田織部の好みを反映した美濃の茶碗。大きく歪んだ沓形(くつがた)に、緑釉と鉄絵の幾何文様を大胆に配する。利休の静かな侘びに対し、織部は「ヘウケモノ(ひょうげもの)」と評された破格と意匠性を茶碗に持ち込んだ。桃山の自由闊達な美意識の極北。[通]
球体でひらく ──▸李朝のやや早い時期に作られた高麗茶碗。器の形や色が柿のへたを思わせるとも、あるいは高台の作りがそれに通じるからとも言われ、名がついた。砂のまじった黒褐色の土に、薄く青みの釉がかかり、ときに釉がないようにも見える。口縁は内へ抱えるが、腰に段があって立ちがゆるむので、見込みは広く、開いた姿になる。大津・滝川・龍田といった名碗がある。[通]
球体でひらく ──▸竹や蔓を編んだ籠の花入。真・行・草のうち最も格の低い「草」とされ、軽やかで涼やかな風情から主に夏(風炉)の薄茶や草庵に用いる。唐物籠を写した和物の名品も多く、自然の素材をそのまま生かす侘びの感性に適う。籠には薄板を敷かず、直に畳へ置くのが約束。[通]
球体でひらく ──▸肩の張った茶入の代表形。漢作の名品が東山御物以来珍重され、天下三肩衝(新田・初花・楢柴)が知られる。信長・秀吉の名物狩りの中心となり、政治の通貨ともなった。[通]
球体でひらく ──▸李朝前期の高麗茶碗。同じ高麗ものでも井戸や熊川とは違い、磁器のように焼き締まって、土も釉も堅く感じられる。その堅さが名のもとになったとされる。いくつもの窯で焼かれたらしく、井戸に似た開きかげんの形をとるほかは、共通する特徴を挙げにくい。ふつうは全体に釉をかけるが、名高い長崎堅手のように、裾のあたりで釉が切れるものもある。[通]
球体でひらく ──▸湯を沸かす茶席の心臓。筑前芦屋と下野天命が二大古作の産地。芦屋は真形の優美な姿と地紋の繊細さ、天命は素朴で力強い肌で知られる。桃山には京都で名工西村道仁・辻与次郎(利休の釜師)が出て、利休好みの釜を生んだ。松風と呼ばれる湯の音が一座の静けさを支える。[通]
球体でひらく ──▸唐銅(青銅)の花入。鶴首・象耳・遊環(動く環の耳)など中国渡来の銅花入は、青磁に次ぐ格をもち、真の座敷飾りに用いられた。経筒や礼器を転用したものもあり、古色を帯びた金属の景色が尊ばれる。砂張(さはり)の釣舟花入もこの系統。[通]
球体でひらく ──▸朝鮮半島に近い肥前で、高麗茶碗を写して焼かれた和物。熊川を写した奥高麗は、無雑作で素直な味わい。利休所持伝の『ねの子餅』が知られる。茶会記の記録は美濃より少ないが、伝世品は多く、侘び茶の道具として好まれた。[通]
球体でひらく ──▸中国で作られ、日本に渡来したやきものの総称。作られた時代を問わず、中国産であれば唐物と称する。書院の茶では、天目茶碗や青磁、唐物茶入が最高の格として尊ばれ、座敷飾りの主役であった。室町の茶会では茶碗のほとんどが中国産で占められたが、十六世紀後半から高麗茶碗や和物に主役を譲っていく。やきものの価値の頂点として、長く茶の湯の基準であり続けた。[確:唐物の語義/通:書院の茶での格]
球体でひらく ──▸中国渡来の水指。青磁・祥瑞(しょんずい)・古染付など、真の格をもち書院・台子の点前に据える。とりわけ祥瑞は遠州が明に注文したと伝わる清新な染付で、近世茶の湯で珍重された。唐物の格式を水指にも求めた、座敷飾りの正統。[通]
球体でひらく ──▸古田織部が焼かせた茶入の中から、織部自身が用いたものとして小堀遠州が見出し命銘した織部焼の茶入。下部が大きく張った姿を、地獄草子の餓鬼の膨れた腹に見立てた。遠州が前田利常に織部の思い出として語ったことから、利常が京中を探させて発見した逸話を持つ。濃い黒釉が幕状になだれる、織部焼らしい大胆な釉景。[確]
球体でひらく ──▸井戸茶碗の最高峰とされる大井戸。竹田喜左衛門の所持に由来する。本多家・中村家を経て松平不昧の有となり、のち大徳寺孤篷庵に伝わった。枇杷色の地に梅花皮(かいらぎ)が高台に縮れ、井戸の見どころをことごとく備える。所持者が次々と腫物を患ったという伝説をまとう。国宝。[確]
球体でひらく ──▸美濃で焼かれた、淡い黄釉をまとう茶碗。しっとりとした油揚手(あぶらげで)の肌に、胆礬(たんぱん)の緑や鉄の焦げが景色を添える。向付など食器に名品が多いが、温雅な黄の色味は侘びの茶席にもよく映る。瀬戸黒・志野とともに美濃桃山陶を代表する。[通]
球体でひらく ──▸趙州従諗(778〜897)が、来訪歴の有無にかかわらず誰にも「茶を飲んで行け」と言った公案。『五灯会元』巻四・趙州従諗章に見える。貴賤・新旧を分け隔てなく一様にもてなす精神を示す。なお「去」は「茶を飲みに行け」という命令とする説(入矢義高監修『禅語辞典』)と、強意の助辞で「まあ一服召し上がれ」とする説がある。[確]
球体でひらく ──▸南宋の禅僧虚堂智愚の墨蹟。虚堂の法系は大応国師を経て大徳寺・妙心寺へと続き、日本臨済禅の主流をなすため、その筆跡は墨蹟中でも特に尊ばれた。松平不昧が虚堂墨蹟を千五百両で求め家宝としたことでも名高い。一行物が茶席の主題を立てる。国宝・重文。[確]
球体でひらく ──▸龍泉窯の青磁のうち、宋代の粉青色がもっとも冴えたものを、日本ではこう呼んだ。名の起こりには言い伝えが二つある。耳付の花生のひびが砧を打つ音を思わせたので利休が名づけたとも、足利義政が持っていた花入の姿が布を打つ砧の道具に似ていたからとも言う。青磁の頂点とされ、鎹で繕った馬蝗絆が名碗として知られる。[伝:名の由来]
球体でひらく ──▸桃山以降、京都で興った釜。利休の釜師とされる辻与次郎(天下一)をはじめ、西村・名越・大西などの釜師が、茶人の注文に応じて好みの釜を鋳た。芦屋・天命の古作を写しつつ、雲龍・阿弥陀堂・繰口など多様な形を生み、近世茶の湯の釜の主流となった。大西家は今日まで続く。[通]
球体でひらく ──▸京都で焼かれたやきものの総称。各地から土を寄せて多彩な器を作るため、国焼とは別格に扱われることもある。華やかな色絵を得意とし、品のよい洗練された作風で知られる。江戸前期の野々村仁清が色絵を大成し、中期の尾形乾山が琳派の意匠を陶へ移し、後期の仁阿弥道八が名碗の写しに長けた。茶陶の世界で京の窯は独自の位置を占める。[確:京の諸窯/通:別格扱い]
球体でひらく ──▸釜山の倭館の窯へあつらえて焼かせた御本の茶碗の一つ。肌に『金』や『金海』の彫銘が入るものがあり、それが名の由来。土は磁器質で、青みのある透明な釉がかかり、高い温度で焼かれていて、堅手に近い性格をもつ。ふっくらした碗形で、口辺をつまんで桃や洲浜の形にしたものがある。高台は外へ強く張り、三・四か所を切り込んだ割高台が殊に喜ばれる。釉の上をささらで引っ掻く癖があり、これを金海の猫掻(ねこかき)と呼んで愛でる。[通]
球体でひらく ──▸後醍醐天皇が吉野の金輪寺で一字金輪の法を修した折、衆僧への茶のふるまいに、山中の蔦の木で作らせたと伝わる茶器。寺名を取って金輪寺と呼ぶ。経筒型で打きせ蓋を持つ。勅作ゆえ茶入盆や和巾に載せて格高く扱う。後世も蔦・松・桑で多く写された。[伝]
球体でひらく ──▸銀の椀に白雪を盛れば、別物でありながら一見見分けがつかない。平等と差別、悟りと日常が渾然一体となった微妙の境地を示す。『碧巌録』第十三則、巴陵顥鑑の語。白一色の清涼感から夏の茶席にも掛けられる。[確]
