千利休
せんの りきゅう / 大成した人
堺の納屋衆(倉庫商)魚屋の生まれ、田中与四郎。商人・宗易として名物を商う目利きであった前半生を経て、五十歳前後で信長の茶湯者となり、秀吉のもとで栄達した。二畳の待庵、手捏ねの楽茶碗、躙口、竹の花入——簡素・対等・関係性という一つの思想を、空間と道具のかたちにまで徹底した。『利休』号は天正十三年(1585)、宮中茶会に際し正親町天皇から与えられた居士号。[確:待庵・楽茶碗・栄達]
千利休(一五二二 ── 一五九一)。顔は描かない。容貌を伝える確かな像は無い
- 生没年
- 大永二年(一五二二) ― 天正十九年二月二十八日(一五九一年四月二十一日) 享年七十
- 出自
- 和泉国 堺の納屋衆(倉庫商)「魚屋」の生まれ。本名 田中与四郎
- 名・号
- 宗易 ── のち利休。天正十三年(一五八五)、宮中茶会に際し正親町天皇より賜った居士号
- 師
- 北向道陳(一五〇四〜六二)── 『山上宗二記』に見える。能阿弥流の書院・台子の茶
- 師
- 辻玄哉 ── 紹鴎門。「小壺の大事」を相伝。近年は実の師とする説が有力
- 通説への留保
- 「武野紹鴎の直弟子」という系譜は、現在の研究ではほとんど支持されていない(一章)
- 仕えた人
- 五十歳前後で織田信長の茶湯者に ── のち豊臣秀吉の茶頭
- 政権での位置
- 「公儀の事は秀長、内々の事は宗易に」(大友宗麟)
- 養子
- 千少庵
- 主な弟子
- 古田織部、細川忠興
- 現存する作
- 妙喜庵 待庵(国宝・二畳)── 確証ある利休作の茶室は、現存これのみ
- 後裔
- 孫・千宗旦 ── 表千家・裏千家・武者小路千家
- 最期
- 木像の磔と梟首は同時代史料で確実。切腹そのものを記す確実な一次史料はない(五章)
深く知る ── はじめに
和泉国 堺の納屋衆「魚屋」に生まれ、田中与四郎といった。名物を商う目利きとして立った前半生を経て、五十歳前後で織田信長の茶湯者となり、のち豊臣秀吉の茶頭として政権の奥に位置した。室町以来ずっと唐物に置かれてきた茶の湯の価値を、高麗茶碗・樂茶碗・竹花入といった身近なものへ移し替え、茶室を二畳にまで切り詰めて「わび茶」を大成する。町人の出でありながら大名の運命すら左右し、天正十九年、秀吉の命で堺へ蟄居ののち、京へ呼び戻されて果てた。享年七十。
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つながる項目
出典
「はじまりの茶の湯学」千利休(1522–1591)総合資料