村田珠光
むらた じゅこう / 開いた人
奈良の出身。称名寺に入るが、茶や遊興に熱中して寺を出た。素性の知れぬ一人の数寄者として、唐物一辺倒の世に、和漢の境をまぎらかす取り合わせを持ち込んだ。弟子へ宛てた『心の文』に「此の道、第一わろき事は我慢偏執なり」と記し、まず先人の美を敬う謙虚さを説いた。涅槃経の「心の師となれ、心を師とせざれ」で結ぶ。茶を嗜みから道へ引き上げた。[確:心の文/通:事績]
- 生没年
- 応永三十年(一四二三) ― 文亀二年五月十五日(一五〇二年六月十九日) 享年八十
- 出自
- 大和 奈良。父は村田杢市検校と伝わる(『茶事談』。素姓は確かでない)
- 名
- 童名 茂吉。「珠光」は僧名で、姓ではない ── 僧であるから本来 苗字を持たない
- 名の由来
- 『観無量寿経』の「一一の珠、一一の光」に拠るとされる ── 浄土の経である(三章)
- 寺
- 十一歳で奈良の称名寺に入る ── 浄土宗の寺である
- 没した記録
- 称名寺の位牌「独蘆軒南星珠光西堂 文亀二壬戌年五月十五日」
- 享年の根拠
- 『山上宗二記』「珠光ハ八十ニテ逝去ス、雪ノ山カ」
- 同時代の痕跡
- 山科家の記録に「珠光」「珠光坊」の名が見える。実在を裏づける数少ない一点(一章)
- 本人の言葉
- 『心の文』(古市播磨法師宛の一紙)── これ一通のみ。原本は現在 所在不明
- 「開山」の初出
- 『山上宗二記』(天正十六年ごろ)── 珠光の死から八十六年後
- 通説への留保
- 足利義政への茶湯指南、一休宗純からの圜悟墨蹟授与は、いずれも同時代史料に裏づけがない(二章)
- 養子
- 村田宗珠 ── 興福寺尊行院の下部の出という
- 主な門弟
- 古市澄胤・松本珠報・篠(志野)・石黒道提・粟田口善法・鳥居引拙(『山上宗二記』)
- 最も知られた言葉
- 「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」── ただし珠光の筆ではない(六章)
深く知る ── はじめに
奈良に生まれ、十一歳で称名寺に入って僧となった。二十歳前後で寺を出、以後は奈良と京のあいだを行き来しながら茶を楽しんだ人である。唐物一辺倒の座敷飾りのなかへ、和物と唐物を並べて置く「和漢の境をまぎらかす」取り合わせを持ち込み、茶を嗜みから道へ引き上げた ── そう語られてきた。だが、この人ほど、確かな史料の少ない大人物もいない。生前の記録はほとんど残らず、私たちが知る珠光像のほぼ全部が、彼の死から八十年以上たって書かれたものである。だからこの一項は、珠光が何をしたかを語る前に、何がどこまで確かめられるのかから始めなければならない。
……
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つながる項目
出典
村田珠光『心の文』/「はじまりの茶の湯学」vol.3 村田珠光講義資料