球体でひらく ──▸やきものの分類の一つ。もともとは茶入の窯分けに使う言葉で、尾張の瀬戸を本窯と定め、それ以外の土地で生まれた茶陶をひとくくりに国焼と呼んだ。京都の窯は各地から土を寄せて多様な器を作るため、別格として国焼に入れないことがある。名物の茶入を出した国焼の窯は限られ、その多くは小堀遠州の時代に集中する。遠州が見立てた薩摩・高取・膳所・備前・丹波・志戸呂などがそれにあたる。近年では瀬戸や京焼も含め、唐物・高麗ものに対する和物の陶器ぜんたいを国焼と呼ぶことも多い。ただし楽焼はこれに含めない。[確:窯分けの語義/通:遠州との関わり]
球体でひらく ──▸瀬戸・美濃以外の諸国の窯で焼かれた茶入の総称。唐津の思河、薩摩の亀の尾、伊賀の伊賀丸壺、高取の女郎花、膳所の大江など。遠州が好んだ遠州七窯(志戸呂・上野・高取・膳所ほか)の茶入は、綺麗さびの美意識を映す。和物の土味と釉景が、唐物とは違う親しみを伝える。[通]
球体でひらく ──▸信楽・備前・伊賀など和物の水指。利休が信楽の鬼桶(おにおけ)や種壺を水指に見立てて以来、焼締の荒々しい土味が侘び茶の中心に据えられた。伊賀の破格に歪んだ「破袋(やぶれぶくろ)」は古田織部好みの代表作。雑器を見立て、土そのものの景色を愛でる和様の極み。[確]
球体でひらく ──▸南から薫る初夏の爽やかな風。語の起源は唐の文宗皇帝の起句に、柳公権が「薫風自南来/殿閣生微涼」を続けた連句(『全唐詩』巻四「夏日聯句」)。禅語として重んじられるのは、圜悟克勤がこの句を唱え、それを聞いた大慧宗杲が悟りを開いたという因縁による。煩悩を払い去った清涼の境地を表す。[確]
球体でひらく ──▸中国江西省にある、屈指の規模を誇る窯場。古くから白磁や青磁を焼いてきたと伝わる。北宋の頃、景徳年間という元号を冠して呼ばれるようになり、青みのある白磁(影青)の名品を生んだ。元の時代に染付を手がけてからは、中国のやきもの作りの中心地として栄えた。祥瑞もここで生まれている。[確:景徳鎮史/通:元号由来]
球体でひらく ──▸本阿弥光悦作の赤楽茶碗。前田家(加賀)に伝来したことからこの名がある。光悦は長次郎・常慶に学びつつ、書・蒔絵にも通じた総合的な美意識で、大胆にへらを入れ豊かに歪ませた独自の楽を生んだ。利休の厳格な侘びに対し、光悦は造形の自由と力強さを楽にもたらした。重文。[確]
球体でひらく ──▸南中国からベトナム北部のあたりで焼かれた色絵のやきもの。南蛮貿易で日本へ渡り、その鮮やかな色と異国の文様で茶人に好まれた。素地に透明な釉をかけ、緑・黄・紫・藍などの色釉を上から厚く盛り上げて、蓮や牡丹、唐草の文様を表す。型物香合に名品が多い。華やかでありながら、香合や水指として茶席に映える。[通]
球体でひらく ──▸主に李朝で焼かれた茶碗の総称で、第二期を代表する。茶会記に初出は天文六年(1537)。前期は三島・刷毛目・粉引・井戸など雑器系の見立て、後期は釜山倭館での御本茶碗など注文生産へ移る。腰から開く形、端反りの形などが、第三期の和物茶碗に大きな影響を与えた。和物が高麗の写しから始まるのはこのため。[通]
球体でひらく ──▸朝鮮半島で作られ、日本の茶の湯で用いられたやきものの総称。『高麗』は高麗王朝の意味ではなく、朝鮮半島で作られたという意味で、唐物に対する語である。多くは十六世紀初めから十八世紀初めにかけてのもので、井戸・三島・刷毛目・粉引・熊川・御本などの種類がある。轆轤を使いながら歪みや厚みの不均一を残した素朴な姿が、侘びの美に叶うとされ、千利休らの数寄の確立とともに急速に茶席へ広がった。なお伝世品の多くは、対馬藩が釜山に営んだ倭館の窯など、日本向けに作られたものと考えられている。[確:高麗の語義・産地/通:侘びとの結びつき]
球体でひらく ──▸赤々と燃える炉に舞い落ちた一片の雪が瞬時に消えるさま。煩悩妄想が悟りの前に跡形なく消えること、また何の痕跡も残さない没蹤跡の境地を示す。『碧巌録』第六十九則の垂示「荊棘の林を透る衲僧家は、紅炉上一点雪の如し」に基づく。雪の降る冬に好まれる。[確]
球体でひらく ──▸伊勢国司北畠氏の所持に由来する茄子茶入の随一。松花堂昭乗が入手し、八幡蔵帳の筆頭に挙げた名器。容姿は豊麗で釉景も卓抜。白極緞子の仕覆と堆朱七賢人絵の盆が添う。藤田美術館蔵。茄子を茶入の最上位とする伝の理想形とされる。[確]
球体でひらく ──▸遠州七窯の一つ高取焼の鮟鱇形茶入。腰に縄簾状のよじり目が回るのを、漁師の腰蓑に見立てて小堀遠州が命銘した。箱の金粉銀粉書も遠州とされる。上面をすっぱり切り取ったような大きな口を持つ鮟鱇形は、肩衝の多い茶入の中では少数派。松平不昧の門人広瀬藩主松平直義から、近代の数寄者平瀬露香・村山龍平へと伝わった。[確]
球体でひらく ──▸李朝期の高麗茶碗の一種で、粉吹(こふき)とも呼ぶ。鉄分の多い黒っぽい土を白く見せるため、白い泥をぜんたいに化粧として掛けている。その白土の粒がやや粗いせいで、肌は粉をまぶしたように見える。そこからこの名がついた。慶尚南道の三島・刷毛目と同じ系統と考えられる。茶碗のほか徳利も多く伝わる。使ううちに茶が染みて雨漏りのような景色が生まれ、それも好まれる。[通]
球体でひらく ──▸古人の名筆を切って軸にした掛物。定家筆の小倉色紙や、貫之・行成の古筆切、藤原定家の和歌懐紙など。墨蹟の禅機に対し、王朝和歌の優美な情趣を床に迎える。紹鴎が定家様を、遠州が歌銘を尊んだように、和歌の心を茶に取り込む流れの中心。[通]
球体でひらく ──▸朝鮮の熊川(こもがい)の港から渡ってきたことに名の由来があるとされる高麗茶碗。素直でおおらかな姿をもち、ふっくら張った胴に口縁が端反りに開き、高台は大きめで裾がやや締まる。見込みの中心に『鏡』と呼ぶ小さな茶溜りができるのが約束で、これらを備えたものを真熊川(まこもがい)と呼ぶ。いかつい形で、釉のめくれた荒い土が見えるものは鬼熊川(おにこもがい)という。長石の釉が鉄気の土にかかって枇杷色を帯び、細かな貫入が走る。その姿は日本の唐津焼のもとになったとも言われる。[通]
球体でひらく ──▸もともとは禅の寺で使う塗椀(御器)を指す言葉。李朝で焼かれた茶碗のうち、撥(ばち)のような高い高台に深い見込みをもち、丈の高い端正な姿のものが、この塗椀をよく思わせる。京へ来た朝鮮の使節(判使)が宿とした大徳寺でこれを用いたことから、大徳寺呉器という名が起こり、似たものをまとめて呉器と呼ぶようになった。紅葉呉器・尼呉器・錐呉器など、わずかな違いで多くの名があるが、姿はほぼ共通している。薄手で、淡い灰の肌あいに、赤い斑の浮くものが多い。[通]
球体でひらく ──▸交易に使う船が御所丸と呼ばれ、その船で運ばれた茶碗、という理解からこの名がついた高麗茶碗。文禄・慶長の役のとき、島津義弘がこの船を介して秀吉へ献じたと伝わる。形と意匠は古田織部によるもので、金海の窯で焼かせたという。よく締まった磁器質の、灰白色の土をもち、玉縁の口に胴が締まって、いかつく張った腰へ鋭く箆を入れた姿は、織部の好みを示す。高台を五角・六角に切るのも織部風。釉が白いだけの白茶碗と、黒釉を片身替に塗った黒刷毛があり、後者は黒織部と同じ趣をもつ。[通]
