茶の湯スフィア 索引人物 / 豊臣秀吉

豊臣秀吉

とよとみ ひでよし / 用いた人

信長の路線を継ぎ、茶を権力の演出に用いた。黄金の茶室を組み立て、北野大茶湯では身分を問わず参加を募った。利休を重用し『内々の儀は宗易』と頼みながら、最後はその死を命じた。侘びと豪奢という両極を、同じ茶の湯のうちに抱えた人物。[通]

生没年
天文六年(一五三七)二月六日 ― 慶長三年八月十八日(一五九八) 享年六十二
出自
尾張国 愛知郡 中村。父は木下弥右衛門と伝わるが、確かな同時代史料はない
木下藤吉郎 ── 羽柴秀吉 ── 天正十四年(一五八六)豊臣姓を賜る
天正十三年(一五八五)関白。翌年 太政大臣
茶の師
千利休。ほかに津田宗及・今井宗久(あわせて三宗匠)
茶頭
利休を筆頭に置き、政権の内側に茶を組み込んだ
主な茶会
禁中茶会(一五八五)/北野大茶湯(一五八七)
造ったもの
黄金の座敷(組立式)/山里丸の茶室/伏見城の茶亭
通説への留保
「黄金の茶室=悪趣味、待庵=わび」という対比は近代以降の見方(三章)
通説への留保
利休賜死の理由を確定させる一次史料は無い(五章)
深く知る ── はじめに

茶の湯を政治の道具として最も徹底して用いた人である。信長が始めた「茶湯御政道」── 名物を集め、茶会を許すことを恩賞とする仕組み ── を受け継ぎ、規模において遥かに超えた。禁中に茶を献じて天皇の前で点て、北野では身分を問わず数百の席を開かせ、そして自らの茶頭であった利休に死を命じた。黄金の座敷を組み立てて運ばせた人と、二畳の待庵を許した人が同一である。この振幅そのものが秀吉の茶であり、どちらか一方を採って語ると像を誤る。

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つながる項目
北野大茶湯 千利休 織田信長 御茶湯御政道 津田宗及 今井宗久 古田織部
出典

「はじまりの茶の湯学」千利休総合資料/織田信長資料

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監修・武井宗道。通説と、史料から確かめられることを分けて記しています。