古田織部
ふるた おりべ / 展開した人
利休の高弟。歪みと破調に美を見出す、へうげものの茶を展開した。利休の引き算を受けつつ、そこに意図的な変形と動きを掛け合わせた。燕庵に代表される台目構えの茶室を確立し、色紙窓を考案、織部焼を生んだ。利休追放の際、淀まで見送った弟子の一人。[通]
- 生没年
- 天文十二年(一五四三)または天文十三年(一五四四) ― 慶長二十年六月十一日(一六一五) 享年七十三または七十二
- ※生年は二説
- 天文十三年説=『龍宝山大徳寺誌』の「元和元年六月十一日、七十二卒」からの逆算/天文十二年説=松屋久重『古織公伝書』の「慶長廿年卯六月十一日 七十三歳 古織殿 卯ノ年ノ人ナリ」からの逆算。どちらも寺院・茶人の私的文書で、公式記録ではない
- 名
- 重然(しげなり)。若年の通称は左介
- ※注意
- 江戸期の史料には松坂城主 古田重勝との混同が多い。「重勝」は別人
- 出自
- 美濃の国人領主 古田重定(勘阿弥)の子。のち伯父 重安の養子。古田氏はもと土岐氏に仕える
- 父
- 『古田家譜』は勘阿弥を「茶道の達人也」と記す
- 妻
- 摂津茨木城主 中川清秀の妹 仙
- 「織部」の名
- 従五位下 織部助の官途に由来するとされる。ただし織部が「織部正」と自署した史料はなく、叙任を示す公式記録も残っていない
- 師
- 千利休。利休七哲の一人(表千家四代 江岑宗左『江岑夏書』)
- 主な弟子
- 小堀遠州(「織部第一の弟子」と称される)/徳川秀忠/伊達政宗/佐竹義宣/金森可重/毛利秀元/浅野幸長/上田宗箇/本阿弥光悦/近衛信尋/常胤法親王/本願寺教如
- 最期
- 大坂夏の陣後、切腹。徳川方の武将で切腹を命じられたのは織部ただ一人
- 墓
- 大徳寺 玉林院に葬られた。現在その墓地は三玄院の寺域にある
深く知る ── はじめに
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕えた美濃出身の武将であり、利休の死後は「天下一の茶人」と呼ばれた。歪んだ茶碗に代表される破調の美意識は、同時代の記録に確かな裏づけがある。一方で、道具をわざと壊したという類の逸話の多くは、没後八十年から百十年を経た江戸の編纂物に由来する。大坂夏の陣ののち、豊臣方への内通を問われ、一言の弁解もせずに切腹した。ただし内通の実態を示す一次史料は、いまも見つかっていない。
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つながる項目
出典
「はじまりの茶の湯学」茶道四祖伝書 講義資料(織部伝書)