球体でひらく ──▸御本とは御手本の意で、日本側が形の見本(切形)を渡して朝鮮で焼かせた茶碗の総称。多くは江戸初期から、釜山の倭館に付いた窯で作られた。織部や遠州が指定した形をもとに、対馬の玄悦・茂三といった陶工が現地へ渡って焼いたと伝わる。白く細かな土にやや黄ばんだ釉がかかり、土の加減で、赤みの斑が肌に点々と浮く。この斑を『御本が出た』という。立鶴・伊羅保・金海・彫三島などの多くがこの御本にあたる。[確:御本の語義/通:倭館窯の生産]
球体でひらく ──▸対馬藩が釜山の倭館窯で日本の注文に応じて焼かせた御本茶碗の一種。徳川家光が下絵を描いたと伝わる立鶴の文様を彫り、淡紅色の御本(斑紋)が現れる。日本側が形・絵を指定した、和様化の極にある高麗茶碗。十七世紀、国交回復後の倭館窯の代表作。[通]
球体でひらく ──▸薩摩(いまの鹿児島)で焼かれた国焼。朝鮮の陶工の流れをくむ窯で、茶入や茶碗を産した。遠州が見立てて名物の茶入を生んだ国焼の一つに数えられる。白い肌のものと黒い肌のものがある。[通]
球体でひらく ──▸銅と錫を合わせた金属で作った器。中国では古く、鐘や花入などがこれで作られ、澄んだ音色と色つやで尊ばれた。室町期に日本へ渡り、茶では花入や建水に用いられた。新しいうちは青銅の色だが、時を経ると黒褐色の古色を帯びる。やきものではないが、南方・舶来の渡来物として、侘びの取り合わせに重んじられた。稀に天目形の茶碗もある。[通]
球体でひらく ──▸砂張(さはり=銅・錫・鉛の合金)で舟をかたどり、鎖で天井から吊る花入。航(わた)る舟に見立て、たいてい掛物を外した後座に床へ吊って用いる。金属の澄んだ響きと舟の風情が、格の高い真〜行の花入として珍重された。中興名物の砂張舟が知られる。[通]
球体でひらく ──▸小堀遠州が仙台へ赴く茶人清水道閑に「わが魂」として贈った瀬戸真中古茶入。餞別の短冊に「ととめさるわかれよ君がそのうちに わがたましひをいれてこそやれ」と詠み、銘に猿若を込めた。道閑はこれにより猿若道閑と呼ばれた。茶入が精神性を宿す存在となった逸話の象徴。[確]
球体でひらく ──▸堺の数寄者道休の住寺の名による古瀬戸肩衝。小堀遠州が格別に愛玩し、同家蔵帳の筆頭に置き、専用の在中庵棚まで考案した。撫肩衝の穏やかな姿で和風化が進み、遠州好み茶入の根源とされる。丹波生野・高取手枕などがこれに発する。藤田美術館蔵。[確]
球体でひらく ──▸信楽の焼締の水指。利休が信楽の鬼桶(おにおけ)や種壺といった農具・雑器を水指に見立てて茶席に据えた。荒い土に長石の粒が吹き出し、焦げと自然釉(ビードロ)が景色をなす。見立ての思想と土そのものの美を象徴する、侘び茶の水指の代表。[確]
球体でひらく ──▸明代以降の龍泉窯の青磁で、澄んだ青緑に強い艶があり、細かなひび(貫入)を伴う。型に押して作る彫りの装飾が目立ち、香合の型物の多くはこの手にあたる。七官という名は、明の役職の名とも、これを日本へもたらした人の名とも言われ、はっきりしない。[伝:名の由来]
球体でひらく ──▸遠江(いまの静岡)の志戸呂で焼かれた国焼。鉄分の多い堅い土に、飴色や黒の釉がかかる。小堀遠州の見立てを受け、茶入の名物を生んだ国焼。遠州七窯の一つに挙げられる。[通]
球体でひらく ──▸美濃志野の名碗。日本で焼かれた茶碗で国宝はこれと楽の二碗のみという、和物茶碗の頂点。長石釉の白い肌に鉄絵で垣根を描き、火色とゆず肌、大胆に歪んだ沓形の姿に桃山の自由が漲る。銘は『古今和歌集』の卯の花の歌にちなむ。[確]
球体でひらく ──▸琉球、いまの沖縄で焼かれたやきもの。琉球は中国・日本・東南アジアを行き来する中継貿易の地で、各地の器が集まり、独自の焼物も育った。壺屋焼が代表で、飴釉や鉄釉、灰釉のかかった、柔らかな土の温かみある器が多い。江戸期に薩摩藩を通じて本土へもたらされ、その南国らしいおおらかさが茶人に好まれた。[通]
球体でひらく ──▸松の緑は千年変わらない、不変の真実・長寿のめでたさを示し、正月・初釜の定番。注意すべきは本来の形が「松柏千年青」であり、南宋・石田法薫の示衆に由来する点。原偈は「松柏千年青、不入時人意/牡丹一日紅、満城の公子酔う」(『続伝灯録』巻三十五)。原義は「人は一日で散る牡丹に心を奪われ、千年青い松柏には目を留めない」という本末・無常の教えだが、茶席で広まる過程で「松樹千年翠」と語形が変わり祝意の句へ転用された。[通/語形変化]
球体でひらく ──▸明の末、景徳鎮で焼かれた染付の茶器で、染付の茶陶では最も格が高いとされる。一部の器の底に『五良大甫 呉祥瑞造』と記した銘があることから、この名で呼ばれる。銘の意味は今も定まらず、日本の茶人があつらえて景徳鎮の民窯に焼かせたものだとだけ分かっている。白く精緻な肌に、高台へ砂のような斑(ごま土)が見られるのが特徴。蜜柑や砂金袋をかたどった水指などが名高い。[確:祥瑞の特徴/伝:銘の意味]
球体でひらく ──▸明末の景徳鎮で焼かれた染付の水指。小堀遠州が明に注文したとも伝わり、幾何文様と花鳥を密に描く清新な意匠が、遠州の綺麗さびに好まれた。唐物の格をもちながら、侘びの枯淡とは異なる明るく端正な美をもたらした。蜜柑形・founder形など多彩。[通]
球体でひらく ──▸茶の湯で釜の湯を沸かすために用いられる。特に名物としての炭が吟味される対象になったのは、山上宗二記が記された時代である。宗二記には優れた炭の記述が多く、秀吉や信長の茶湯者たちの手に渡った銘炭が列挙されている。炭の扱いはやがて儀式化され、点前として確立されるに至った。古い資料では亭主が炭をいじるところを客が見ることはなく、その後の時代には見せる作法へ移行したと記されている。[確:山上宗二記・古伝書・烏鼠集]
球体でひらく ──▸やきものを青く見せる釉の系統で、唐物のやきものの代表格。青くなる理由は、釉に紛れ込んだ鉄分が、酸素を絞った窯の中で変質し、緑がかった青に転じるところにある。この技は古代中国に始まり、越州窯では唐から五代の頃に、澄んだ翠色の青磁が洗練された。その最上のものは『秘色(ひそく)』と称され、限られた人にしか渡らない特別な青磁とされた。やがて宋の龍泉窯などで頂点を迎え、船で各地へ運ばれて、朝鮮の高麗青磁やベトナムの安南青磁もこの流れを汲む。日本の茶人は龍泉窯のものを見分けて、最上の粉青を砧、くすんだ黄緑を天龍寺、明代の貫入あるものを七官と名づけ、ほかにも人形手・雲鶴手などと呼んだ。[確:青磁の製法・分類]
球体でひらく ──▸南宋龍泉窯の青磁花入。鳳凰耳・三日月など名品が伝わり、真行草の「真」の花入として最も格が高い。砧形(寸胴に耳付)の端正な姿と、雨過天青の釉色が尊ばれた。書院の真の座敷飾りに据えられ、唐物茶入と並ぶ唐物の極。鳳凰耳花入「萬声」は重文。[確]
球体でひらく ──▸唐物の茶碗を代表する、青緑の磁器。灰の釉が窯の中で変化して青く発色する。宋の龍泉窯などで優品が焼かれ、日本へ渡った。茶人はこれを砧・天龍寺・七官などの手に見分けた。鎹で繕った馬蝗絆が名碗として伝わる。釉の色が茶の緑に近いため、天目ほど広くは用いられなかったが、書院の茶で重んじられた。同安窯系の黄味を帯びたものは珠光青磁と呼ばれ、侘びの器とされた。[確:青磁茶碗・馬蝗絆]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸南宋龍泉窯の青磁花入で、左右に鳳凰をかたどった耳を付す。砧青磁の最高峰で、雨過天青の澄んだ釉色をたたえる。国宝「萬声(ばんせい)」、重文「千声(せんせい)」などが伝わり、真の座敷飾りの中心をなした。唐物花入の格の頂点。国宝。[確]
球体でひらく ──▸本能寺の火を浴び、釉が灰黒色に変じた肩衝茶入。大破を漆で繕い、傷さえも由緒として伝わる。信長が本能寺に運び込んだ名物の一つで、物が歴史を負うことの証。[通]
球体でひらく ──▸備前伊部焼の丸壺茶入。能の秘曲『関寺小町』の老いさらばえた小町の姿を、この茶入の侘びた風情に重ねて命銘されたと伝わる。半身が榎のように褐色に窯変し、もう半分に自然の胡麻釉がかかる。松平不昧の『古今名物類聚』に収める備前茶入は、利休所持の布袋とこの関寺の二つのみ。平戸藩主松浦詮(鎮信流)の家宝を経て畠山即翁の有となった。[確]
球体でひらく ──▸美濃で焼かれた漆黒の茶碗。窯から焼成中に引き出して急冷することで深い黒を得る「引出黒」の技法による。天正年間に流行したため天正黒とも。半筒の簡素な姿と、底光りする黒は、利休好みの侘びに通じる。瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部は美濃桃山陶の四様式。[通]
球体でひらく ──▸瀬戸・美濃の窯は、天目の写しから半筒形の茶碗まで、和物茶碗の展開の中心を担った。志野は白い長石釉とほんのり赤い素地、銹絵文様で桃山和物の第一とされる。織部は歪みと緑釉の破調。高麗茶碗の影響を受けつつ、一碗ごとに個性を込めた新しい時代の器。[通]
球体でひらく ──▸近江(いまの滋賀)の膳所で焼かれた国焼。膳所藩のもとで小堀遠州の指導を受け、黒みを帯びた瀟洒な茶入を産した。遠州好みの代表的な国焼で、名物の茶入を生んだ。遠州七窯の一つに数えられる。[通]
球体でひらく ──▸茶席の床に掛けられる禅の言葉。多くは『碧巌録』『虚堂録』など宋代の禅籍や、唐宋の漢詩に典拠を持つ。本来は修行の場で発せられた言葉が、墨蹟という形で茶席に取り入れられた。季節への結びつきは、語そのものが季節を説くのではなく、後世の茶人の見立てによる。[確/通]
球体でひらく ──▸珠光門下で武野紹鴎に茶を教えたとされる京の茶人十四屋宗伍の所持に由来する茄子茶入。山上宗二は宗伍を「目が利かない」と酷評し宗二記に収めなかったが、後に評価が上がり大名物となった。織田有楽の孫三五郎を経て柳営御物となり、徳川綱吉が御成の際に土屋政直へ下賜した。ふくらみの大きい茄子形で飴釉が強い光沢を放つ。現存最古の茶人肖像「十四屋宗伍像」を伝える。[確]
球体でひらく ──▸尾張の瀬戸にある、茶入によく合う良質の土を産した土地の名。ここで採れる粘りのある土は祖母懐の土と呼ばれ、名物茶入の素地に用いられて尊ばれた。窯の名というより、名土の産地として知られる。[通]
球体でひらく ──▸瀬戸真中古窯面取手の中興名物。みごとに色分けされた流れ釉の景にちなみ、小堀遠州が染色と命銘した。真中古特有のガラス質を帯びた艶高い釉に、黄・褐・赭・黒が幅広く流れ下る垂れは比類を見ない。松平不昧の有となった。根津美術館蔵。[確]
球体でひらく ──▸白い磁器の肌に、呉須という青の顔料で絵や文様を描き、その上に釉をかけて高い火度で焼いたもの。中国では青花と呼ぶ。宋に芽生え、元を経て明の初めに完成した。時代ごとに青の調子が移り変わり、明末の素朴な雑器は古染付として茶人に親しまれた。李朝のものは、青がうんと淡く柔らかな味わいになる。日本では有田の李参平が始めたと伝わり、香合・水指・茶器・茶碗など幅広く使われる。[確:染付の歴史]
球体でひらく ──▸第三期、侘び茶の視野が広がり、染付や色絵が茶碗に取り込まれた。景徳鎮へ注文した古染付・祥瑞、ベトナムからの安南染付、そして京焼の仁清・乾山が華やかな色絵を完成させた。使う側が海外へ注文する積極性が、国内の窯業にも活気を与えた。掛け算の多彩。[通]
球体でひらく ──▸口が広く平たい、海のように開いた形の唐物茶入。古瀬戸にも写しが多く、敷島・大鳥・節季大海などの名物がある。広い口に張られた仕覆と、ゆったりした姿が独特の景をなす。肩衝・茄子とは異なる、おおらかな美意識を伝える。[通]
球体でひらく ──▸筑前(いまの福岡)で焼かれた国焼。朝鮮系の窯に始まり、小堀遠州の指導を受けて洗練された釉の景色を持つ茶陶を産した。遠州が好んだ国焼の代表で、名物茶入を多く出した。遠州七窯の一つに挙げられる。[通]
球体でひらく ──▸竹を一節または二節に輪切りにし、窓をあけた花入。利休作の一重切『園城寺』が名高い。どこにでもある竹を、切り方と見立ての眼で名品に変える。素材でなく眼に価値を移す、侘びの思想の結晶。[通]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸千利休が小田原攻めの陣中、伊豆韮山の竹で自ら削った一重切花入。正面の大きな割れ(ひび)を、ひびの入った園城寺(三井寺)の鐘になぞらえて宗旦が命銘したと伝わる。利休が子の少庵に与え千家に伝来。竹を花入に用いる侘びの極致を示す、茶の湯史上最も名高い竹花入。重文。[確]
球体でひらく ──▸竹を尺八のように寸切りにした最も簡素な竹花入。利休が侘びの花入として定型を作り、節の位置で「上・中・下」、切り方で「一重切・二重切」を分けた。掛けても置いても用いる。安価な竹を真の花入に対峙させた、利休の見立ての思想が結晶した形。[通]
球体でひらく ──▸利休が小田原の陣中で削った竹花入の一。園城寺と同じ伊豆韮山の竹から作られ、二重切の上下に花を生ける。秋の夜長の銘がしめすように、簡素な竹に深い詩情を宿す。園城寺・尺八とともに、利休の竹花入を代表する。[伝]
球体でひらく ──▸釉がほのかに黄ばんで、卵の殻のような肌あいをもつ高麗茶碗。柔らか手と呼ばれるものもこの一種で、堅手と対をなす——堅手のほうが酸化で焼き上がって生まれた、と言われる。ただし全体の形や、見込みの鏡、高台の竹節などを見ると、熊川に近いと考える方がよさそうだ。薄柿・玉鏡などが代表に挙げられる。[通]
球体でひらく ──▸丹波(いまの兵庫の一部)で焼かれた国焼。素朴な焼締めに、薪の灰がかかってできる自然釉の景色を持つ。茶入・水指などに用いられ、遠州が見立てた茶入の名物を生んだ国焼の一つ。[通]
球体でひらく ──▸濃茶の抹茶を入れる小壺。茶碗と並ぶ主役の道具で、唐物の名品が東山御物以来珍重された。肩衝・茄子・文琳など形で分類される。名物には一国一城に値する価値が与えられ、信長・秀吉の蒐集の中心となった。仕覆という裂の袋に納め、銘と伝来を負う。[通]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸抹茶をすくう匙。紹鴎・利休が竹を自ら削って用いて以来、茶人が自ら作り、銘と筒を添える、最も人格的な道具となった。一本の竹に作り手の心が宿り、銘によって物語をまとう。素材の値段でなく、削り見立てる眼に価値があるという思想を体す。[通]
球体でひらく ──▸武野紹鴎の作と伝わる茶杓。節を切止に近い五分の一のところに置く紹鴎独特の形で、煤竹色の染め分けのある竹を端正に削る。櫂先の撓めは強く、露は薄い。宗旦が「一閑斎作」と極めた。侘び茶を深めた紹鴎の美意識が竹に表れる。中興名物。[伝]
球体でひらく ──▸細川三斎の共筒茶杓。利休茶杓をよく学び、それに自己の個性を加えた型。「かりかね」は露に特徴があり、本樋蟻腰の節下に煤竹色の景色を見る品位高い作。利休の茶を最も忠実に継いだ三斎の、端正な美意識が表れる。[確]
球体でひらく ──▸足利義政の作と伝わる、笹の葉を思わせる形の茶杓。節から大きく湾曲した特異な姿で、中国の象牙茶匙の形を竹に移したものといわれる。茶杓の最も古い姿の一つ。筒は後世の補作で銀蒔絵の銘がある。[伝]
球体でひらく ──▸古田織部の共筒茶杓。本樋の樋深く、蟻腰の太く長めの作行きは豪放にして武人の面目躍如とする。筒の「宗句参 古織部」の書入れは筆太で力強い。贈先の前田宗句は織部の茶友。利休とは対照的に、歪みや誇張を恐れぬ織部の美意識が竹に表れる。[確]
球体でひらく ──▸村田珠光の作と伝わる茶杓。瓢形の姿は今日の茶杓とは異なるが、珠光時代の青磁や建盞の茶碗によく調和する形。唐物の象牙茶匙を竹に写したもので、煤竹に漆拭きを施す。宗旦が「珠光茶瓢」と極めた。侘び茶の祖の手になる一本。[伝]
球体でひらく ──▸抹茶をすくう匙。鎌倉期に抹茶とともに中国から象牙の茶匙が渡来したのが源。足利時代は唐物が尊ばれたが、侘び茶の深まりとともに珠光・紹鴎が竹の茶杓を用い、利休が竹茶杓を芸術の域に高めた。やがて茶人が自ら削り、銘と筒を添えて精神を託す、最も人格的な道具となった。[通]
球体でひらく ──▸小堀遠州の共筒茶杓。本樋白錆の節下に染み景色があり、直腰の尋常な削り。筒は草削りでわずかに皮目を残し、蓋に歌銘「水の江の吉野の宮はかみさびて…」を書く。和歌で道具に文学性を与えた遠州らしい、綺麗さびの一本。[確]
球体でひらく ──▸千利休の共筒茶杓。逆樋で腰蓑(節下がそげた竹)のおっとりとした侘びた作行きで、腰は高く撓めはゆるい。筒の上下両方に口をつけ、両方に易の印を押した「変わり筒」として名高い。筒の割れを桜皮で補修した姿がいっそう侘びる。不審庵伝来。[確]
球体でひらく ──▸抹茶を点てる竹の道具。一本の竹を細かく割って穂を作る。大和高山(奈良)が室町以来の名産地で、今も茶筅作りを伝える。流派により穂の数や形、竹の種類(白竹・煤竹・紫竹)が異なる。消耗品でありながら、一服の茶の良し悪しを左右する。[通]
球体でひらく ──▸茶を喫するための器であり、茶入とともに用と美を語られてきた主役の道具。その歴史は茶の湯の美意識の変化に即して三期に分けられる。第一期は唐物(青磁・天目)が主流の書院の茶、第二期は高麗・和物が加わる侘び茶、第三期は江戸の多彩な作陶。茶碗を辿ると、足し算から引き算、そして掛け算への流れがそのまま見える。[通]
球体でひらく ──▸長次郎作の黒楽茶碗、利休が選んだ長次郎七種の筆頭。総体に厚く沈んだ黒釉をまとい、半筒の端正な姿に張りつめた緊張がある。利休が求めた「無一物」の侘びを、最も純粋に体現する一碗。手取り・口づくりに至るまで利休の美意識が貫かれた、楽茶碗の原点。[確]
球体でひらく ──▸利休が長次郎の作から選んだとされる七つの茶碗。大黒・東陽坊・鉢開・木守・檢校・臨済・早船など。利休の侘びの美意識が結晶した楽茶碗の規範で、形を削ぎ落とした素直な姿に一碗の濃茶が映える。利休と長次郎の協働が生んだ、和物茶碗の原点。[通]
球体でひらく ──▸天下四茄子の筆頭。九十九髪茄子とも。足利義満から珠光が所持し、三好宗三・松永久秀を経て織田信長へ献上された。本能寺の変で焼損するが、藤重藤元が陶片をつなぎ漆で復元したと伝わる。徳川家康・岩崎家を経て静嘉堂文庫美術館蔵。名物が戦火をくぐり継がれた象徴。[確]
球体でひらく ──▸藤原定家が小倉山荘の障子に貼るため、一人一首の和歌を書いた色紙。百人一首かるたの原型。武野紹鴎が天文期の茶会に小倉色紙を掛けて以来、墨蹟と並んで茶席の掛物に用いられた。禅機の墨蹟に対し、王朝和歌の優美を床に迎える和様の掛物の筆頭。[確]
球体でひらく ──▸下野天命(栃木県佐野)で作られた釜。芦屋の優美に対し、ごつごつとした荒肌・素朴で力強い作行きが侘び茶に好まれた。紹鴎・利休が天命の荒れた風情を重んじ、姥口・尻張など侘びた形が珍重された。芦屋の「綺麗」に対する「侘び」を体現する釜。[通]
球体でひらく ──▸黒い鉄釉をかけた、高台の小さな唐物の茶碗。『天目』は日本側の呼び名で、中国にこの語はない。鎌倉期に禅僧が浙江省の天目山の禅院から茶碗と喫茶の作法を持ち帰ったことに名の由来を求める説が知られる。名碗の多くは福建省の建窯の産で、堅い素地に、口がやや窄まり、低く小さな高台を持つ。釉は鉄分で黒や褐色、鼈甲色などに変化し、窯の中で多彩な景を生む。『君台観左右帳記』はこれを曜変・油滴・建盞などの格に分けた。口が開いて高台が締まる姿ゆえ、天目台に乗せて扱う。[通:名の由来/確:建窯]
球体でひらく ──▸天目茶碗を受ける台で、茶碗とともに中国から渡った唐物。堆朱・堆黒・存星・青貝などの漆塗りが用いられ、日本でも数多く写された。もとは仏前に茶を供える折に天目と組み合わせ、改まった敬いの心を表すものだった。のちには貴人に茶を差し上げる席でも、木地の貴人台と呼ぶ台が使われた。茶碗を受ける酸漿、その縁の羽、土居と呼ぶ脚からなる。[確:唐物・用途/通:起源]
球体でひらく ──▸龍泉窯の青磁でも、南宋から元にかけての、黄緑がかって落ち着いた色みのものを日本でこう呼んだ。砧手ほど原料に恵まれず、色の冴えは譲る。名の由来は、天龍寺の貿易船で運ばれたからとも、この寺ゆかりの香炉が世に聞こえていたからとも伝わる。[伝:名の由来]
球体でひらく ──▸尾張の知多半島で焼かれたやきもの。六古窯のなかでも古く規模が大きい。平安末から鎌倉にかけて、鉄分の多い赤みの土で大きな壺や甕を焼き、船で各地へ運んだ。高い火度で焼き締まり、薪の灰がかかって、緑がかった自然釉の景色を生む。茶の湯では、その素朴で力強い壺や、後の急須が知られる。[確:六古窯・産地]
球体でひらく ──▸轆轤目の立つ薄手の高麗茶碗で、枇杷色から青緑へと窯変する釉調に景色がある。堺の魚屋(ととや)が所持した、あるいは見出したことに由来する名と伝わる。井戸より小ぶりで温雅な姿が侘び茶に好まれ、利休も愛用した。本手・平斗々屋などに分かれる。[通]
球体でひらく ──▸奈良で焼かれた土製の風炉。利休が善五郎(土風炉師)に作らせた黒・白の土風炉は侘びに適い、真の格をもつ。鉄風炉・唐銅風炉が武家の格式に用いられるのに対し、土風炉は静かな風情で小間の茶によく合う。眉風炉・道安風炉など形に応じた名がある。[通]
球体でひらく ──▸円筒形の薄茶器で、胴の中央に蓋の合わせ目があることからの名。直径と高さがほぼ等しいのが基準。肩衝茶入の挽家から発展した。面中次・雪吹・茶桶・寸切など、合口や蓋の位置で種類が分かれる。棗とともに薄茶器の二大系統をなす。[通]
球体でひらく ──▸茄子の形をした小ぶりの茶入。九十九茄子(つくもなす)はもと中国の日用雑器が、足利義満から信長・秀吉へと渡り、一国一城に値する象徴貨幣に化けた。本能寺の焼け跡から拾われ、修復されて静嘉堂に伝わる。物が歴史を負うことの極致。[通/確:伝来]
球体でひらく ──▸薄茶を入れる塗物の器。黒梅擬の実(棗)に似た形からの名。武野紹鴎が初めて好み用いたと伝わり、利休形の大・中・小が基本となった。蓋の甲の盛り上がりや裾の張りで紹鴎棗・利休棗・尻張棗などに分かれる。濃茶の茶入の挽家から独立し、蒔絵を施した優美なものも生まれた。侘びの黒棗に利休の作意が表れる。[通]
球体でひらく ──▸利休が削った茶杓の一つとされ、織部が窓をあけた筒に納めて拝んだと伝わる。一片の竹に、作り手の生と死の物語が宿る。茶杓が最も人格的な道具であることの象徴。[通]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸天下三肩衝の一つ。飴色の釉が一段と濃く茶入全体を包む美しさを、利休が天下一と評したと山上宗二記は伝える。博多の豪商島井宗室が所持し、のち秋月種実から豊臣秀吉に献上された。三肩衝を秀吉がすべて手中にしたことは天下統一の象徴とされた。[通]
球体でひらく ──▸広くは呂宋・安南・交趾など南方のやきものをまとめて南蛮と呼ぶが、狭くは産地の定めにくい南方の器を指す。多くは釉をかけない焼締めか、褐色の釉のかかった素朴なもので、タイやベトナムあたりの産と見られる。茶人はこの『南蛮の姿』に、唐物とも高麗ものとも違う美を見いだし、建水や水指、茶碗に取り合わせた。砂張とともに、侘びの道具に欠かせない一系をなす。[通]
球体でひらく ──▸唐物でも高麗ものでもない、南方から渡ってきたやきものの一群。室町から江戸の初めにかけて、南蛮貿易の船で日本へもたらされた。東南アジアや南中国、琉球などで焼かれ、素朴な土味と、無釉や褐色の釉の野趣をもつ。茶人は唐物の端正さとも高麗ものの侘びとも違う、この異国の姿を新たな美として愛で、交趾・安南・呂宋・南蛮・島物などと呼び分けた。金属の砂張もこの渡来の器に連なる。[通]
球体でひらく ──▸毎日が、晴れも雨も含めてかけがえのない好い日である、という境地。雲門文偃(864〜949)の語で、『碧巌録』第六則の本則に収められる。元は『雲門広録』巻中を出典とするが、一般には碧巌録第六則の公案として知られる。通年で使え、新年や節目にも好まれる。[確]
球体でひらく ──▸山上宗二が初花・楢柴とともに天下三の肩衝と評した名器。新田義貞の所持に由来すると伝わる。村上義清・大友家を経て織田信長・豊臣秀吉・徳川将軍家に渡り、徳川宗家の重宝となった。武家の権威を象徴する茶入として、戦国の名物移動の中心にあった。[通]
球体でひらく ──▸茶室の炉や風炉で、炭の火加減を調整し、また釜の湯の温度を保つために用いられる。古い文献にも灰についての記載は多く、茶会を支える重要な要素として扱われてきた。茶家の言い伝えに「火事のときは灰を持ち出すべし」というものがあり、道具の中で灰を最上とする価値観を示している。目立たぬ存在でありながら、茶の湯の時間を根底から支える働きを担う。この格言から読み取れるのは、茶の湯における無為・削ぎ落としの美学と、見えない層の大切さである。[確:古伝書・茶家伝承]
球体でひらく ──▸灰釉の上に黒釉を重ねた、くすんだ釉調の天目。『君台観左右帳記』では最下級とされ顧みられなかったが、珠光以降の侘び茶が、その雅味のある雑器めいた趣に着目した。曜変のような華やぎではなく、地味で枯れた景を選ぶ——唐物から高麗・和物への美意識の転換の第一歩を示す。村田珠光所持と伝える永青文庫の碗が名高い。[通]
球体でひらく ──▸長門の萩で焼かれた国焼。慶長のころ、毛利輝元が朝鮮から伴った李勺光・李敬の兄弟が、萩の松本に窯を起こしたのが始まりとされる。のちに萩藩のお抱え窯として育った。柔らかな土に、藁灰や木灰の透明な釉がかかり、低めの火度でとろりと溶ける。使い込むうちに茶が貫入へ染みて景色が移り変わるのを「萩の七化け」と呼んで愛でる。茶碗の格を言う「一楽二萩三唐津」に挙げられ、楽に次ぐ名器とされた。[通]
球体でひらく ──▸白雲が静かに苔むした石を抱くように立ちのぼる、人里離れた閑寂の境地。『寒山詩』冒頭に見え、もとは謝霊運の詩「過始寧墅」の一句に由来する。露地草庵の侘びの境涯に通じる。[確]
球体でひらく ──▸濃い色の土の窯場で、肌を白く見せようと白い泥をはけで塗りつけ、そのはけのあとが景色として残った高麗茶碗。李朝初期の鶏龍山(けいりゅうざん)や務安(むあん)などで焼かれた雑器が多い。黒っぽい土に白く走るはけのあとの無造作な趣を、当時の茶人が喜んで名づけた。白い泥が乏しく、それを節約するためにこの化粧をしたのが始まりとも言われる。あとの様子で古刷毛目・筋刷毛目などに分けられる。[通]
球体でひらく ──▸名物茶入の筆頭に挙げられる天下の名器。世に先駆ける花の意で、足利義政が命銘したと伝わる。東山御物として高名で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三人の天下人の手を経て徳川宗家に伝わった。肩衝の理想形とされ、甑の捻り返し、肩の働き、胸の張りいずれも完璧。柿色地に黒褐釉が三条のなだれを作る。徳川記念財団蔵、重文。[確]
球体でひらく ──▸茶花を生ける器。格に真行草があり、唐銅や青磁が真、竹や籠や瓢が草とされる。利休が竹を一節輪切りにし窓をあけた竹花入『園城寺』を作って以来、ありふれた竹が見立ての眼によって名品となった。床の花を支え、季節と一会を映す。[通]
球体でひらく ──▸瀬戸金華山窯広沢手の本歌。小堀遠州が「広沢の池の面に身をなし見る人もなき秋の夜の月」の古歌を引いて命銘した。裾広がりの肩衝で、柿渋釉の上に黒釉が漂い流れ、中ほどに池のような景を作る。これを嵯峨の広沢池に見立てた。北村美術館蔵。[確]
球体でひらく ──▸備前(いまの岡山)で焼かれた国焼。釉をかけず、高い火度で長く焼き締める。土と炎がそのまま生む窯変の景色——緋襷(ひだすき)や胡麻などが見所で、水指や花入に好まれた。茶入の名物も生まれた国焼の一つ。[通]
球体でひらく ──▸袱紗は点前で道具を清め扱う絹の布。仕覆は茶入や茶碗を包む袋で、金襴・緞子・間道などの名物裂が用いられ、それ自体が鑑賞の対象となる。名物茶入には由緒ある裂の仕覆が幾つも添い、その取り合わせが茶入の格を物語る。布が道具を護り、装う。[通]
球体でひらく ──▸熟して皮の堅くなった瓢をくりぬいた花入・炭斗。利休の黒い瓢花入は論語の高弟の名『顔回』を負う。皮付きの炭斗は炉開き・口切にふさわしい。日常の実りを床の道具に転じる、見立ての精神そのもの。茶花の瓢箪・夕顔と地続き。[通]
球体でひらく ──▸夏に釜をかけ湯を沸かす火炉。客から火を遠ざける夏向きの装置で、土風炉(奈良風炉)・唐銅風炉・鉄風炉がある。土風炉は利休が善五郎に作らせた黒・白が侘びに適い、唐銅は真の格で書院に。炉(冬)と風炉(夏)の使い分けが、茶の湯の季節を画する根本の約束。[通]
球体でひらく ──▸何も求めず、計らいを捨てた、ありのままの境地こそ尊い。臨済義玄の語で『臨済録』に「無事是れ貴人、但だ造作する莫れ」とある。一年の安穏を願い、年末年始の茶席に好まれる。「無事」の一字でも掛けられる。[確]
球体でひらく ──▸林檎(文琳)に似た丸い形の唐物茶入。茄子と並んで唐物茶入の上位とされ、東山御物の別帳では茄子四点・文琳十点が筆頭に挙げられた。丸くふくよかな姿に、なだれの釉景が映える。白玉文琳・本能寺文琳などの名物が伝わる。[通]
球体でひらく ──▸大井戸(名物手)の名碗。細川三斎が所持したことに由来する。枇杷色の肌、竹節高台、高台周りのカイラギ(梅花皮)、兜巾など、井戸七つの約束をよく備える。一井戸二楽三唐津と称される井戸の典型で、喜左衛門井戸と並ぶ大井戸の双璧。重文。[確]
球体でひらく ──▸禅僧の筆になる書。茶の湯では掛物の最高位とされ、圜悟克勤・虚堂智愚・大燈国師らの一行物が珍重された。珠光が圜悟の墨蹟を掛けて以来、墨蹟は一会の主題を立てる席の精神的中心。書の巧拙より、その僧の悟境(人格)を床に迎えることに意味がある。圜悟墨蹟・虚堂墨蹟は国宝。[確]
球体でひらく ──▸床に掛けて一会の主題を立てる、茶席の精神的中心。珠光が圜悟克勤の墨蹟を掛けて以来、禅語の墨蹟が床の最高位とされた。紹鴎は和歌の世界から藤原定家の小倉色紙を掛けた最初の茶人で、茶が禅の精神に加え歌道の美意識を取り込む転機となった。『茶道は仏道・歌道かねたるもの』の原点。[通/確:会記]
球体でひらく ──▸檜などの白木を曲げた曲(まげ)水指や、井戸の釣瓶(つるべ)を写した釣瓶水指。木地の清浄さと簡素さが侘びに適い、とりわけ口切や夜咄など清新を尊ぶ茶事に用いる。一度きりの清らかさを尊ぶ、削ぎ落としの思想に最もかなう水指。[通]
球体でひらく ──▸松の緑は古今を通じて変わらない、常住不変の真実の象徴。対句は「竹有上下節(竹に上下の節あり)」で、平等(松)と差別(竹)の渾然一体を示す。夢窓疎石の語と伝わる。『禅林句集』では「松無古今色 竹有上下節」の順だが、出典では「竹有上下節 松無今古青」と前後が入れ替わり、「色」も「青」に作る。[通/語形変化]
球体でひらく ──▸初め松本珠報が所持し松本肩衝と呼ばれ、奈良の塗師松屋に伝わって松屋肩衝となった。徐熙の鷺絵・存星の盆とともに松屋三名物の一つ。数寄者が松屋家に参上して拝見を生涯の念願とした。珠光・利休・織部・遠州の四茶匠が名物裂を添える。胴の四つの垂れを各茶匠が置形に見立てた。根津美術館蔵、重文。[確]
球体でひらく ──▸丸い壺形の唐物茶入。漢作の利休丸壺が名高く、利休が愛蔵した。素朴で力強い丸みが、侘びの美意識に通じる。瀬戸・国焼にも丸壺の写しが作られ、伊賀丸壺などの名物がある。[通]
球体でひらく ──▸高麗茶碗の分類で最も早く現れる手。器面に印花や象嵌で文様を施し、白化粧をかける。細かな文様が三島暦の文字に似ることから三島と呼ぶ。端反りで小さな高台の端正な姿。徳川美術館の『三島桶』(利休所持伝)が名高い。[通]
球体でひらく ──▸点前に用いる清水を蓄える器。唐物の青磁・染付から、信楽・備前・伊賀などの国焼、和物の陶磁まで幅広い。侘び茶の深まりとともに、釣瓶や曲げなど素朴な見立ての水指も尊ばれた。釜と対をなし、点前座の景を構成する。[通]
球体でひらく ──▸水を掬えば手の中に月が宿る。無心に対象と一体となる心境一如の妙を示す。対句は「弄花香満衣(花を弄すれば香衣に満つ)」。原典は唐の于良史の詩「春山夜月」(『全唐詩』)で、本来は春の夜の風雅を詠んだ句だが、これが『虚堂録』に引かれて禅語となった。月にちなみ秋の茶席に最も多く掛けられる。[確]
球体でひらく ──▸臘月(陰暦十二月)はみるみる暮れてゆく。歳月・命の無常を見つめ、一日一日を疎かにするなという戒め。『虚堂録』巻一に「香林…看看臘月尽く」とあり、明覚禅師『続灯録』にも見える。年末の茶席の定番。[確]
球体でひらく ──▸朝鮮半島で焼かれ日本の茶の湯で珍重された茶碗の名品群。松屋会記の天文六年(1537)に高麗茶碗使用の明確な初例がある。井戸・呉器・三島・粉引・刷毛目・熊川・斗々屋など多彩。1550年代から急速に使用が増え、侘び茶の主役となった。倭館窯で日本向けに作られたものも多い。[確]
球体でひらく ──▸茶杓は作者・銘・筒・節・櫂先の撓めに、削り手の人格と茶境が宿る。義政の笹葉、珠光の茶瓢、紹鴎の一閑、利休の泪、織部の宗句参、遠州の水の江など、歴代の茶人が自ら削った茶杓が伝わる。節を中ほどに置き、樋を通し、皮を残す削りの一つ一つに作者の美意識が表れる。最も雄弁な一本。[通]
球体でひらく ──▸真理は何ひとつ隠されることなく、明らかに、堂々と眼前に顕れている、という悟りの境地。『圜悟語録』に「明歴々露堂々…」とある。季節を限定しないが、月や雪が一切を露わにする秋・冬に掛けられることが多い。「明歴々」だけの形も多い。[確]
球体でひらく ──▸山は山、水は水として、それぞれが本性のままに完結している。分別を超えて再び見たありのままの世界を示す。青原惟信禅師の「老僧三十年前…見山是山、見水是水」の段(『五灯会元』『続伝灯録』等)に基づく。通年で用いうるが、山水の景が澄む秋にも好まれる。[確]
球体でひらく ──▸建窯の天目で、釉面に油の滴のような銀色の斑点が無数に浮かぶ。曜変に次ぐ格をもち、関白豊臣秀次旧蔵の油滴天目は国宝。書院の台子点前に天目台に乗せて用い、唐物の格式を象徴した。建盞(けんさん)の名で『君台観左右帳記』に格付けされる。[確]
球体でひらく ──▸漆黒の釉面に銀色の斑が瑠璃光を放つ、天目の最高峰。『いかにもくろく、こきる、うすきるりのほしひたとあり』と記される景。現存するのは静嘉堂(稲葉天目)・藤田美術館・大徳寺龍光院の三碗のみで、いずれも至宝。建窯の窯中の偶然が生んだ、再現不能の星空。[確:現存三碗]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸南宋建窯の曜変天目。漆黒の釉に瑠璃色の斑紋が群れ、虹色の光彩を放つ。完全な曜変は世界に三碗(いずれも日本伝来)しかなく、これはその筆頭。徳川将軍家から春日局を経て稲葉家に伝わり「稲葉天目」と呼ばれる。唐物茶碗の最高峰にして、再現不能の窯変の奇跡。国宝。[確]
球体でひらく ──▸足利義政所持で東山名物に列した古瀬戸肩衝。信長・秀吉を経て、秀吉が小牧長久手の役後に家康へ贈り、家康が尾張徳川家祖義直に与えた。大振りで背高く、ほぼ円筒形。赤味がかった金気釉地に黒釉がむらむらとかかる。徳川美術館蔵。古瀬戸が唐物と並ぶ価値を得た例。[確]
球体でひらく ──▸利休が長次郎に作らせた、轆轤を使わず手で捏ね箆で削り低温で焼く茶碗。わずかな歪みや手のあとが残る。黒一色に余分を削ぎ落とした黒楽は、侘びの思想を器そのものに結晶させた。見立てから創造へ——茶の湯のためだけに道具を新たに作る段階に踏み込んだ画期。大黒・無一物・俊寛などが代表作。[確:現存作]
球体でひらく ──▸ もっと詳しく ──▸樂家の四代で、三代道入の子。父の華やかな作風を受けつつ、より落ち着いた品のよい茶碗を作った。黒楽の釉に朱色がのぞく『朱釉』の景色を得意とし、静かな趣をもつ。歴代の中では穏やかな作風で知られる。[確:四代]
球体でひらく ──▸樂家の十四代で、十三代惺入の長男。父の釉薬研究を受け継ぎつつ、戦中戦後の困難な時代に家を支えた。確かな技で端正な茶碗を作り、楽美術館の設立に向けた歴代の作の保存にも力を注いだ。次代の直入へと、現代の楽をつなぐ橋渡しの役を果たした。[確:十四代・生没年]
球体でひらく ──▸樂家の十六代で、当代の樂吉左衞門。十五代直入の長男として生まれ、歴代の伝統を受け継いで楽茶碗を焼く。父が押し広げた自由な造形と、長次郎以来の侘びの厳しさのあいだで、いまの楽の姿を探りつづけている。代々受け継がれてきた『樂』の字印を継ぐ、現在の当主。[確:十六代・当代・生年]
球体でひらく ──▸樂家の十一代。幕末から明治の世の移り変わりのなかで家を支え、長く活躍した。多彩な釉や技を試み、歴代の作を学んで、楽の伝統を近代へとつないだ。[確:十一代]
球体でひらく ──▸楽茶碗を焼く樂家の、代々の当主をまとめた呼び名。初代長次郎に始まり、千家の侘び茶と歩みをともにして、京都で代々続いてきた。二代常慶が徳川家から『樂』の字の金印を受けてのち、その印が代々受け継がれている。歴代それぞれに作風の個性があり、三代道入(のんこう)の華やぎ、本阿弥光悦の自由、十五代直入の海外への挑戦など、楽の歴史は一様でない。長次郎・常慶・道入・一入・宗入・左入・長入・得入・了入・旦入・慶入・弘入・惺入・覚入・直入と続き、当代の十六代樂吉左衞門にいたる。[確:樂家の継承・十六代まで]
球体でひらく ──▸樂家の十二代で、十一代慶入の長男。明治から昭和のはじめにかけて家を継ぎ、長く当主を務めた。父の作風を受け継ぎながら、なだらかで柔らかな箆使いの茶碗を残した。世が大きく変わるなかで、楽の伝統を絶やさず次の代へと渡した。[確:十二代・生没年]
球体でひらく ──▸樂家の六代。器用で多彩な作風をもち、歴代や名工の手を写すことに長けた。さまざまな釉や形を試み、楽の表現の幅を広げた。左入二百という、自作を集めて配った試みでも知られる。[確:六代]
球体でひらく ──▸樂家の十五代。十四代覚入の長男で、十五代樂吉左衞門を長く名のった(隠居後は直入と号す)。歴代の伝統を深く受けとめながら、自由で前衛的な造形へと楽の世界を大きく押し広げた。国内にとどまらず海外でも作陶や個展に挑み、楽焼を世界へ問うた。滋賀の佐川美術館には、みずから設計に関わった茶室と展示空間がある。当代に家督を譲り、楽の今を切り拓いた人。[確:十五代・生年・海外での活動]
球体でひらく ──▸樂家の二代。初代長次郎の跡を継ぎ、徳川将軍家から『樂』の字の金印を受けて、樂家の名と家業を確立した。この金印が以後の歴代に受け継がれる。古田織部の好みを採り入れて、長次郎の厳しい作風から幅を広げ、白濁した香炉釉と呼ぶ釉を生み出した。本阿弥光悦とも親しく、徳川家への取り次ぎは光悦の助けによると伝わる。[確:二代・金印拝領]
球体でひらく ──▸樂家の十三代で、十二代弘入の長男。釉薬や技法の研究に深く打ち込み、歴代の伝統を学びなおして数多くの茶碗を残した。みずから機関誌『茶道せゝらぎ』を著し、楽焼の研究と普及に努めたことでも知られる。学究の人として、楽の歴史に確かな足跡をのこした。[確:十三代・生没年・研究と著述]
球体でひらく ──▸樂家の五代。初代長次郎の作風に立ち返ることを志し、黒楽の厳しく深い味わいを追い求めた。釉を厚くかけ、長次郎をしのばせる重厚な茶碗を作った。歴代の中で、初心に帰る姿勢を示した代として知られる。[確:五代]
球体でひらく ──▸樂家の十代で、九代了入の子。父の確かな技を受け継ぎ、洗練された端正な茶碗を作った。紀州徳川家の御用を勤めたことでも知られる。[確:十代]
球体でひらく ──▸本阿弥光悦作の白楽茶碗。胴から裾にかけての火変わりが富士の雪景に見えることから不二山と銘された。光悦が娘の嫁入りに持たせたと伝わり、ただ一つ光悦自身が銘した茶碗とされる。楽の枠を超えた造形美を持つ。サンリツ服部美術館蔵、国宝。[確]
球体でひらく ──▸樂家の七代。ふくよかでおおらかな作風をもち、大ぶりで力強い茶碗を多く作った。釉は厚くつやがあり、温かみのある景色をなす。[確:七代]
球体でひらく ──▸樂家の八代。父長入の跡を継いだが、若くして亡くなり、家督を弟の了入に譲った。作例は多くないが、端正な茶碗を残した。[確:八代]
球体でひらく ──▸樂家の三代で、通称をのんこうという。歴代のなかでも随一の名工とうたわれた。初代・二代の作風に工夫を加え、薄く軽やかに作り、釉に艶を出して、黒楽に朱や火変わりの景色を生んだ。その明るい華やぎは、長次郎の沈んだ厳しさとは異なる新しい楽の姿を開いた。のんこうの名は、千宗旦から贈られた竹花入の銘に由来すると伝わる。長次郎の七種にならって、のんこう七種が選ばれている。[確:三代・名工/通:のんこうの名の由来]
球体でひらく ──▸樂家の九代。歴代のなかでも名工とうたわれ、楽の中興と称される。箆(へら)で削る技に冴えを見せ、力強く鋭い造形の茶碗を生んだ。長い活躍のあいだに作風を深め、後世の手本となった。[確:九代・名工]
球体でひらく ──▸利休が尻膨茶入を好み二つ所持したうちの一つ。桐箱に細川三斎の墨書「利休尻ふくら」があることからこの名がある。利休没後に徳川家康が入手し、関ヶ原の戦功を賞して秀忠から三斎に下賜された。利休の茶を最も忠実に継いだ三斎の手に、利休愛蔵の茶入が渡った。裾までたっぷりと紫黒色の釉が掛かり、瓶子蓋がふっくらと大きい。細川家三名器の一つ。[確]
球体でひらく ──▸柳は緑に、花は紅に、それぞれの本性のままに在る——あるがままの自然がそのまま真実であることを示す。北宋の蘇軾(蘇東坡)の詩句「柳緑花紅真面目」が起源とされるが、初唐の薛稷の詩に「花紅柳緑」と前後逆の形でも見え、原典の特定には諸説ある。入矢義高監修『禅語辞典』は『花紅柳緑』ともいうと解説する。[通/出典諸説]
球体でひらく ──▸フィリピン、すなわち呂宋を経て日本へもたらされたやきもの。実際はタイや南中国の産も交じっていたらしい。素朴な土味に褐色や黒褐色の釉がかかり、形のゆがんだものが多い。茶人はこの野趣を『呂宋の姿』として愛で、高い値で取引した。呂宋の壺は茶壺(葉茶壺)として殊に名高く、堺の豪商らが競って求めた。[通]
球体でひらく ──▸日本の中世から今に続く、代表的な六つのやきものの産地をまとめた呼び名。陶磁研究者の小山冨士夫が提唱した。瀬戸・常滑・信楽・備前・丹波・越前を指す。いずれも平安末から鎌倉のころに始まり、壺・甕・摺鉢など暮らしの器を焼き続けてきた古い窯で、桃山以降に茶陶の名産地ともなった。伊賀は信楽と地続きで同じ系統のため、六古窯では信楽に含めて数える。瀬戸だけが釉をかける施釉陶で、ほかは焼締めを主とする。[確:六窯の構成・提唱者]
球体でひらく ──▸